第17話:知っているはずの景色
Tシャツの裾を軽く整えたまま、
鏡の中の自分を、もう一度だけ見つめた。
「よし......着替えOKだね!」
((──本日の活動開始準備、整いました。))
「そうだね〜......さて、どうしよっか。」
肩をくるっと回してみる。
シャワーと新しい服のおかげなのか、
心も体も、とても軽く感じる。
ゼニスの光が、淡く明度を上げた。
((──遥の気分が良いという主観的状態、
データとしても確認できます。))
「えっ、データでわかるんだ?」
((──はい。動作の滑らかさ、呼吸の深さ、
視線の揺らぎなどから解析可能です。))
「視線の揺らぎまで〜?なんか恥ずかしいんだけど......ふふ」
((──問題ありません。通常観測範囲です。))
「通常観測範囲て......
ホントわたしのこと、よくモニタリングしてるよね~。」
((──遥の状態を把握するのは重要です。))
「ふふっ、ありがとゼニス......」
自然に笑いが漏れて、
部屋の空気がまた少しだけ柔らかくなる。
((──遥の状態変化は、
環境調整や行動提案の精度向上につながります。))
「行動提案って......なんかすごい響きだよね〜。」
((──はい。ですが、最終判断は常に遥です。))
「うん......最終判断はわたしだよね......ふふっ」
((──もちろんです。))
「なんだかんだで、優しいよねゼニスは......うふふ」
淡く揺れる光が、
まるでひと呼吸分だけ、近くなった気がした。
「今日も外に出ようとは思うけど......
どうしよ?どこかオススメってあるゼニス?」
そう口にした瞬間、
ゼニスの光が静かに明度を上げる。
((──外出意欲の上昇、確認しました。
遥の気分に合わせて、オススメスポットの検索をします。))
「あぁ~......でも、あてもなくブラブラするのもいいかも!
そんなのどうかなゼニス?」
((──目的地を限定しない移動も、
心理的リフレッシュとして有効です。))
「でしょ〜?とくに予定もないしね......ふふ」
((──はい。
その場合......近距離での散策ルートを提案することも可能です。))
「提案ね〜......
でも、気まぐれに歩くのも悪くないよ?」
((──では、遥の希望を最優先にします。))
「うん、それがいいと思う!」
テーブルの上に置いていた財布を手に取り、
ホテルの部屋をあとにした。
軽く会釈しながらフロント横を通り過ぎ、
ホテルの外へ。
((くろいわベーカリーの方に行ってみようかな?))
((──遥。メロンパンを買おうとしてますね?))
((う~ん......今日は買わないと思うよ。
どして?もしかして、ゼニス気に入ったのメロンパン?))
((──非常に良いものです。))
((じゃ~、帰りに買って帰ろっ!))
((──遥。良い判断です。))
「ホントに好きじゃん!メロンパン......あはは」
思わず声が漏れ、
外の空気にふわりと笑いが混ざった。
((──遥。声量に注意を。
ここはホテルの部屋ではありません。))
((ついついね~......ゼニスが笑わせるからだよ......))
((──遥が笑う確立を考慮しています。))
((ボケ機能を実装したもんね......うふふ))
((──正式名称ではありません。))
((わかってるよ、ゼニスありがとね。))
ゼニスとの距離は近くなり、
絆みたいなものも、確かに生まれたと思う......。
だけど——
ホテルの前の通りを歩きながら、
聞き慣れたはずの街の音が、
どこか薄いフィルムを挟んだみたいに感じるのは......
やっぱり変わらないみたい。
近くても、遠い。
知っているつもりの世界の音。
そんな感覚が、ふっと胸の奥に沈む。
((やっぱり、聞こえる街の音が遠い気がするな......))
((──聴覚データに問題はありません。))
((だよね、ゼニスが言ってるから間違いないよね......))
歩きながら、ふと視線を上げる。
ビルの壁、道路の白線、通りに並ぶ看板——
全部ちゃんと、そこにあるはずなのに、
どこか、色が一枚だけ薄いフィルムを通したみたいに感じた。
((......景色も、なんか薄い気がするんだよね......))
ゼニスの淡い光が、静かに揺れる。
((──視覚データも正常範囲です。))
((......そっか。うん、そうなんだよね......))
違和感は、たしかにある——。
でも、考えすぎるのもよくない。
そう思うことにすれば、きっと大丈夫。
自分を納得させるみたいに、
そっと胸の奥で自分を落ち着かせた。
歩幅を少しだけ整えて、
前を向いて歩き出す。
((──遥。呼吸、脈拍、安定しています。))
((うん、わたしは元気だよ!))
((──良い傾向です。))
((心配させちゃったよね?))
((──はい。遥の状態把握は最重要事項です。))
((そこは、心配しました~とかでいいんじゃないの?......ふふ))
ゼニスの光が、一瞬だけ揺らいだ。
まるで言葉を選ぶように、ほんの間があく。
((──......遥の変化には、常に注意を払っています。
重要な情報なので。))
((それが、ゼニスの優しさだもんね。))
気づけば、
ひより医科大学付属病院の前まで来ていた。
((なんか久しぶりに感じるね~))
((──はい。))
((この先に公園があったような気がするんだよね......))
((──はい。ひより緑地公園があります。))
「だよね~!ちゃんと覚えてた......あはは」
((──遥。声量に注意を。))
((ごめんごめん......ついね......ふふっ))
((──ひより緑地公園に行ってみますか?))
((いいね~))
そのまま足を向けて、
ゆっくり歩き出す。
病院の前を通り過ぎ、
少し進むと、木々の緑が視界に混ざってきた。
緑の鮮やかさも、少し色あせているような......
風に揺れる葉の音も、遠く感じてしまう。
((──到着しました。ひより緑地公園です。))
((なんか、久しぶりだな......当たり前か......うふふ))
そのまま園内を少し歩くと、
近くのベンチが目に入った。
木漏れ日の下に置かれたそのベンチは、
綺麗で、どこか新しく見える。
まだ誰も使ったことがないような——
そんな風に感じた。
((とりあえず、ベンチに座って休もうかゼニス?))
((──良い判断です。))
腰を下ろした瞬間、
ゼニスの淡い光が視界の隅でゆるやかに揺れた。
知っている場所のはずなのに、
知らない場所のような不思議な感覚。
──そんな違和感が、そっと胸の奥に漂った。




