0014. こんにちは赤ちゃん、いきなり人生ハードモード?
重い。瞼が鉛のように重い。
耳に届く音は、全てが水の中にいるようにくぐもっている。誰かの話し声、衣擦れの音、遠くで鳴く鳥の声。それらが混じり合い、曖昧なノイズとなって私を包む。身体は温かい布にくるまれている感覚があるが、手足はまるで自分のものじゃないかのように、ぴくりとも動かない。
なんとか気合で瞼をこじ開けると、ぼんやりとした視界に、見慣れない木目の天井が映った。太く、立派な梁が渡されている。
(……『知らない天井だ』。吾輩は赤ちゃんである。名前はまだ、ない)
よし。前世の社畜OLだった記憶、クリア。思考もはっきりしている。どうやら、私は無事に赤ちゃんとして転生を果たしたらしい。
そして、すぐ近くに感じる、この温かくて柔らかくて、懐かしい気配は……間違いない、狐火ちゃんだ!
イャッホーイ! 心の中で絶叫する。
視線を動かせる範囲で横を見ると、私のすぐ隣で、真っ白な毛玉がすうすうと穏やかな寝息を立てて丸まっていた。ああ、私のモフモフ……!ブラック企業の残業でささくれ立った心を、どれだけこの温もりが癒してくれたことか。やっと、やっと会えたんだ。
体の自由は利かないが、意識だけがやけに冴えている。赤ちゃんの身体は、脳が発達しきっていないからか、思考と身体のリンクが著しく悪い。もどかしい。早くこの手でモフモフしたいのに。
そう言えば、【転生の書】に書いてあった1500年代って、具体的に今が西暦何年で、当主である父上の名前も、里見氏の詳細情報と周辺の大名や豪族との関係性とか、肝心なことを何も聞くのを忘れちゃったなぁ〜。まあ、神様たちが長く観察して楽しみたいみたいだから、直ぐに死ぬような状況では無いのだろうけど、油断は禁物だ。まずは情報収集から始めないと。
その時、ドタドタと、力強い足音が近づいてきた。部屋の襖が勢いよく開けられ、入ってきた大きな影が、私の隣で寝ている母親らしき人に声をかけた。声の響きからして、この人が父親のようだ。
「真里、ようやった! 無事であったか! まこと、よう子を産んでくれた」
その声は、安堵と偽りのない喜びに満ちていた。
「殿……ご心配をおかけしました。わらわも、子も、息災にございます」
母親の声は、疲労の中にも凛とした響きがあった。
「おお、そうか! 男子ではなかったが、このような愛らしい姫が生まれるとはな。まずは健やかに育つことを祈ろうぞ。とにかく、真里も子も無事で何よりじゃ」
父親らしき影が、私の顔を覗き込む。兜こそ着けていないが、武骨で日焼けした、いかにも戦国武将といった顔つきだ。だが、その目元は優しく緩んでいる。
「さて、名じゃが……。まさか姫が生まれるとは思っておらず、姫の名は考えておらなんだな。ううむ……」
父親は腕を組んで唸り始めた。
「今、顔を見て決めるか。そうだ、伏、伏姫というのはどうかの?」
(わたしの名前、考えてなかったのかーい! しかも、よりによって伏姫ですって!?)
冗談じゃない! 前世の江戸時代の創作物語『南総里見八犬伝』に出てくる、悲劇の姫の名前じゃないか! 犬と結婚させられた挙句、自害するなんていうストーリー、まっぴらごめんだ! そんな争いの中心に巻き込まれるなんて、絶対に嫌!
私は言葉にできない全力の拒否を込めて、顔をくしゃくしゃにし、「うー! あー! うぎゃー!」と、赤子に出せる限りの力で唸り声を上げた。
「おや? なんじゃ、この名は嫌なようじゃな。はっはっは、意思の強い姫君よ」
父親は驚いたように目を見開くと、面白そうにふっと笑った。
「そうか、そうか。では、琴、琴姫というのはどうじゃ。美しい琴の音のように、人の心を和ませる子になるように」
琴――。
【八百幻】で私が使っていたキャラクターネームにも入っている、愛着のある響き。その名を聞いた途端、私の心の抵抗がすっと消えた。安心したせいか、急激に眠気が襲ってくる。赤ちゃんの身体は、実に省エネ仕様らしい。
意識が遠のく中、母親が父親に何かを伝えようとしているのが聞こえた。
「お前様……実は、この子を産む前の晩に、夢枕に宇迦之御魂神様がお立ちになり、御神託を……。三つでございます……」
「……なに、御稲荷様の、神託じゃと……?」
父親の驚愕した声が、私の意識に届いた最後の音だった。
(うげー、神託……。やっぱり事前に伝わってる……)
これじゃあ、普通の子として扱ってもらえないじゃないか。私の穏やかなスローライフ計画が、開始早々、根底から覆されてしまった……!
(……ん? でも待てよ?)
神の加護を受けた姫、ということになれば、少々不思議なことがあっても「神様のおかげ」で通るのでは? 御使いの白狐(=狐火ちゃん)といつも一緒にいても、誰も咎めないかもしれない。面倒な縁談も「神託で禁じられている」の一言で断れるかもしれない。
(……これはこれで、アリかも)
目覚めた直後から【やらかし】済みの状況に頭は痛いが、悪いことばかりでもなさそうだ。むしろ、この状況を最大限に利用してやるべきか。
まあいいや。今はとにかく、寝よう。
寝る子は育つ、と言うしね。この先のことは、起きてから考えればいい。私は心地よい疲労感に身を任せ、再び深い眠りへと落ちていった。




