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灰色の放課後

作者: 窓末

(静寂。パイプ椅子がきしむ音だけが、時折、部屋の沈黙を破る。五人の生徒は硬い表情で正面の男を見ている。生徒指導担当、高橋は、冷めきったお茶が半分残ったマグカップを両手で包み込み、ぬるい熱を確かめるように指を動かしている。その視線は、手元の書類に落ちたままだ。たっぷり一分は、その状態が続いている。)


高橋: ……さて。


(高橋は、まるで重いまぶたを持ち上げるかのようにゆっくりと顔を上げ、五人の生徒を順番に、一人ずつ、値踏みするように見回した。その目に感情はない。ただ、そこにある「モノ」を検分しているかのような、無機質な光だけが宿っている。)


高橋: わざわざ放課後に残ってもらって、すまないね。部活がある者は、顧問に連絡済みだ。親御さんにも、少し遅くなると伝えてある。……まあ、ここに呼ばれた時点で、ただの世間話で終わらないことくらい、君らも分かっているだろうが。


(高橋は書類を指で軽く弾く。乾いた音が響く。)


高橋: 昨日、午後七時から、今朝の七時までの間。この学校で、ちょっとした……そう、「事件」があった。


(「事件」という言葉に、五人の空気がわずかに震える。伊藤蓮が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。)


高橋: 職員室から、物が盗まれた。金品じゃない。もっと、君たちにとって……あるいは、君たちの一部にとっては、価値のあるものだ。来週に迫った期末試験の、現代文の……問題用紙と、解答用紙。一式すべてだ。


(高橋は言葉を切り、再び五人の顔を観察する。嵐の前の静けさ。誰も口を開かない。)


高橋: 昨夜、校舎に最終的な施錠がされるまでの間に、校内に残っていたことが確認されている生徒。それが、ここにいる君たち五人だ。もちろん、他にも数名の教員はいた。だが、教員は容疑者から除外する。なぜなら、盗まれた問題を作成した山田先生自身が、昨夜はご家庭の事情で早くに帰宅している。つまり、教員には動機がない。……少なくとも、現時点ではな。


田中 大輝: ……で? 俺らがやったって言いたいんスか。


(沈黙を破ったのは、田中大輝だった。苛立ちを隠そうともしない、挑戦的な声。)


高橋: (田中を見て)田中。俺はまだ、何も言っていない。ただ、事実を並べているだけだ。そう、カッカするな。血圧が上がるぞ。


田中 大輝: 疑ってるから呼んだんだろ。時間の無駄だ。俺は部活があっただけだ。自主練だよ。体育館の鍵の返却記録、見りゃ分かるだろ。


高橋: ああ、見たよ。午後六時五十分、体育館の鍵を返却。その後、教室に忘れ物を取りに戻った、と。そうだな?


田中 大輝: ……ああ。


高橋: 職員室は、教室へ向かう途中にあるな。


田中 大輝: 通り道なだけだ。それがどうした。


高橋: 別に。


(高橋はあっさりと視線を外し、隣の佐藤優美へと移す。)


高橋: 佐藤。君は? 学級委員長として、文化祭の準備か何かか?


佐藤 優美: いえ……。私は、図書館で調べものをしていました。世界史のレポートが、なかなか終わらなくて。


高橋: 図書館か。何時までいたんだ?


佐藤 優美: 七時少し過ぎまでいたと思います。閉館のアナウンスが流れたので、急いで帰る支度をしました。


高橋: 誰かと一緒だったか?


佐藤 優美: いいえ、一人です。集中したかったので。


高橋: そうか。品行方正な君が、まさかとは思うがな。


(高橋の言葉は静かだが、皮肉の棘が潜んでいる。佐藤は表情を変えずに、まっすぐ高橋を見返した。)


佐藤 優美: 先生。私は、そのような行為とは無縁です。クラスのため、学校のために、いつも真摯に行動してきたつもりです。


高橋: 「つもり」ね。……まあ、いいだろう。次、渡辺。


渡辺 美緒: (びくっと肩を揺らし)は、はい!


