バスタブ
アメリカ中西部のオハイオ州。小さな町にひっそりと建つ、築百年の屋敷をメイラ・サンダースは買い取った。
都会の喧騒から逃れて、小説執筆に専念するためだった。
その屋敷は、19世紀末のヴィクトリア様式で、赤レンガの外壁と木製の飾り窓が印象的だったが、何より彼女の心を惹きつけたのは、2階の大理石のバスタブだった。
深くて重厚な、古びた猫足の湯舟。
浴室の窓からは林が見え、日差しが差し込むたび、湯面に光がゆれる。
「まるで時間が止まってるみたいね」
引っ越したその日から、メイラは毎晩そのバスタブに浸かるのを楽しみにしていた。
だが、初めて湯を張った夜、不思議なことが起こった。
蛇口を閉めたあと、湯舟の水面がひとりでに波打ったのだ。
静かなはずの浴室に、ポチャン……ポチャン……と水音が響く。
「お湯がまだ落ち着いてないのかしら?」
そう思って気にしなかったが、次の夜も、その次の夜も、必ず水面が勝手に揺れる。
しまいには、誰かが小さく笑う声が湯舟の中から聞こえるようになった。
ある夜、とうとうメイラは夢を見た。
湯舟に浸かっている自分の前に、濡れた髪の女が立っている。顔は見えない。けれど、確かに笑っている。
「出られないの。あたし、ここから。冷たい水の底でずっと待ってたのに……」
目覚めると、バスルームの床が濡れていた。使っていないのに、バスタブは満杯になっていた。
水を抜こうとしたが、栓は抜いてあった。にもかかわらず、水は抜けなかった。
まるで底が塞がれているように、湯は揺らめいたままそこにあった。
それに気づいた時、ざーっと、湯が抜け始めた。
恐怖に震え、不安になったメイラは、町の古書店で屋敷の来歴を調べた。
かつてこの家には、アグネス・ブラックフォードという女性が住んでいたらしい。
1932年、彼女はこのバスタブで溺死している。自殺として処理されたが、当時まだ19歳だったという。
「彼女は一人で屋敷に住んでいたわけじゃなかったの。婚約者がいたのよ」
古書店の老店主はそう語った。
「でもその男は、女を裏切って失踪した。数日後に宿で死んでるのが見つかった。浴槽で、顔を下にして、まるで……誰かに押し付けられたみたいに」
その夜、メイラは湯舟の水を完全に抜き、栓を外した。もう二度と湯を張らないと決めて。
だが、どれだけ磨いても、栓の周囲に血のような跡が滲んでくる。
そしてバスタブの内側には、手のひらの跡のような模様が浮かび上がっていた。
5本の指。それも内側から、湯舟を押しているような。
次の日から、彼女の原稿には見覚えのない文章が混じるようになった。
「彼は私を見なかった」「私は冷たくて、暗くて、でもずっと生きてた」
「あなたも見捨てるの?」「じゃあ、いっしょにいて」
誰が書いたのかもわからない。だが、指は勝手に動き、その言葉を何度も綴ってしまう。
そして数日後の深夜、浴室から物音がして目が覚めた。
バスタブはまた満杯になっていた。蛇口は閉まっている。水道も止めてある。
けれど、そこには——誰かが入っていた。
湯面の真ん中が不自然に沈み、かすかに呼吸音が聞こえた。
メイラが近づくと、水面から手が伸びた。
濡れた白い手が、彼女の手首をとらえる。
「待ってたの……さびしかったの……」
次の朝、バスタブは空だった。水も、髪の毛も、血も、跡形もなく。
そして、メイラの姿も消えていた。
浴室の鏡には、曇ったガラスに指で書かれたメッセージがあった。
「いっしょにいてくれるでしょう?」
屋敷の持ち主は、また“住む人”を待っている。
冷たく深い、静かな湯の中で。