0023. 閑話・【氏兼】神託と武士の覚悟
先日、御方様が姫君をご出産された。殿にとっては、初めての姫君。男子ではなかったと口ではおっしゃっていたが、そのお顔は、心なしか、いつもよりずっと晴れやかに見えた。この慶事が、病に伏せる若様(喜六様)にも、良き風を運んでくれれば良いのだが。
そんなことを考えていた矢先、殿からの火急の使者が、我が屋敷に駆け込んできた。
「兵部少輔殿、先触れもなく失礼致します! 殿より至急、登城されたしとのご指示にございまする!」
このような急なご指示は今までに無い。何やら良からぬことでも起きたか――。
急ぎ支度を整え登城すると、館はいつもと変わらぬ様子に見えるが、どこか空気が張り詰めている。内密の相談か。
広間に向かうと、殿と御方様がおられた。しかし、御方様はすぐに部屋を出て行かれる。
「殿、氏兼、ご指示により、ただいま罷り越しました。火急な話があると聞き申したが、何が起こり申した」
「氏兼、急くな。他にも話す相手がおるゆえ、真里が呼びに行っておる。来るまで、白湯でも飲んで待っておれ」
やがて、御方様に連れられて、甥の二郎太郎様と御方様の侍女頭であるたき殿までが姿を現した。
そして、物々しい人払い。これはただ事ではない。
「――御使い様の御神託に則り、動いてもらう」
殿の口から語られたのは、にわかには信じがたい話だった。姫君が産まれる前夜、殿と御方様の夢枕に同じ御使いが立ち、同じ神託を授けたというのだ。
だが、殿と御方様の真剣なご様子から、それが真実であることは疑いようもなかった。
しかし、続く言葉に儂は己の耳を疑った。
「――氏兼は社の宮司として、二郎太郎は出仕として、仕えてほしい」
「殿、お待ちくだされ!」
儂は思わず声を上げていた。
「某も二郎太郎様も、里見家を守る武の要。今、上杉方が安房への圧力を強めているこの折に、我らを戦働きから外し、社に籠らせるというのはいかなるお考えか! 御家の防備が手薄になりまするぞ!」
若様も涙ながらに父君の真意を問うている。
だが、次の瞬間、殿の纏う空気が凍りついた。
「――そなたら、この場で腹を切れ」
その言葉に脳天を槌で殴られたような衝撃を受けた。頭が真っ白になり全身から血の気が引いていく。
(き、斬られる……!? なぜ、我らが)
悟りも覚悟もそこにはなかった。ただ、死への純粋な、原始的な恐怖が、儂の全身を支配した。隣で若様が蒼白になって震えているのが気配で分かる。
「切れぬなら、儂が斬る」
殿の手が静かに刀の柄にかかった瞬間、赤子の甲高い泣き声が広間に響き渡った。
その声で我に返られたのか、御方様が殿を必死に諌めておられる。
「も、申し訳ございませぬ! 殿のお言葉を疑ったわけでは……!」
儂はその隙を逃さなかった。若様と共にただ床に額をこすりつけていた。武士の矜持など、とうに吹き飛んでいた。ただ生きたい一心で声を張り上げた。
「どうか、お許しを……!」
座敷牢の冷たい畳の上で儂は己の醜態を思い返し、深くため息をついた。
数日が過ぎた。あの日、御方様のご仲裁と姫君の泣き声のおかげで切腹こそ免れたが沙汰はまだない。
(……情けない限りよ)
あの時はただ恐怖に駆られ、みっともなく命乞いをしてしまった。だが、こうして一人、冷静になってみれば殿の真意がおぼろげながら見えてくる。
話の発端は間違いなく御神託。御二人の様子から、それを授かったのは真であろう。では、なぜ、その内容を我らに隠し、なおかつ我らを武の働きから外そうとされるのか。
殿は我らの命を懸けてでも守らねばならぬ、何か途方もない「秘密」を抱えられたに違いない。そして、その秘密の前では我ら武将の道理や目先の戦の戦略など些末なことに過ぎぬのだ。
そう考えれば、殿の御心を疑い、反発した我らの口を封じるのは当主として当然の判断。これも里見家を守るための一手。
(……武士として、この命、惜しくはない。だが、死ぬ前に、せめてその真意を知りたかった)
そう覚悟を決めた時、静かに襖が開き、御方様が姿を現された。
「氏兼殿。そなたの忠義、殿も妾も、ようく存じております。だからこそ、お話しなければなりませぬ」
奥方様は儂に一つの「真実」を明かされた。儂の浅はかな思考を根底から覆す驚愕の真実を。
「――我が娘、琴は、御稲荷様の〝姫御子〟として、この世に遣わされた御方なのです」
姫、御子……。
その一言で全ての点が線として繋がった。
殿が授かったという御神託の本当の意味。
我ら武の者を戦から遠ざけてでも、果たさせようとした本当の役目。
なぜ、あれほどの人払いをしたのか。なぜ、あれほどまでに口外を禁じたのか。
「……なるほど」
儂は深く、深く、頭を垂れた。
「そういうことでございましたか。この氏兼、あまりに浅慮でございました。殿の御心を測りかね、愚かにも刃向かいましたこと、万死に値しまする」
宮司。それは神に仕えるだけの役職ではない。
これから築かれる社はただの社ではない。姫御子様をお守りする、最も神聖な「城」。
そして、そこに仕える宮司とは、その城を預かり、いかなる敵からも姫御子様を守り抜く「城代」そのものではないか。
殿は儂と二郎太郎様に、里見家で最も重要で最も名誉ある役目を与えようとしてくださっていたのだ。
「御方様。お話、かたじけなく存じまする」
儂は顔を上げた。心の中にあった全ての淀みは、消え失せていた。
「この氏兼、今この時より心を入れ替えまする。姫御子様をお守りする〝宮司〟として、この命、懸けさせていだきます。姫御子様を守る盾となり、いかなる災いからもその御身をお守りする最強の城壁となってご覧にいれまする」
我が武士としての道はここで終わった。
だが、ここから里見家のそして姫御子様の筆頭家臣として、儂の真の戦が始まるのだ。
そう思うと、牢の中の冷たい空気すら、新たな覚悟を固めるための心地よい静寂に感じられた。