高橋: 君は昨日、どうしていた?


渡辺 美緒: 私は……優美と少し話してて……。あ、でも、図書館じゃなくて、廊下で! ちょっとだけですよ? そのあと、友達と駅前のカフェに行く約束があったから、すぐ……。


高橋: 佐藤は一人だと言ったが。


渡辺 美緒: あ……えっと、それは、図書館を出た後で! そう、後! 優美が出てきたところで、ばったり会って……。ね、優美?


(話を振られた佐藤は、わずかに眉をひそめ、肯定も否定もせず、ただ小さく頷いた。)


高橋: ふうん。渡辺、君は職員室には近づいていないんだな?


渡辺 美緒: もちろん! 用事ないですもん。ていうか、マジでありえない! 誰なの、そんなことしたの! 大輝とかじゃないの?


(突然、名指しされた田中が、舌打ちをする。)


田中 大輝: あ? なんで俺なんだよ。


渡辺 美緒: だって、いつも怒られてんじゃん! 成績も、なんかヤバいって噂だし……。


田中 大輝: うるせえな、お前に関係ねえだろ!


高橋: 静かに。ここは法廷じゃない。……次、伊藤。


(伊藤蓮は、自分の名前を呼ばれただけで、世界の終わりのような顔をしている。)


伊藤 蓮: は、はい……。


高橋: 君は、顔色が悪いな。何か知っているのか?


伊藤 蓮: し、知りません! 何も! 僕は……僕はただ、数学の補習があって……。


高橋: 補習か。何時までだ?


伊藤 蓮: ろ、六時半には終わりました。でも、その……課題が全然分からなくて、教室に残って……一人で……。


高橋: 一人で?


伊藤 蓮: はい……。それで、気づいたら七時くらいで……。怖くなって、急いで帰りました。職員室のほうなんて、見てません。まっすぐ、昇降口に……。


高橋: そうか。……では、最後。鈴木。


(高橋の視線が、隅で黙々とスケッチブックに何かを描いている鈴木海斗に注がれる。他の四人が緊張に身を固くしているのとは対照的に、鈴木だけが自分の世界にいるかのようだ。)


高橋: 鈴木。聞こえているか?


鈴木 海斗: ……はい。


(鉛筆を動かす手を止めずに、鈴木は答える。)


高橋: 君は、何をしていた? 美術室か?


鈴木 海斗: ……ええ。まあ。


高橋: 「まあ」とは何だ。イエスかノーかで答えろ。


鈴木 海斗: (初めて顔を上げ、高橋をまっすぐ見る)……描きたいものがあったので。描いていただけです。


高橋: 職員室の前は通ったか?


鈴木 海斗: ……。


高橋: 答えろ。


鈴木 海斗: ……通りました。美術室から昇降口に行くには、そこを通るのが一番早い。


高橋: 何か、変わったことはなかったか。誰か見かけたとか、物音がしたとか。


鈴木 海斗: ……別に。いつもと同じ、静かな廊下でしたよ。……ああ、でも。


高橋: でも、何だ。


(鈴木は、ふっと視線を落とし、再びスケッチブックに鉛筆を走らせ始めた。まるで、今しがた口にした言葉に興味を失ったかのように。)


鈴木 海斗: ……甘い匂いがしましたね。職員室のドアの隙間から。


渡辺 美緒: 甘い匂い?


鈴木 海斗: ええ。香水……みたいな。安物の、ベリー系の。誰かさんがつけてるやつと、よく似た匂いでした。


(鈴木はそう言って、渡辺美緒を一瞥いちべつした。途端に、渡辺の顔から血の気が引いていく。)


渡辺 美緒: な……何よ! 私じゃない! 私、そんなとこ行ってない!


