HOPE
「世界一周です」
喫煙所で毎日見かける中年男は何をしているのかを問われてそう答えた。
喫煙所での少し不思議な会話劇。
手をすり合わせる動作は、彼女がすれば祈りの様で、しかし俺がすれば蠅の様相。自覚はあるけれど、手袋は家に忘れてしまった。両手に吐息を吹きかけてみても、湿った温もりが不快で、ラッキーエアーの、あの無機的な冷たさが恋しくなる。今日は四万つぎ込んだというのに、残念ながら縁がなかった。俺のより一層の活躍をうんぬん……ここ半年で見飽きた文言に接続してしまうのは、きっと少し疲れているからで、自然に漏れたため息だってまた温い。
喫煙所の花壇に腰を掛けて、少し遠くにぽつりと老人と中年の男が一人ずつ。俺は冬の空が嫌いではなくて、その青色で季節を言い当てられる自信が、あったりなかったりする。ただし今日は生憎の曇り空。俺はそこに趣を見出せるほど粋な人間ではないようで、空っぽになった財布と、空っぽの胃が、そういう感性すら濁らせるのだと思う。こんな日の喫煙所はいつもの何倍も薄汚い。灰皿に突っ込まれたフィルムとか空箱が、吐瀉物とさして変わらなく見える。それは人間も同じで、平日昼からこんなところにいるというのが、まぁ気に食わない。
中年男はスーツなんかとは程遠い、薄汚い黄色のパーカーとダウンジャケット。毎日毎日この格好だ。もう一人の老人が着ているのは、なんていうのか知らないけれど、老人しか着ない老人の為の服を着ていて、茶色一色だから焼き魚みたいな風貌。ひょろひょろだし、歩くの遅いし。
勝った日はこんな二人にだって話しかけたくなるのに、負けに負けた今日みたいな日は普段以上に不審な人間達に思えて、視界にすら入れたくない。入れたくないのだけれど百円ライターの頼りない炎は冷たい風に揺らされ、消えては、また付けて、消えたと思ったらもう付かなくなったりして。そんな炎じゃ温もりには期待できないし、煙草に火をつける事すら困難だった。思わず舌打ちが漏れる。イヤホンから流れるごちゃごちゃした音楽も、感情を加速させる。
煙草はもう口に咥えてしまっているのだ。今からライターを買いには行きたくない。焼き魚みたいな老人を見て、今度は中年男を。一度覚えた印象がそんな簡単に覆るはずもない。
目を瞑り、鋭く息を吐いた。冷たい息だったと思う。ワイヤレスのイヤホンをケースに戻す。こういう時は必要以上の時間が欲しくて、だから片耳だけ外すとか、音楽を止めるとか、もっと手軽な方法を意識的に拒否した。どうしようか。どうしようか。時間があっても、そんな疑問詞が頭の中で三周するまでは何も考えられない性分で、結局、俺は選べるのなら老人に話しかけたいと思って、中年男にはえも言えない不吉とはまた違う、雨の予感のしない曇天、つまり今日の空みたいなぬめりとしたイヤな雰囲気があるから。そしてなによりこの中年男は俺が毎日この喫煙所に来ればこの格好のまま毎日そこに居るのだ。俺がエヴァで二万発出した日も、新台のからサーにストレートで五万円飲まれた日も、昼も夕もいつもこの男はここに居る。地縛霊めいたその存在は、やはり不吉だし不気味だった。けれどこれは運命みたいなものなのだろう。三日に一回くらいのペースで見かける老人はまだ長いメビウスの一ミリを灰皿に放り投げて歩き始めてしまった。
縋るように今一度からからとフリントを回してみても、軽い音しか返ってこない。咥えたHOPEのフィルターには俺の唾液がしみこみ始めている。どうやら覚悟を決めなければならないようだ。
俺はそういう経緯で、この半年間毎日顔を合わせている中年男に、はじめて声をかけたのだった。
2
「失礼かもしれないんですけど、毎日何してらっしゃるんですか?」
こんな問い、どれだけ時間を貰っても不器用にしかならない。思ったより明るい声色と共にライターが差し出されたものだから、「ありがとうございます」の後の空白に一分以上は耐えきれなかった。イヤホンを装着しなおすのも、なんだか違う気がして、それならばと、おもわず口を吐いた。だからこれは恣意的と意識的の狭間からやってきた質問で、かねてより相当に気になっていた事でもあった。しかし、もっと深く考えるのなら、俺の不安の現れなのかもしれない。
