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重いエッセイ集

尊貴なものについて

作者: 寒がり


 無矛盾性は、明らかな嘘だ。生命自体が死を内包するように、あらゆる真なる命題は、現実には偽を内包する。

 だから、尊貴さがあるとしたら、嘘を突き通すことだ。


 私は私であるという個人主義の根底をなす命題でさえ、常に真ではない。人間は死ぬし、私が常に私であるとは限らない。明日、重度の障害を負って私でなくなるという可能性は排除されていない。そうでなくても、記憶の連続性という頼りない補助線は、私の同一性を担保しない。様々なシチュエーションが同一性の破壊に向けた圧力として作用する。


 自己同一性は空想であり、端的に嘘である。

 けれども、我々は、私は私であるという嘘を崩壊させないため、莫大な努力を払う。自己同一性やその結果として人間が有することとされている「人間の尊厳性」という嘘を維持しようとする努力はやはり、尊貴である。人間の尊貴は、人間の尊厳性という嘘それ自体ではなく、その嘘を維持しようとする努力に由来する。


 宮崎駿が風の谷のナウシカに「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるんです」と言わせたのは、これに近いものがあると感ずる。苦悩とは、艱難辛苦に対してなお、自分が存在するという嘘を突き通す過程で生ずるものである。それは、時に死の衝動に対し生きていると反論することであり、時に複数の矛盾する真理を抱えつつ自己同一性という嘘を突き通すための試行錯誤である。


 抽象化するなら、真の価値は価値自体でなく、価値という嘘を存立させようとする作用にこそ存在すべきである。

 神の偉大さは人々の敬虔さに、法の峻厳さは人々の遵法意識に、美とは人々の美意識に根拠を置く。優しい人の価値は優しくあろうとする不断の努力に、美しい人の価値は不断に美しくあろうとする努力に帰せられなくてはならない。

 尊貴さは形相ではなく質料にこそ宿る。


 三島由紀夫は、『文化防衛論』で、自己の滅却の栄光の根拠を死せる文化の光輝ではなく、文化の活きた「見返す力」に置いた。彼にとって文化は物的な客体ではなく、自らが否応なくコミットしてゆく対象であった。活きた「見返す力」とは、換言すれば文化を防衛しようとする、文化が存在するという嘘を突き通そうとする三島の努力である。


 しかし、同時に努力はその指向されるべき中心としての穴を、ドーナツの穴の如き価値自体という中心点を必要とする。真の価値が嘘を突き通す努力に存するにしても、価値自体が存しないことには価値は存しないのだ。穴がなければドーナツにならない。三島が切腹して見せても、文化というものが存在しなければ一人の男が自殺しただけで終わってしまう。彼の死が価値を有し尊貴であるためには価値自体としての文化が必要であった。


 上記の反転を経て、価値自体は結果的に価値を有する。

 かくて、形相としての価値自体は価値を有せず、しかし同時に質料に与えられる価値を価値たらしめるという一点において価値を有するという立体的な構造が生まれる。


 この構造は実に面白い。

 全くの暗闇、虚無の上に、光る泡が浮かんでいる。その泡は、常に崩壊の運命に、エントロピーの増大に争って存立している。その存在、言うなれば不断の行為としての存在を通じて泡は何かを表現し続けている。そして、その表現される何か自体は、何ら意味を有しないのだ。

 その儚さに、無謀な努力に、尊貴を感じずに居られようか。必ず弾けると分かっている泡を一秒、また一秒と必死に維持するその泡に。


 あらゆる存在は、このような構造を備えており、それゆえにあらゆる存在者は尊貴である。けれども、存在の尊貴は存在の無意味性に反駁しない。むしろ、存在の無意味性が存在の尊貴を基礎づける。

 逆に存在に意味があるなら、絶対的価値に盲従する存在は単なる必然的手段であり、絶対的価値への努力はエピクロス派の言うそれに近い快楽であって、そこには尊貴は生じ得ない。苦悩は生まれない。


 存在の無意味性が存在の価値を担保している。

 故に、僕は、存在に意味を観念するいかなる試みをも否定する。絶対性への憧憬に共感しながらも、価値自体の絶対的価値を信ずる思想には反対する。

 絶対的価値に僕が連なっているという仮定は耐え難い冒涜である。それは、第一に絶対的価値に対する冒涜であり、第二に僕自身に対する冒涜である。


 ところで、日本人は、天皇というシステムで永遠性・無限性を表現してきた。正確には、天皇位にある人物が、天皇という観念・形相を神がかりのごとく身に宿し(践祚)、地上に現出させ表現した。


 その表現内容であるところの天皇という観念自体はさらに、皇祖神の表現であり、皇祖神はさらにその背後の神の表現であった。背後の神自体もさらにその背後の神を表現する。『尊皇思想とその伝統』で和辻哲郎が言うように、神聖さは常に背後から与えられるという構造がある。

 形相はより上位の形相を表現するための質料であり、その連鎖が延々と連なって見通せぬ深い闇を形成するのだ。


 天皇というシステムは、このように、数学的帰納法にも似た手法で無限にその背後を表現することで、本来表現することができないはずの永遠性と無限性を、「神聖なる無」自体を表現している。天皇陛下の尊貴は、この雄大な数学的帰納法を起動させる初項、n1を地上に現出せしめる、人生を賭けた弛まぬ努力にある。


 天皇とは実に比類なき表現なのだ。その表現を畏れなくてはならない。表現不能なものがあれだけの質感を以って表現されているという事実に、底の見えない井戸や合わせ鏡を覗き込んだ時のような永遠性への畏れと感動を抱かなくてはならない。

 いかなる現代アートも、天皇というアートの足元にも及ばないと感じる。


 他方、表現されている神聖なる無自体は、やはり無価値で無意味でなくてはならない。そのことによって、それは、価値の淵源たり得、天皇という極大の表現が、価値の淵源自体というどこまでも暗く深い虚無自体の表現に成功するのだから。無価値こそが価値の淵源である。


 こういう見方を仮に容れるなら、天皇という価値自体に絶対的価値を、意味を与えた大日本帝国は過ちを犯した。それは、全てを無価値に帰しかねない、絶対無を相対無ないし相対有に堕とす行為であった。


 古代から存在する現代アートとしての天皇。その担い手としての天皇陛下は尊貴であられると思う。政治システムとしての天皇をどう考える立場に立つにせよ、その点は揺るぎない、はずだ。





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