高橋: ほう。香水か。面白いな。……田中、君は昨日、体育館から教室に戻る時、何か気づいたことはなかったか? 例えば、そうだな……職員室の鍵とか。


田中 大輝: 鍵? 知らねえよ、そんなの。


高橋: 職員室の鍵は、山田先生がいつも管理している。だが、昨日は早く帰った。だから、鍵はいつもの場所……職員室のドアの横にかけてあるキーボックスの中にあったはずだ。誰でも、その気になれば開けられる。


佐藤 優美: 先生、それはつまり、計画的な犯行ではないと?


高橋: どうだろうな。計画的でないように見せかけた、計画的な犯行かもしれん。……田中、君の手、どうしたんだ?


(高橋の鋭い指摘に、全員の視線が田中の左手に集まる。手の甲に、真新しい、赤い引っ掻き傷が三本、ミミズ腫れになっていた。)


田中 大輝: ……っ!


高橋: 何の傷だ? 誰かと喧嘩でもしたか? それとも……鍵のかかったドアでも、こじ開けようとしたかね。


田中 大輝: ちが……これは……。


(田中は苦々しく顔を歪め、何かを言いかけて口をつぐんだ。その態度が、まるで罪を認めているかのように、他の生徒たちの目には映る。伊藤は怯え、渡辺は侮蔑の色を浮かべ、佐藤は冷静に、そして鈴木は……相変わらず無表情に、その傷をスケッチブックに描き写していた。)


高橋: ……まあ、いい。今は言わなくてもいいさ。これから、一人ずつ、話をじっくり聞くことになるからな。たっぷりと、時間はある。夜は、まだ始まったばかりだ。


(高橋はそう言って、初めて、ほんの少しだけ口の端を吊り上げた。それは、笑みと呼ぶにはあまりにも冷たい形をしていた。)


(高橋は満足げに、しかしその感情を誰にも悟らせずに、冷たい笑みを消した。そして、まるで面倒くさそうに立ち上がる。)


高橋: ……よし。じゃあ、まずは田中。君からだ。他の四人は、廊下で待っていろ。いいか、私語は厳禁だ。お互いに口裏を合わせる時間は与えん。壁には耳があるし、廊下の隅には監視カメラの目があることを忘れるな。


(高橋の言葉に、四人はおずおずと立ち上がり、無言で指導室を出ていく。渡辺美緒が、不安そうに一度だけ振り返った。扉が閉まり、部屋には高橋と田中、そして重苦しい沈黙だけが残された。)


高橋: さて、二人きりになったわけだが。


(高橋は椅子に深く腰掛け直し、指を組んで机の上に置く。)


高橋: もう一度聞こう。その手の傷は、何だ?


田中 大輝: ……だから、別に。


高橋: そうか。なら、このまま正直に話してくれない君を、窃盗の第一容疑者として警察に引き渡すことになるが、構わんかね。ああ、もちろん、部活も退部。下手をすれば、退学処分だ。君のバスケへの情熱も、そこで終わりだな。


(「バスケ」という単語に、田中の肩がピクリと動く。高橋はそれを見逃さない。)


田中 大輝: ……っ、関係ねえだろ、バスケは!


高橋: あるさ。大いにある。つまらん意地を張って、大事なものをすべて失うか。それとも、ガキみたいなプライドを捨てて、正直に話すか。選べ、田中。時間はやらん。十秒だ。


(高橋は壁の時計に目をやる。秒針の刻む音が、やけに大きく部屋に響く。田中は唇を噛み、床の一点を睨みつけていたが、やがて観念したように、低い声で呟いた。)


田中 大輝: ……猫だよ。


高橋: 猫?


田中 大輝: 校門の近くの木に……子猫が引っかかって、降りられなくなってたんだよ。うるさく鳴いてるから……ほっとけなくて、木に登って、助けてやったんだ。その時に、アイツにやられた。


(言い終えると、田中はばつが悪そうに顔を背けた。不良ぶった男の、あまりに純朴な告白。高橋は表情を変えなかったが、その目がわずかに細められた。)


高橋: ……なるほどな。ご苦労だった。だが、なぜそれを素直に言わなかった?