大学を辞めて一年間、バイトもせず実家に引きこもった。理由は自分でも分からない。他人に説明する時は簡単に失恋って言葉を使うけれど、それだけじゃないと思う。俺が彼女から手ひどく振られたことはあくまできっかけでしかなくて、というかそんなこと大したことのないはずなんだ。そこに至る過程の方が何だか俺にはショックだったのか? そうだったのだろう。けれどそれだって、もうしょうがなかったことでしかなくて、なんだか大学に遅刻するようになって、それはただ、身体が重かったから。授業を受けられても落ち着いて座っていられなくて頻繁にトイレに行ったのも、まぁなんというかちょっとだけ不安定だったのだ。大学を辞めたのも、それから一年間実家に引きこもったのも、その不安定をほんのちょっとだけ拗らせてしまっただけなのだ。
だからほら。今は元気に毎日パチンコに通えているし、就活だって始めた。誤算があるとすれば、お金は簡単に俺から離れていってしまうことと、新卒カードを破り捨てた後の就活が想像の何倍も困難でかつ、ゴミみたいってことぐらいで、もう、このままじゃダメなんだ。それは言葉になったり、ならなかったり、頭から吹っ飛んで行ったり、けれど布団の中では、鼠を捕食せんとする蛇みたいに、俺を絞めつける。俺は何物でもない俺に耐えられる人間ではなくて、社会からの焼き印でも何でもいいから、生きてていいと、誰かに言ってほしかった。
「毎日ここで見るなって思って、俺、パチンコ帰りにここに来るんですけど、いつもいるので」
中年男からは返事に困っている様子が見て取れて、そう言うのが分かりやすい人だった。唇が少しひきつって、けれどそれは微笑以上のものを形作らない。瞬きが多くなって、舌で唇をなめた。
やはり聞くべきではなかった。俺は申し訳ない気持ちになった。人が好奇心を向けるようなことの、たいていは隠しておきたいものだ。だから触れないことが、きっと出来るすべてで、じゃあ、でも、俺の気持ちは何処に流せばいいのだろう。加虐性を吐き出すすべを知らない俺は、やはりろくでもなくて、ごめんなさいとだけ言おうと思った。悴んだ指をポケットの中で擦り合わせて、唾を飲み込んだ。言ったならば。急いで煙草を消して、ここから立ち去ろうと、そう思った。俺の喉を空気が通過して、後は音になるだけだったが、しかしそこで男は口を開いた。
「いいんです。こういう質問されるの初めてだったので、ちょっと驚いてしまって」
驚いたというのは本当なのだろう。彼が言葉を吐いて、その後には穏やかな笑みがあって、目元までクシャっとしたその笑い方は、なんだか丁寧すぎる印象を受けるのに、どうしてか自然で、柔和な雰囲気を醸し出していた。不吉がどうこう言っていたのが申し訳なくなるほどだ。
そうやって、彼をもう一度見つめてみると、案外その所作一つ一つが気を使ったものに見えてきて、その上他者にどうみられているか、過剰にならない程度に意識できている気がして、それは就活中の俺が何より求めている物のような気がした。
「すみません。なんか。それで、結局、何をなされてるんですか?」
男は上品にタバコを燻らせた。それに合わせて俺も煙を吐き出す。HOPEは俺の常喫で、胸ポケットに入るそのサイズとか、簡素なデザインとか、指先に挟んだ時の安心感とか、味以外の部分が気に入っていた。彼はそういえば何の煙草を吸っているのだったか。特に特徴のない真っ白なそれを右手に、彼は煙を吐き出しきって、微笑を湛えたままに言う。
「世界一周です」
俺の手が止まった。煙草を挟んだ指まで、芯が通ったように、唇の前で。少し思案して、もう一度煙を吸い込み直す。
「世界一周?」
「はい。世界一周です」
思わずそのまんま聞き返してしまったのに、そのまんまが返ってきた。当たり前に、頭の中ではまだ整理がついていないから、何を聞けばいいのかもわからなくて、そうやって少しできた空白の間に、木の葉が触れる音が割り込んできて、未だ木々に葉っぱが残っているのかと、それが不思議なような当然のような、けれど今日の風の調子ならば、明日はどうだろう。明後日はどうだろう。春まで残っていることはあるのだろうか。
