64 来るもの拒まず春の嵐の来訪者
「義隆様」
ノックの音に続いて声をかけられ、何事もなくドアが開いた。ふたつの旅行カバンを手にして入ってきたのは秘書の田中だ。
「手間をかける」
ベッドからゆっくりと田中に向かって歩く義隆は全裸だ。
「義隆様、せめて何か羽織ってください」
「備え付けのバスローブが小さいんだ」
「左様でしたか。ではこちらが役に立つかと思います。旅館の女将が渡してくれました」
2つのカバンを持つ腕の上に乗せられた風呂敷包を義隆に手渡した。
「お代を弾まなくてはならないな」
「そのように手配致します」
「おじい様からの就職祝いにケチをつける訳にはいかないからな」
手にした風呂敷包をテーブルの上で広げれば、中には旅館の浴衣が入っていた。春を思わせる萌黄に襟元に淡い桃色がはわせてある。
「返品は不要との事です」
「気を使わせてしまったな」
一枚を手に取り袖を通す。体格のいいアルファの義隆が着ても、借り物感がまるでない仕立ての良いものである。
「旅行かばんはどちらに置きましょうか?」
田中は当たり前の顔で部屋の中に入ってきて、部屋の中を軽く見渡した。クローゼットのようなものはなく、壁にハンガーが直接かけられる仕様になっていた。
「そのソファーの上においてくれ。それと飲み物と食べ物なんだが……」
義隆が言い終わる前に田中が紙袋を出してきた。いったいどうやってこんなに大量の荷物を運んできたのか、はなはだ疑問ではあるものの、義隆はそれをありがたく受け取った。
「さすがは女将といったところか」
紙袋の中身は泊まっていた旅館からだった。一口サイズに握られたおにぎりに、綺麗にカットされた果物、それから旅館で人気の温泉水を使ったパンのサンドイッチ。この地域の天然水のペットボトルも入れられていた。
「重箱に入っているのが義隆様のお食事になります。温かいうちにお召し上がりください。重箱は食べ終わりましたら部屋の外に出しておいてください。回収しますから。それと、お食事についてリクエストがあればおっしゃってください。女将が誠心誠意対応しますと申し出てくださいましたから」
「ずいぶんと対応がいいな」
「一之瀬家は何代にもわたっての上客ですからね。御贔屓客ではあります」
「おじいさまにご連絡をしておこう」
「お願いいたします」
「貴文様のご家族と会社には私が連絡いたしますのでご心配なく」
「すまない」
田中はいったんラブホテルの事務所に戻ると、一之瀬家お抱えのシークレットサービスのリーダーと顔を合わせた。
「お疲れ様です。島野さん」
「お疲れさん。まさかうちの愚息が役に立つ日が来るとは思いませんでしたよ」
「実に素晴らしい偶然です」
「そういったところも、さすがは一之瀬様ってとかなんでしょうけどね」
「私は一度東京に戻り報告しなければいけません。あとはお任せしても?」
「了解。旅館から食事が届いたらお届けすればいいんでしたよね?」
「女将自ら来てくださいますので、間違うことはないでしょう」
「了解。ここのオーナーってやつはいまだに来ませんけど?どうします?」
「来るまで放置でいいでしょう。経営者として職務怠慢がすぎますからね」
「了解。お気をつけて」
田中が駐車場に出てみれば、身だしなみを整えた妹の麻子が立っていた。
「お兄様、東京にお戻りになるのでしょう?私も連れて行ってくださいな」
「真也は如何しました?」
「真也さんは私を置いて帰ってしまいましたのよ。ひどすぎません?私、あの部屋に一人で泊まりましたの。寂しかったですわ」
「寂しい思いをしているのは……」
「ですから、私も連れて行ってくださいな。お兄様」
「さっさと乗りなさい」
当たり前の顔をして麻子は助手席に座る。
「お兄様、私朝ごはんがまだですの」
「安心なさい。私もだ」
その日の午後、杉山家に来客があった。
「父さんやばい。外に停まった車、絶対に一之瀬様よ」
「どうしてわかった?」
「だって貴文が乗っていったやつの新型だもん」
「なんだって?」
リビングのソファーに座り、唯一の楽しみである競馬を観ていた父親は驚いて立ち上がり窓の外を凝視した。さして広くもない庭の低い塀の向こうにキラキラ光るこのあたりに似つかわしくない超が付くほどの高級車が停まっているのが見えた。たとえレースのカーテン越しでもはっきりとわかってしまう重厚なボディーだ。
「お父さん、大変」
パタパタとスリッパの音を立てながら母親がリビングに入ってきた。
「わ、わかってる。わかってるぞ。み、みんなで玄関に行こう」
父親がそう提案した時、インターホンが高らかに鳴った。
「貴文さんをいつまでも裸のまま寝かせていてはいけないな」
昨夜は若気の至りで飲まず食わずで、貴文の体を清めてそのまま寝入ってしまった。風邪をひかないように暖房を強めに設定したら空気がやたらと乾燥した気がする。布団の中で抱きしめて、唯一持っていた飲み物は貴文が途中のコンビニで買ったスポーツドリンクだった。春限定のベリー味なのだと言って、嬉しそうに買っていた。何とか貴文に飲ませはしたものの、明らかに足りてはいないだろう。
義隆は紙袋からペットボトルを一本取り出すと、一気に飲み干した。自分の食事の前に貴文に何か着せた方がいいのではないかと思い、義隆は貴文の旅行鞄に手をかけた。さすがに浴衣一枚では下半身が冷えるだろう。
「貴文さん、俺が用意した下着より自分で用意した下着の方がいいよな?せめてパンツは履いた方がいいだろう」
そうつぶやきながら義隆は貴文の旅行鞄を開けた。中はきちんと仕分けられていて、汚れたものはビニル袋に入れられているらしかった。
「下着と靴下はここか……」
そこの一角に入っていたものを取り出してテーブルの上に並べ、数を数えて義隆は唖然とした。二泊三日の旅行である。肌寒かった時のために薄手のセーターがあるのはわかる。だが、義隆には理解できなかった。
「貴文さん、どうしてパンツが三枚なんですかぁ」
それは貴文が持ってきたパンツの枚数であった。