田中 大輝: ……ダセえだろ。こんなナリで、猫助けてましたなんて。アイツらの前で言えるかよ。


高橋: そうか。君なりの美学、というわけか。まあ、いいだろう。その件は信じてやる。……だが、それで終わりじゃない。君が猫を助けていたのは、何時ごろだ?


田中 大輝: さあな。七時は、もうとっくに過ぎてた。


高橋: そうか。では、君が教室に忘れ物を取りに戻った時……職員室のあたりで、誰か見なかったか?

田中 大輝: ……いや。誰もいなかった。……けど……。


高橋: けど?


田中 大輝: ……伊藤のやつなら、見た。


高橋: 伊藤蓮を? どこでだ。


田中 大輝: 職員室がある、特別棟の廊下の角だ。俺が曲がろうとしたら、あいつがすごい勢いで走ってきて……ぶつかりそうになった。顔、真っ青だったぜ。何かから逃げるみたいに。


高橋: ふむ……。伊藤が。……分かった。田中、君はもう行っていい。だが、まっすぐ帰れ。誰とも話すな。いいな?


田中 大輝: ……おう。


(田中は意外そうな顔をしたが、すぐに立ち上がり、足早に部屋を出ていった。高橋は一人になると、マグカップを口に運び、冷えきった茶を一口すする。そして、インターフォンで廊下に声をかけた。)


高橋: 次、伊藤。入れ。


(数秒の間があって、恐る恐るドアが開いた。そこに立っていたのは、死刑宣告を待つ罪人のような顔をした伊藤蓮だった。)


高橋: 座れ。


(伊藤は震える足でパイプ椅子に座る。)


高橋: 伊藤。君はさっき、補習のあと、教室で一人で勉強していたと言ったな。


伊藤 蓮: は、はい……そうです……。


高橋: 嘘をつけ。


(高橋の静かで低い一言が、伊藤の心臓を直接抉ったように見えた。伊藤の顔から、さらに血の気が引く。)


伊藤 蓮: う、嘘じゃ……。


高橋: 田中が見たそうだ。君が、職員室のある廊下から、顔面蒼白で走り去るところをな。まるで、幽霊でも見たかのように。……一体、何から逃げていたんだ?


(伊藤の呼吸が浅く、速くなる。カタカタと歯の根が合わない音が聞こえる。)


高橋: 言え。君は職員室に行った。違うか?


伊藤 蓮: あ……あ……。


高橋: 現代文の成績、芳しくないそうだな。このままでは、赤点。追試どころか、留年もあり得ると。そうだな? だから、問題用紙を盗もうとした。……違うか、伊藤!


(高橋の声が、初めて鋭く響いた。その瞬間、伊藤の涙腺が決壊した。)


伊藤 蓮: ちが……う、うう……盗もうと……盗もうとは、しました……でも、盗んでません……!


(嗚咽と共に、伊藤はすべてを白状し始めた。)


伊藤 蓮: 僕は……山田先生のことが、苦手で……授業も全然分からなくて……このままだと、本当に留年しちゃうって……怖くて……。それで、昨日の夜、誰もいなくなったのを見計らって……職員室に……。


高橋: ……それで?


伊藤 蓮: キーボックスから鍵を取って……ドアを開けようとしたら……ドア、もう開いてたんです。ほんの少しだけ……。


高橋: 何だと?


伊藤 蓮: 鍵、かかってなくて……。それで、恐る恐る中を覗いたら……机の上が、もう……。山田先生の机の上にあった、問題用紙が入ってるはずの茶封筒が……もう、なかったんです……!


(伊藤は顔を覆い、しゃくりあげた。)


伊藤 蓮: 誰かが、先に盗んでた……! それで、僕、怖くなって……誰かに見られたら、僕が犯人だと思われるって……それで、逃げたんです! 本当です! 信じてください!


(高橋は、伊藤の錯乱した告白を、ただ黙って聞いていた。やがて、嗚咽が少し収まるのを待って、静かに口を開いた。)


高橋: ……分かった。落ち着け。……君がそこに行ったのは、何時ごろだ?