次の言葉を吐くまで、彼は当然みたいな立ち姿でそこにいて、俺は何度か首を捻って、その度に軽い音が鳴った。ただ、少し間をおいてみても、それでも結局また同じ質問を繰り返すことになった。
「今、世界一周中なんですね」
「現在進行形です」
俺の口から煙が垂れ流されるように吐き出されて、その様は加湿器の様だったろう。冬の風が冷たいのか、身震い一つ。対照的にやはり彼は泰然としてそこにいた。
「それは、今まさに、世界一周をしているって解釈で間違いないですか?」
「はい。今まさに世界一周中です」
「あぁ。そうですか」
太陽が隠れている空の下、それだから俺は空を見据えることが出来て、そうやって記憶を巡らせる。俺はいつからこの中年男を認識し始めただろうか。少なくとも俺がパチンコに行き始めたのは半年前で、その時は初めてのパチンコ。興味本位でしかなく、ただの暇つぶしのつもりだったのに、まどマギに三万円も入れてしまって、それは今思えばくだらないけれど、本当にこの世の終わりのような気持ちだった。なんてことをしてしまったんだって罪悪感と、もう引き返せないって囁く誰か。肺の中の空気を全部吐き出さないと、紙幣を持つ手が震えて、だってこれは俺の全財産だった。幸い、その後すぐに当たって、ラッキートリガーにぶち込んで、初めて体験した八十六%はほぼ無限だった。
その日の収支を大幅プラスにした俺は、勝ちの余韻と興奮を覚えたままに、この喫煙所で二本煙草を吸った。その時にもこの中年男は居たような気がするし、それ以来勝っても負けても、パチ屋の帰りはここで煙草を吸うようになって、初めて五万負けた日も、十万勝った日も、どの記憶の中にもこの中年男はいた。
つまりこの男は少なくとも半年間この街に住んでいて、けれど世界一周の途中だという。一つの街に半年いるのんびりとした世界旅行。もしかしたらそう言うのもあるのかもしれない。例えば、この男が見かけによらず億万長者で、それは宝くじに当たったのかもしれないし、もしかするとどこかの世界の成功者なのかもしれない。ともかく世間から少し離れた場所に存在することの赦される人間なのだとしたら、そういう世界一周だってあり得るのかもしれない。
「どれくらいこの街にいるんですか?」
失った会話のテンポを取り戻すような調子で問う。
「どれくらいって、そうだな。多分、二十年は居ると思います」
平然と彼は答えて、俺は反射的に何度か頷いた。ズレた会話のテンポは、もう戻らないだろう。二十年この街に住んでいるこの男。きっと俺がパチンコに通うその前から、もしかすると俺が産まれて、物心ついた、その時から彼はずっとこの喫煙所に通っているのかもしれない。
未だ煙草の火が消えるまでは、幾分か時間があって、それにまだ俺の中での彼の立ち位置が定まっていなかった。
「世界一周は、いつから?」
「三十年前くらいになりますかね」
「日本以外はもう巡ったんですか?」
「いや」
否定が返ってくるとは思っていた。しかし言葉になって事実になってしまうと、やはり虚をつかれてしまう。追いつこうと思っているのに遠ざかっていく。蜃気楼みたいな会話だった。
煙は気管を通って、肺に至り、血管へ成分が吸収される。確信だってそのように得られて、彼は、間違いなくまともではない。
「日本しか未だ巡れてないですね」
「日本広いですもんね」
俺の中での彼の立ち位置はそこで固まって、よく見ればやっぱり格好は汚いし、動作はウスノロなだけで、上品さとは似て非なるものだった。まず、上品な人間はそんなくちゃくちゃなパーカーを着ないだろうし、そこに合わせた黒のダウンジャケットだって、またくたびれていて、煎餅布団のようだ。張り付いた微笑だって、不自然にそこから動かない。それは真っ当な人間の表情ではないと思う。
「というより未だ東京しか巡れてなくてさ」
「東京広いですもんね」
煙草を持つ手を、右から左に変えた。ポケットの中に逃げ帰ってきた指先は、痛むほど冷たかった。それでも不思議と俺はここから立ち去りたいとは思えなかった。むしろ、彼にまだまだ質問をぶつけたく思っていて、どうしてか自然に口角が上がっていた。
「今後の計画とかは?」
「その場その場で決めていくのも旅の醍醐味ですからね」
