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episode 2

「ソフィ、ただいま」


「おかえりなさいませ」


いつもと同じように微笑み、両親を迎えた。腕を伸ばせば抱きしめてくれる、変わらぬ優しさ。


けれど、その夜の私は、いつもの私ではなかった。


「あら……目が腫れているのではなくて?」

母が顔を近づける。鋭い人だ、少しの変化もすぐに見抜いてしまう。


「あ……ちょっと、目がかゆくて……」

「お医者様に診ていただいた方が良くなくて?」

「いいえ、大丈夫ですわ」


そう返しながら、私は必死に心を押し隠した。両親はなおも不安そうに私を覗き込む。私は笑顔を崩さぬよう「大丈夫、大丈夫です」と何度も繰り返した。


けれど──

その夜も、次の朝も、私は心の中で同じ問いを繰り返していた。


本当に、このままでいいの?


両親を送り出してから、私は鏡の中の自分と見つめ合った。目元はまだ少し赤い。けれどその奥に、確かに何かが芽生えている。知らぬ誰かのように、泣き出しそうな顔をしていた。


「……こんな弱気だから駄目なのよ、ソフィ」


私は小さく、けれど確かに頬を両手で叩いた。パン、と鳴った音が、広い寝室に響く。


「君の人生は、それでいいのかい?」


テオの言葉が胸に蘇る。私の胸を貫いた、鋭い問い。


そして私は、決意していた。初めて、自分の足で世界を歩こうと。



---


その日の朝、私は両親を玄関で見送った。


「いってくるね」


「気をつけて、いってらっしゃいませ」


いつもと変わらぬやりとり。でも私だけは違っていた。扉が閉まるや否や、私は自室へ駆け上がった。


伸びた鳶色の髪を、手早く後ろで一つにまとめる。服は、母が仕立ててくれたボルドーのワンピース。足元は、幼き日に履いた編み上げブーツ。姿見の前でくるりと一回転して、そっと呟いた。


「これで……よし」


胸の奥で鼓動が波打つ。私は階下に降り、屋敷の扉の前に立った。


重い扉を、震える手で開け放つ。外の空気は、想像よりも澄んでいて、少し冷たかった。


──今日、私は森を出る。



---


馬の蹄音を頼りに道を辿ると、小さな駅馬車が停まっていた。御者は年配の男性で、こちらを見るなり無愛想に言った。


「嬢ちゃん、行き先と運賃を」


「……これで足りますか?」


私は小さな財布からコインを差し出した。御者はそれを受け取り、うなずいた。


「王都中心まで運ぶ」


木の車輪が軋みながら、森を抜けていく。景色は次第に開け、空は広くなり、遠くに尖塔の並ぶ王都の街並みが姿を現した。


石畳の通り、人々の賑わい、屋台のパンの匂い。すべてが懐かしく、胸にしみて、涙が出そうになった。


──あぁ、私は本当に、閉じ込められていたのだ。


馬車から降りると、人々の間を歩くのにさえ戸惑う。けれど、胸の奥は不思議な幸福感に包まれていた。どこへ行くかなど、決めていない。ただ、歩きたかったのだ。


そして──


「君」


肩に触れる手に、振り返ると、ひとりの男性がいた。精悍な顔立ちに、刈り上げた茶色の髪。上背があり、武人のような雰囲気を持つ。


「見慣れぬ顔だ。どこの家の娘か?」


「……森の、奥の屋敷から」


「ほう……聞いたことがないな」


私が口ごもっていると、周囲の人々も立ち止まり、ざわざわと騒ぎ出す。


「見ない顔だな」「なんて美しい娘だ」「貴族か? それとも──」


戸惑いながら言葉を探していると、背後から、鋭く落ち着いた声が響いた。


「そこの君。無作法はおやめなさい」


その瞬間、騒ぎが静まる。


「ア、アーノルド様……!」


その名を耳にした瞬間、私の胸に何かが走った。


振り返ると、琥珀色の瞳が真っすぐにこちらを見ていた。


その人は、光を纏って立っていた。


琥珀色の瞳、肩に届く漆黒の髪、端正な顔立ちはどこか気高く、けれど冷たさはなく、目が合った瞬間、私はなぜか深い湖に足を取られたように動けなくなった。


「お嬢さん、お名前を伺っても?」


彼の問いに、私は反射的に答えていた。


「ソフィア、ソフィア・エストレーリャと申します」


その名を聞いた瞬間、彼の表情が驚きに染まる。そして、確信を得たように、ふっと笑んだ。


「やはり、君が……ソフィアか。信じられない。まさか、こんな場所で会えるとは」


彼が微笑むと、周囲の人々がさらにざわついた。街の誰もが彼を知っているらしい。


「君のことを、ずっと探していたのだ」


私は、口を開けたまま、何も言えなかった。


「こちらへ。話したいことがある」


そう言って、彼は近くのレストランを指差した。返事をする間もなく、私は誘われるように彼の後を追った。


店内は昼時で満席だったが、彼がひとこと耳打ちすると、奥の上座が魔法のように空いた。


彼は椅子を引き、優雅な所作で「どうぞ」と促す。


「ありがとうございます……。あの、アーノルド様……でよろしいのですか?」


「名乗るのが遅れたね。私は、オーガスト・アーノルド。第三王子の縁筋にあたる家系、領地は北方のグラースヴィレにある」


私はその名に覚えがあった。確か、かつて縁談話に上がった名家の令息の一人。けれど、両親が「我が家の娘にはふさわしくない」と却下した相手だった。


「……まさか、本当に貴族の方が……私に縁談を?」


「正式に申し込みをしたよ。けれど、君の居所が分からず、手紙も返され、ついには“存在しない娘ではないか”とまで囁かれ始めた。……そこで僕は、ある男に調査を依頼した」