伊藤 蓮: たぶん……七時、ちょっと前くらい、です……。


高橋: そうか。……もういい。顔を洗って、今日は帰れ。このことは、誰にも言うな。いいな、絶対に、だ。


(伊藤は何度も頷き、ぐしょぐしょの顔のまま、逃げるように部屋を出ていった。高橋はペンを取り、手元の書類に何かを書き込む。)


高橋: (独り言のように)……七時前には、既に無い、か。……面白い。


(再びインターフォンを押し、感情の無い声を廊下に響かせる。)


高橋: 次、渡辺。


(入れ替わりで入ってきた渡辺美緒は、不安と好奇心が入り混じったような顔をしていた。)


高橋: 座れ。……さて、渡辺。君はさっき、鈴木に妙なことを言われていたな。香水の匂い、とか。


渡辺 美緒: ち、違います! 私じゃありません! あの子、昔からそうなんです! 適当なこと言って、人を陥れるの!


高橋: そうは見えなかったがな。鈴木は、ただ事実を述べただけのように見えた。……君、ベリー系の香水、つけてるだろう。今も、この部屋に匂いが充満している。


(図星を突かれ、渡辺は口ごもる。)


渡辺 美緒: ……つけてますけど。でも、職員室には行ってません! 絶対に!


高橋: そうか。では、話を変えよう。君は、図書館から出てきた佐藤と話をしたと言ったな。


渡辺 美緒: は、はい。


高橋: 佐藤が出てくるのを、どこで待っていた?


渡辺 美緒: 図書館の……前の廊下です。


高橋: 佐藤は、すぐに出てきたか?


渡辺 美緒: それが……。


(渡辺は、何かをためらうように視線を泳がせた。)


高橋: どうした。正直に言え。


渡辺 美緒: ……ちょっと、待ちました。閉館のアナウンスが鳴ってから……優美が出てくるまで、十分……ううん、十五分くらいは、かかったと思います。中で何してるんだろうって、ちょっと思って……。


高橋: 十五分。……長いな。図書館の司書は、閉館後、すぐに見回りに来るはずだが。


渡辺 美緒: だから……変だなって。それで、出てきた優美、なんだか……いつもと様子が違ったんです。


高橋: 様子が違う?


渡辺 美緒: なんていうか……すごく、静かで。いつもみたいに笑わないで……。何か考え込んでるみたいで……。私が話しかけても、上の空、みたいな……。


(渡辺は、自分の発言が佐藤を窮地に追い込む可能性に気づきながらも、自己保身のために言葉を続けた。その瞳の奥に、微かな愉悦の色が浮かんでいるのを、高橋は見逃さなかった。)


高橋: ……そうか。分かった。もういい、下がれ。


(渡辺は、まだ何か言いたげな顔をしながらも、指示に従って部屋を出ていく。高橋は、五人の名前が書かれたリストの、「佐藤優美」という文字を、ペン先でゆっくりと、なぞった。)


高橋: ……役者は、揃った。あとは、主役の登場を待つだけか。


(高橋はインターフォンのボタンに指を伸ばし、静かに、しかしはっきりとした声で、最後の呼び出しを告げた。)


高橋: 佐藤。入れ。君の話を聞こうか。


(ゆっくりと指導室のドアが開く。そこに立っていたのは、これまでと何ら変わらない、完璧な微笑みを浮かべた佐藤優美だった。だが、その微笑みだけが、この澱んだ部屋の中で、あまりにも不自然に浮いていた。)


(指導室のドアが閉まり、再び静寂が訪れる。だが、これまでの沈黙とは質が違う。それは、嵐の中心にある、全てを吸い込むような静けさだった。佐藤優美は、パイプ椅子に浅く腰掛け、完璧な姿勢を保っている。その表情には、一点の曇りもない。まるで、これから始まるのが詰問ではなく、表彰式であるかのように。)


高橋: ……さて、佐藤。君の番だ。


(高橋は、これまでの誰に対するよりも穏やかな、しかし底冷えのする声で言った。)