「住んでいるのは?」
「実家に住んでいます」
「英語とかは?」
「日本語しか話せないですね」
質問を重ねていくうちに、俺は彼の自己認識を認めてやりたく思ってきた。もしかするとそれは恐れからくる行動ともいえるかもしれない。しかしその大部分は戯れであり、単純に面白くなってしまった。小学生の頃、友人が語る武勇伝にホームレスに石を投げて、自転車で追っかけ回された。なんてものがあって、彼によると仲間の何人かは捕まり、どこかへ連れ去られてしまったとか何とか。俺はそれを聞いて身震いしたし、不道徳的なものに対する嫌悪感みたいなものも抱いたのだけれど、しかし今の俺の行動は似たようなものに基づいている。
俺は俺なりの世界一周の解釈を頑張って拡張しているのに、彼のいる位置はまだまだ遠い。それが恐ろしくて、面白かった。追いついてみたいと思ったし、そこから見える景色を、踏みつけてやりたくなっていた。
「パスポートは高いからので、持っていません」
「電車は、体力使うので苦手です」
「ここ最近で一番遠くは、一時間歩いて隣町の映画館に行ったことです」
「それももう一年前でした」
「毎日歩いてここまで来るのが日課で、他の場所はあんまり興味湧かないんです」
俺の口からついに笑いが漏れた。我慢できなかった。彼はどう解釈したとしても世界一周などしていない。俺は俺の限界を遥かに超えて、それは振り返ってみれば遥かな道のりだったけれども、そこまで譲歩して、しかし彼のいる場所までは辿り着けなかった。このままだと世界中で世界一周していない人間は一人としていなくなってしまう。
彼はどうして俺が笑っているのか分かるだろうか。きっと理解できないだろう。彼の中に矛盾はないのだ。彼は自分が世界一周していると信じ切っている。それがどういう理屈や論理に基づいているのか、俺は知らないが、そう思えてしまう理屈などこの世にあるわけがない。彼は真っ当におかしい人間だ。口調の馬鹿丁寧さだって痛々しい。けれどそのおかしさに気が付かず、そして今も穏やかに笑う。クシャっとした目元はずっと変わらない。彼は一流の道化だった。
俺はもう半ば満足していて、HOPEだって、火がフィルターとぶつかって消えて、既に可燃ごみになっている。
「それで、どうしてわざわざこの喫煙所なんですか? いうて家に居るのとは違います?」
だからこれで最後の質問にしようと思った。別に特別な意味や意図があるわけではない。ただ、これ以上にもう聞くべきことは無いように思える。彼はどうしようもない気狂い。それで決着はついたのだから。
「違いますよ。全然」
彼は笑ったままで言う。指の間から青色のマークが見えた。確かあのマークは、ラキストの青で、安い煙草だ。俺は何度か頷く。彼の右手のそれはまだ辛うじて息をしていて、彼はしゃぶる様に一吸いした。
「喫煙所っていうのは、言ってしまえばほとんど世界みたいなものだと思っています。色々な人が色々に入ってくるからです。例えば貴方のように毎日パチンコに興じる若者や、遅くまで働くサラリーマン。水商売や、完全にカタギではない人間。隙間なく喋る四人組や、六人組、出会ったばかりのカップルから、複数人いてもほとんど口を開かない人達。一人だろうと話し続ける人から、君のように僕に話しかける人」
慇懃無礼なその口調は相変わらず、まともではないように思うけれど、しかし彼は流暢に喋った。ほとんど簡潔な返答しか返さなかった、彼の言葉の組み立てには、破綻は無く、そしてそれは俺の求めていた道化の言葉ではなかった。それがなぜなのか、俺は解らない。ただ、彼の真っ直ぐな視線に俺は固まってしまった。
「僕の事をヤバいやつだって思っていますよね?」
俺の右手は可燃ごみを摘んだまま動けなくなって、辛うじて目を逸らして息を吐いた。
「僕、母子家庭なのに母親の頭がおかしくなっちゃったんです。僕が高校卒業してすぐに」
若年性アルツハイマ―ってやつなんですけど。
「世界一周って言うのは、その前からの夢だったんです」
彼の表情が変わったわけではない。口調も、その温度も穏やかなまま。瞬きの頻度だって増えたわけでも減ったわけでも無い。それなのに俺の脳みそは音が聞こえるくらい鈍っていて、身体だってそう。何も言えないし、言おうとすら思えないまま。