「それが……テオ、ですね?」


「そう。テオ。素晴らしい働きをしてくれた。僕は彼に、報酬を倍にすると誓ったよ」


私は彼の誠実さに、少しだけ心が解けるのを感じた。


彼は微笑んだまま、言った。


「ソフィア。君に正式に求婚したい」


その瞬間、空気が止まった。


騒がしかった周囲の話し声すら、耳に入らなくなる。


「……え?」


まるで子どものような声を出してしまった。


「君は、僕が今まで見た誰よりも、美しい。聡明で、神秘的で……まるで、森の精霊のようだ」


「そ、そんな……」


「顔を赤らめる君も、魅力的だ」


どうしよう。私は心の中で混乱していた。こんな風に褒められたことなど一度もない。夢の中でさえ。


「返事は急がなくていい。だが、君と人生を共にしたい。それが、僕の願いだ」


そう言いながら、彼は胸元から文封筒を取り出す。


「君のご両親には、正式な書状で申し出る。だが君にも、直接伝えたかった」


私は何度もうなずくことしかできなかった。言葉にすると、すべてが壊れてしまいそうで。


「では、家までお送りしよう。馬車を用意させてある」


そのまま彼は席を立ち、私もまるで夢の続きのように、それに従った。



---


帰りの馬車の中、私は静かに窓の外を眺めていた。色鮮やかな街の賑わいが、少しずつ遠ざかってゆく。


あの人は、ほんとうに私を選んだのだろうか。


テオのまなざしを思い出す。


「君の人生は、それでいいの?」


私はまた、答えを見つけられぬまま、森の奥へと戻っていった。


けれどもう、以前の私には戻れない気がしていた。


森が深くなるにつれて、馬車の車輪の音が鈍くなっていく。あれほど明るく賑わっていた街の風景が、まるで幻のように遠のいていった。


「ここでよろしいですか、お嬢さま」


御者が静かに尋ねる。私は黙ってうなずき、馬車を降りた。目の前には、見慣れた我が家──けれど今は、どこか冷たく、閉ざされた塔のように見える。


「ありがとうございました」


一礼して馬車を見送ると、私は鉄製の門扉を押し開けた。ひんやりとした空気が肌を撫で、重たい扉の音が、森に吸い込まれていく。


足を踏み入れた瞬間、家の中の空気が肌に絡みついてきた。街の光とは異なる、沈黙と管理された秩序の匂い。


私は息を整え、扉を閉め、鍵を戻す。玄関灯を灯すと、部屋中に人工的な明るさが広がった。すべては変わらぬ場所──なのに、私の心はもう、そこには留まれなかった。


ソファに腰を下ろすと、心臓がようやく自分のものに戻った気がした。


両親が帰ってきたら、私はどうすればいいのだろう。あの人のことを話す? それとも、黙っている? けれど、あれだけの出来事を、どうして「何もなかった」と言えるだろう。


──ガチャ。


扉が開く音がした。


私は立ち上がった。


「おかえりなさいませ」


いつものように微笑むつもりだった。けれど、玄関から現れた両親の顔を見た瞬間、その笑みは凍りついた。


父の顔は怒りに染まり、母の目は不信で揺れていた。


「なんてことをしてくれたのだ!」


父の怒声が、広間に響いた。


「……え?」


「街で、お前の噂を聞いた。グラースヴィレのアーノルド公子と、手を取り歩いていたと!」


「どうして、勝手な真似を……!」


母の声は震えていた。それは悲しみよりも、怒りに近いものだった。


「お前のためを思って、どれほど……!」


父の手がテーブルを叩く音がした。母は私に歩み寄り──その瞬間、頬に熱が走った。


母の平手が、私の左頬を打っていた。


「あなたのことは、もう……信じられない」


その言葉が、まるで呪詛のように私の胸を貫いた。


言い返そうにも、声が出なかった。言い訳をしようにも、何も思い浮かばなかった。私はただ、息をするのさえ忘れていた。


「あなたは、この家にいる資格がない」


母のその言葉に、私は崩れるように膝をついた。


全身が震え、唇が冷たくなっていく。何かが、私の中で壊れていく音がした。


街の光も、琥珀の瞳も、緑のまなざしも──

すべてが夢だったのだろうか。


いいえ。


私は、夢ではなく、初めての“現実”を生き始めていたのだ。


この痛みも、選んだ自由の代償。


「……ごめんなさい」


それだけ言って、私は自室へと向かった。

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