高橋: 君は、品行方正、成績優秀。教師からの信頼も厚い。いわば、この学校の「良心」の象徴だ。そんな君が、こんな場所に呼ばれること自体、本来あってはならない。


佐藤 優美: はい。そう思います。


(淀みない返答。高橋は、組んでいた指をほどき、机を軽く叩いた。)


高橋: だがな、佐藤。いくつか、不可解な点がある。渡辺の話によれば、君は図書館の閉館アナウンスが鳴ってから、十五分も姿を見せなかった。あの図書館の司書は、閉館五分後には生徒を全員追い出すことで有名だ。……君は、その十分間、どこで何をしていた?


(佐藤の完璧な微笑みが、初めて、ほんのわずかに揺らいだ。しかし、それも一瞬のこと。すぐに彼女は、完璧な答えを用意する。)


佐藤 優美: ……少し、気分が悪くなりまして。お手洗いで、顔を洗っておりました。貧血気味なものですから。


高橋: 貧血、ね。保健室には行っていないのか?


佐藤 優美: 大したことではなかったので。少し休めば、治まりましたから。


高橋: そうか。実に模範的な答えだ。非の打ち所がない。……では、もう一つ聞こう。これは、君が貧血で倒れている間に起きたことかもしれんがな。


(高橋は、机の引き出しから、一枚の黄色い付箋ふせんを取り出した。)


高橋: これは、山田先生の机の、パソコンのモニターに貼ってあったものだ。先生の字で、こう書いてある。『夕立や、草葉をつかむ、むこう岸』……ただのメモだ。だがな、佐藤。奇妙なことに、盗まれた問題用紙の茶封筒の上に、これと全く同じ筆跡で、同じ句が書かれた、もう一枚の付箋が貼ってあった。まるで、それが目印であるかのように。君は、山田先生がこの句を好んでいることを知っていたか?


(佐藤は、黙っている。その表情からは、完璧な微笑みが消え失せ、能面のような無表情だけが残っていた。)


高橋: この句は、江戸時代の俳人、与謝蕪村のものだ。夏の夕立の中、川の向こう岸に渡ろうと、必死に草葉に掴まっている……そんな情景を詠んだ句だ。……今の君の心境に、よく似ているんじゃないか?


佐藤 優美: ……何が、仰りたいのでしょうか。


高橋: 君だよ、佐藤。君が、やったんだろう。君は、山田先生がこの句を好きなことを知っていた。そして、何らかの理由で、試験問題を盗んだ。違うか?


(高橋が、決定的な言葉を突きつけた、その時だった。)


コン、コン。


(控えめなノックの音と共に、指導室のドアが、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、廊下で待機を命じられていたはずの、鈴木海斗だった。その手には、あのスケッチブックが握られている。)


高橋: 鈴木。誰が入っていいと言った。


鈴木 海斗: ……先生。あなたは、間違っている。


(鈴木は、高橋の制止を無視して部屋に入り、佐藤の隣に、音もなく立った。その目は、これまで見せたことのない、強い光を宿していた。)


鈴木 海斗: 彼女は、一人じゃない。


佐藤 優美: 鈴木くん……。


(佐藤が、か細い声で、初めて隣の少年の名を呼んだ。)


高橋: ……どういうことだ。説明しろ。


(鈴木は、高橋をまっすぐに見据え、静かに語り始めた。)


鈴木 海斗: あの日の放課後、俺は美術室にいました。窓から、中庭が見える。そこで、校長と、山田先生が話しているのを見たんです。……いや、校長が一方的に、何かを言い渡していた。山田先生は、ただ、うなだれていました。


高橋: ……。


鈴木 海斗: 気になって、後で美術室のゴミ箱を漁りました。山田先生が、時々、デッサンの指導に来てくれるんです。その時、丸めて捨てた紙くずが、いつもいくつかある。……その一つに、退職届の、書き損じがありました。『一身上の都合』……と書かれた文字が、震えていました。


(部屋に、息を飲む音が響く。)