「昔から旅番組とか好きだったんです。小さいころから冒険小説が好きだったのが大きいんですかね。トム・ソーヤとか、ハックルベリー・フィンとか」
男の声は俺ではなく、もっと遠くに向っていて、俺は吸殻を地面に落とした。冬の風はそれでも俺と中年男を等しく撫でて、吸殻までもを転がしていく。
「それでも、やっぱ介護しなきゃなんないじゃないですか。補助金とか年金だけじゃやってけないですし、働かなきゃならない」
そうすると、人間疲れちゃうんです。
「眠る前に、いろいろ考えるんです。何処に行こうか。船に乗ろうか、歩いていこうか。バイクなんかもいい。けれどそれが計画って呼べるほどの形になる前に、眠っちゃうんです。それでまた最初から」
彼が煙草に火をつけたのにつられて、俺も新しい煙草に火をつけてしまった。
「何もできない僕ですけど、そんな日々なんですけれど、そんな中で僕にとって一番世界を感じられる場所が、この喫煙所なんです」
彼はそこで笑った。それは初めて見る笑顔で、空気の抜けた風船みたいな笑い方だった。
それから彼はまた穏やかな表情に戻って、口は閉ざされてしまった。そこにはもう二度と開かないんじゃないかって、そう思わせるような、何かがあった。火を点けたばかりの煙草は、ただ灰だけが長くなって言って、俺は何かを言わないといけないんだと思い至る。
それでも俺は何も言えなかった。会話のボールを地面に落としてしまって、きっと最初に放り投げたのは俺だったのに。もう、ただ、今すぐ立ち去りたいと思った。もう俺は、ただ喫煙所に昼間からいる、何物でもない俺で、そんな俺は、ここに居てはいけないと思った。けれど、自ら動き出すほどの度胸も無くて、ただ長くなる灰を相も変わらず眺めていた。
そんな俺の固まった体をほぐしたのは、笑い声で、それは中年男の、聞いたことのない大げさなものだった。それでいて、長い笑い声だった。心底おかしくて仕方ないみたいな。その笑い声に俺は虚を突かれて、まじまじと見つめてしまう。
彼は一つ息を吐いて、煙を吐ききった。きゅっと目を細めて、それは箪笥の奥にしまいっぱなしの安っぽいTシャツみたいな深い皺だった。
「大丈夫。嘘だからさ」
彼はそう言って、吸殻を灰皿に放り投げた。俺はそれを見つめることしか出来なくて、けれど、確かに去り際に聞こえたのは、やはり俺に向けたわけではない言葉。
「でもさ、もうちょっとだと思うんだ。きっと」
3
数ヶ月後、俺は別に有名でもない会社の、別にやりたくもない営業職に就いた。書類を送り続けるのも、面接で落とされるのも、もう限界だった。採用の文字だけが欲しくて、待遇も恥も外聞も投げ捨てて、応募を続けて、受かったその瞬間、就活を辞めた。
そんな風にして入った会社だから、残業は多いし、人間関係も良好とは言い難い。ただ気の合う人間も数人は居て、きっと普通の職場なんだろうな。と思う。
まだ似合っていないスーツを着て、出社して、帰宅ラッシュより少し遅い列車で、あの喫煙所のある最寄り駅に帰る。実家の布団の中で、一人暮らしの計画をして、時々旅の計画をして、眠って、起きて、それを繰り返す。
悪くない日々だと自分に言い聞かせて、ニート時代を懐かしく思い出す。ただ煙草もパチも辞めていない。休日はあの日々を取り戻さんと、パチンコに行って、勝っても負けても喫煙所に行く。けれどいつからか、あの中年男の姿を見なくなった。
あの冬の日以来、何度も彼を見かけて、しかし声をかけることは無くて、向こうから声をかけられることもまた、無かった。
結局、何が嘘だったんだろう。
全部なのかもしれない。彼は、ただ俺をからかっただけなのかもしれない。けれど、もしかしたら全部本当だったのかもしれない。それを俺は知らない。きっと一生知ることは無い。
ただ、それでも彼が何処かの国の何処かの喫煙所で、話せもしない英語を使って、どうにかコミュニケーションを取ろうとする姿を思い描いて、その姿は愉快だったから、俺はそうあれば嬉しいと思う。そうあって欲しいと思う。
春の風は、俺の吐き出した煙をきっと、どこかの国へと運んでいった。