0001. 推しのために生きてます
少し余裕が出てきたので、再開しようと思い、思い出すために読み直したら、いろいろと気になったので、改稿することにしました。心機一転、新しい作品として、読んでもらえればと思います。
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定時を少し過ぎ、フロアの半分が消灯されたオフィスに、課長の能天気な声が響いた。
「里見〜、悪いが明日の∀社とのミーティング資料の修正しといて。あとはよろしく頼むなぁ、ちょっと、これから接待に行くことになったんで」
コーヒーの染みがついたマグカップを片手に、課長が人の良さそうな笑みを貼り付けてデスクに寄りかかる。その笑顔の裏に、面倒事を押し付ける罪悪感など微塵も感じられないことを、私はもう知っている。
「そんな! 今日は残業できないって、先々週から何度も言ってたじゃないですかぁ!」
悲鳴に近い声が出た。令和も数十年。世間では第三次AI働き方改革だの第六次産業革命と騒がしいというのに、この会社の空気は昭和のまま、重く澱んでいる。ブラック企業という言葉すら風化している世の中で、うちは絶滅危惧種を通り越して、しぶとく生き残るシーラカンスのような会社だ。
以前、正論で課長に意見した若手社員が、数ヶ月後には地方の閑職に飛ばされたのを思い出す。理不尽に抗う者は排除される。それが、この会社の不文律だった。
「俺も資料作成が間に合わないから行けないって、断ったんだよ。でも部長命令でさ。どうしてもって言うから……まあ、この埋め合わせは今度必ずするから。頼んだぞぉ〜」
課長はそう言うと、わざとらしく一言付け加えた。
「それに、ここんとこ、半年くらい何かと理由つけて定時で帰ってただろ。今日ぐらいは残業して、たまには会社に貢献しろよな」
(どの口が言うか……!)
心の中で毒づく。パワポ操作が苦手な課長が、面倒な修正作業を私に押し付け、自分は接待にかこつけて逃げるための口実に決まっている。ギリッ、と奥歯を噛みしめると、部長と課長はすでに上機嫌でフロアの出口に向かうところだった。その背中に向かって、ありったけの呪詛を込めて呟く。
「……長時間労働は会社への貢献じゃありません。その古臭い価値観、とっくにアップデートしないとダメですよ」
もちろん、二人に聞こえるはずもない。昭和なんて知らない世代のはずなのに、悪しき社風だけを律儀に受け継いだ上司たちの足音は、あっという間に遠ざかっていった。
うちの会社もなんだかんだで昭和からあるらしいから、そのときの社風が引き継がれているのだろうけど。古くからある良い社風ならまだしも、悪しき社風は疫病のように蔓延し、なかなか根絶できないものらしい。
誰もいなくなったオフィスで、私は力なく椅子に沈み込む。ディスプレイに映るのは、修正指示の赤字がびっしりと入ったプレゼン資料。デザインの変更、グラフの作り直し、そしておびただしい数の誤字脱字。
そのほとんどが、昨日の会議で「これでOK」と部長自身が言っていた箇所だった。気分次第で全てが覆る。これが日常だ。
「あぁ〜、……今日も安定の残業か。今日だけは、今日だけはダメだったのに」
ぽつりと漏れた声が、エアコンの低いファン音に吸い込まれていく。
おもむろにスマホを手に取り、SNSを開いてしまう。案の定、タイムラインは歓喜の声で溢れていた。
『八百幻、1.5周年記念イベ最高!』
『限定衣装、ゲットだぜ!うちの子がさらに尊くなった!』
『運営さんありがとう!一生ついていきます!』
キラキラしたスクリーンショットの数々が、私の心を抉る。早く、私もあちら側に行きたいのに。
この日のために、私は半年近く残業を避けてきたのだ。春にサービスを開始した和風VRMMO【八百万の幻獣物語】――通称【八百幻】。先日、500日連続ログインを達成したほど、今の私のすべてだった。
単調で理不尽な現実から逃避するための、唯一の聖域。それが私にとっての【八百幻】の世界。美しい和風の世界で、私は幻獣テイマー「琴」として生きていた。
「ああ……私の狐火ちゃん……」
デスクに飾った小さなマスコットを見つめる。狐火ちゃんは、私がゲームを始めて最初に出会った幻獣だ。最初はなかなかうまくコミュケーションが取れず、いろいろ失敗したけど、毎日欠かさずログインし、一緒に冒険を重ねるうちに、ようやく阿吽の呼吸でいろいろなことができるようになった、かけがえのない相棒。
現実では誰にも必要とされず、歯車の一つとして消費されるだけの日々。でも、ゲームの中では狐火ちゃんが待っていてくれる。「琴ちゃん、おかえりなさい!」って、尻尾を振って駆け寄ってきてくれる。ただそれだけで、明日も会社に行こうと思えたのだ。
「限定アイテムで、もっとかわいくモフモフにしてあげられたのに……。残業できる限り避けて来たツケが、よりにもよって今日に来るなんて」
今日を逃せば二度と手に入らない、半周年記念の限定アイテム「九尾の霊衣」。これを装備させれば、狐火ちゃんの尻尾がふわふわの九本に増え、特別なモーションを見せてくれるという。この数週間、私はこのために情報収集し、素材を集め、金策に励んできた。全ては、今日この日のためだったのに。
運営も鬼だ。なぜたった一日、それも数時間限定の特殊イベントにするのか。特別な日に残業なんて、あんまりだ。
怒りの矛先は、当然ながら先に帰った上司たちに向かう。
「それにしても、あのクソ上司ども……! 今頃、高級な寿司でも摘まみながら美味い酒でも飲んでるんだろうな。呪われろ! 部長は接待中にズラが取れて場を凍らせろ! 課長は得意げに語る武勇伝が全部嘘だってバレろ! ついでに二人とも毛根死滅しろ! 飲む前に自分で仕事終わらせろ!」
静まり返ったフロアに、私の怨嗟の声だけが虚しく響き渡る。
はぁ、と深いため息をつき、私はマウスを握り直した。一人毒を吐きつつ、資料を修正するクリック音だけが、私がまだこの理不尽な世界で仕事をしている証だった。
ディスプレイの隅に表示された時計が、無情に時を刻んでいく。イベント終了まで、あと数時間。絶望的な気分で、私は無味乾燥な修正作業に没頭し始めた。