鈴木 海斗: 彼女も、知っていたんです。山田先生が、本当は辞めたくなんかないのに、学校から、一方的に肩を叩かれていることを。先生の現代文の授業を、誰よりも愛していた彼女が、それを知ってしまった。


(鈴木は、そこで初めて佐藤に視線を移した。それは、共犯者だけが分かち合える、深く、そして哀しい眼差しだった。)


佐藤 優美: ……山田先生の、最後の期末試験の問題。先生は、それがご自分の、最後の授業の集大成だと仰っていました。一枚一枚、魂を込めて作ったんだと。……そんな大切なものを、先生を追い出すような学校に、ただの事務作業のように扱われるのが……許せなかったんです。


(ついに、佐藤が口を開いた。その声は震えていたが、迷いはなかった。)


佐藤 優美: だから、盗みました。テストを中止にさせて、問題にしたかった。なぜ、山田先生が辞めなければならないのか、みんなに知ってほしかった。これは……私の、たった一つの抵抗だったんです。


高橋: ……それで、鈴木。君は、それを手伝ったと。


鈴木 海斗: ええ。職員室の前で、彼女を見かけた。彼女の目の色を見て、全部わかりました。だから、俺は、廊下の向こうでわざと大きな音を立てた。清掃員さんの注意を、一瞬だけ、こっちに引くために。彼女が、鍵を開けて、封筒を取り出す……ほんの数十秒の時間を作るために。


高橋: ……なるほどな。では、あの香水の匂いは。渡辺を陥れるための、嘘だったというわけか。


鈴木 海斗: (小さく頷き)……そうです。彼女に疑いがかからないように、一番騒がしい人に注意を向けさせたかった。……卑怯なやり方です。でも、彼女を守りたかった。


(告白が終わった。部屋は、再び沈黙に支配された。それは、もはやただの重苦しい空気ではなかった。二人の生徒が、不器用で、身勝手で、しかしあまりにも純粋な動機のために犯した罪の重さと、その奥にある真実の輝きが、部屋の空気を満たしていた。)


高橋: ……そうか。


(高橋は、深く、長い息を吐いた。そして、ゆっくりと立ち上がると、佐藤の前に歩み寄った。佐藤は、覚悟を決めたように、自分のスクールバッグから、茶色い封筒を取り出した。盗まれた、問題用紙だ。)


高橋: ……。


(高橋は、その封筒を受け取らなかった。ただ、じっとそれを見つめ、やがて視線を窓の外へと移した。夕暮れの最後の光が、教室を茜色に染めている。)


高橋: 俺は、生徒指導の教師だ。仕事は、生徒を「指導」すること。規則を破った者を、正しく「導く」ことだ。……だがな。


(高橋は、まるで自分自身に語りかけるように、言葉を続けた。)


高橋: 正しさとは、一体、何だ? 君たちが壊そうとしたのは、校則か。それとも……もっと大きな、何かか。……俺には、もう、分からない。


(高橋は、二人の方を振り返ることなく、机に戻り、インターフォンのボタンを押した。)


高橋: ……田中、渡辺。もう帰っていい。今日のことは、他言無用だ。


(スピーカーの向こうから、戸惑ったような声が聞こえたが、高橋は構わずスイッチを切った。部屋には、再び三人だけが残される。)


佐藤 優美: 先生……私たちは……。


高橋: 今日のところは、この話は終わりだ。この封筒は、俺が預かる。だが、どうするかは……明日、考えよう。……いや、俺が、考えなければならん。


(高橋は、初めて、疲労の色を隠さずに椅子に深く沈み込んだ。その目は、もはや鋭い尋問者のものではなく、答えの出ない問いを突きつけられた、一人の無力な人間のものだった。)


高橋: 指導室、か。……笑わせる。導く道を見失ったのは、どうやら、俺の方らしいな。


(窓の外で、放課後の終わりを告げるチャイムが、遠く、鳴り響いていた。それは、まるで、この小さな密室劇の終わりを告げる、幕引きのベルのようだった。)


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