episode 3
私は部屋の隅にうずくまっていた。
両親は相変わらず王都へ働きに出ており、扉に鍵がかけられているわけでもない。 けれど、彼らの厳しい視線。食卓での沈黙。冷え切った空気。それらすべてが、私の心を縛っていた。
──私は、無力だ。
誘拐事件のときと同じ。 真っ暗な部屋に閉じ込められ、助けを求めることしかできなかったあの日。 あれから十年が過ぎたというのに、私は何一つ変わっていない。
全身が熱を帯び、視界が滲む。 ぽた、ぽた……絨毯の上に涙が染みを落としていく。
「君の人生は、それでいいのかい?」
あのとき、テオが放った言葉が、ふいに脳裏によぎった。
今まで守ってくれた両親のことは、心から愛しているし、感謝もしている。 けれど、テオに出会ったことで分かった。
彼らは、私にただ従順であることを望んでいたのだ。
私は、舞台の上の人形。 笑い方も、歩き方も、許された役割の中で演じてきた。
──そんな人生で、本当にいいの?
そのとき、
コン、コン。
玄関の扉を叩く音。
胸の奥が跳ねる。誰なのかはわからない。 けれど直感で──テオだ、と分かった。
賑わう街の光景が瞼に浮かぶ。 私は──変わりたい。
自分の人生を、自分の意思で歩みたい。
私は立ち上がり、扉を開けた。
そこに立っていたのは、やはり。
「やあ」
フードを下ろし、優しい緑の瞳で私を見つめるテオだった。
「君の顔を見に来たよ」
「テオ……来てくれて、ありがとう」
「礼はいいさ。これは仕事の一環だから」
困ったように微笑む彼に、張りつめていた心がふっと緩む。
「仕事は終わったって……」
「アーノルドの依頼さ。君の無事を確認して報告するように言われてね」
そうだった。私は両親に、アーノルドの話をしていない。
「馬車を手配しようと思う。君がよければ、王都まで送るよ」
私はアーノルドの笑顔を思い出した。けれど、今心を動かすのは、目の前にいる人の声だった。
「……テオ。ずっと、あなたに会いたかった」
テオの瞳がわずかに見開かれる。
「……どういう意味かな」
「あなたが言ってくれた“それでいいの?”という言葉が、私を変えてくれたの。 たとえ少しでも……だから、どうしても伝えたかった」
「余計なお世話だと思っていたんだけどな」
彼はくすっと笑い、玄関の外へと軽やかに歩き出す。
「馬車を呼んでくるよ。いいかい?」
私は、今ここで「はい」と答えたら、彼と永遠に別れる気がした。
「……いつか、またきっと会える?」
「……ああ」
テオは一拍置いて、胸元のポケットから紙を取り出し、さらさらと何かを書きつける。
「これは、僕から君への贈り物だ」
それを私の右手にそっと握らせる。
「これって……」
尋ねかける前に、彼は背を向け、手をひらひらと振った。
馬の蹄の音が近づいてくる。テオが手配してくれた馬車だ。
私はそっと、手の中の紙を開いた。
そこに書かれていたのは、たった一言。
──『自由』
私の胸に、あたたかな風が吹き抜けた。
不安もある。試練もあるかもしれない。 けれど、私はもう、問いかけを受けた少女ではない。
私は、私自身の答えを持っている。
そのとき、馬車の扉が開いた。
「ソフィア嬢。街までまいりましょう」
アーノルドが、上等な礼装で、微笑んでいた。
「はい。……行きましょう」
空は澄み渡り、風は新たな旅の香りを運んでいた。