41 多分俺以外は知っている
「お兄様、美幸です」
医師が帰ったあと、何故か妹の美幸が部屋を訪ねてきた。オメガであるから、美幸が控え室として使用している部屋はこの階ではなかった。
「わざわざどうしたんだ?」
リビングのソファーに美幸を案内しながら義隆が聞いた。途端に美幸の頬が膨らんだ。
「酷いわ、お兄様。私だって貴文さんにプレゼントを渡したいんです」
そう言って目の前に突きつけてきたのは、なんとも可愛らしいラッピングだった。クリスマスらしい色合いの包装紙が使われ、本体に負けないほどの巨大なリボンが飾られていた。これでは一体どちらがプレゼントなのか分からないが、見て楽しむものなのだと言われればそこは納得するしかないのだろう。
「しかし、貴文さんは……」
チラと貴文が寝ている部屋の方を義隆はみた。
「知っています。インフルエンザにかかられたんですよね?」
そう言って美幸はポケットからマスクを取りだし自分の手で装着した。
「これでよろしいでしょう?」
ニッコリ笑って言われてしまえば、兄として断れるはずもなかった。
「貴文さん?」
間接照明のついた部屋に向かって声をかけてみる。
「……ん?あ、義隆くん?」
どうやら微睡んでいただけのようで、貴文が返事をしてくれた。
「はい。ご迷惑でなければ部屋に入ってもいいですか?」
マスク越しでは微かにしか感じないが、甘いケーキのような匂いが鼻腔を刺激した。
「え?言いも悪いも、ここ、俺の部屋じゃないし」
そう言って貴文が慌てて起き上がったから、義隆も慌てて駆け寄った。
「危ないです。貴文さん」
ダブルベッドよりも大きなキングサイズのベッドだ。貴文は手を着いたのだけれど、ふわふわとしたベッドに負けて上体が傾いた。
咄嗟に駆け寄った義隆が肩を支え、貴文の上体をキチンとした体勢にもどし、素早く複数のクッションを背中に当てた。
「ご、ごめん。また迷惑をかけた」
焦った貴文が顔を上げると、そこにはしっかりとマスクをした義隆の顔があった。
「心配しないで下さい。ちゃんと対策をしています」
貴文は数回瞬きをした後、入口付近に立つ美幸に気がついた。こちらも当然のようにマスクをしている。さらにはその後ろに立つ田中もである。
「貴文さん、私からのプレゼントも貰っていただけませんか?」
そう言って可憐な少女が小首を傾げて聞いてきた。会場で見た時とは違う服装ではあるが、ふんわりとしたシルエットのワンピースは、まるでおとぎ話の主人公を思わせた。
「え?え?だって俺、手ぶらで……」
慌てる貴文を他所に、美幸はベッドまで近づいてそのまま貴文の膝の上に可愛らしいラッピングのプレゼントを置いた。
「お兄様がお友だちを連れてきたのは初めてなんです。是非とも私ともお友だちになってくださいな?」
年下の、一回りは年下の可憐な少女にそんなことを言われて、断る勇気のあるアラサーベータがいたら見てみたいものだ。
「は、はいっ。こちらこそ、喜んで」
どこかの居酒屋の店員のような返事をする貴文であった。
「よかった。それではまた、貴文さん」
ニッコリ微笑まれて言われれば、首振り人形のごとく何度も頷いた。
立ち去る美幸の背中を眺めつつ、貴文はぼんやりと部屋の中を確認した。確か、廊下の向こうに貴文の家が丸ごと入りそうなリビングがあった。その部屋からバスルームに行ったのだと思い出す。
「よいしょ」
ふわふわしたベッドの上を何とか移動して、床に足を下ろすと、スリッパなどいらないぐらいに床にはふわふわの絨毯が敷かれていた。
「ええと……」
一歩足を踏み出すと、なんだか視界がグラグラと揺れた。これは相当熱が高いに違いない。貴文はそう思いながらもフラフラとした足取りで部屋のトビラに手をかけた。
「貴文さん?」
恐らく同時に扉に手をかけたらしい義隆とバッチリ目が合った。
「危ないです。倒れでもしたら」
義隆がすぐさま貴文の腰に手を回し、支えてきた。
「ああ、うん。ごめん。トイレに行きたくて」
体が熱くて汗もかいているというのに、生理現象は治まらなかったらしい。
「トイレ、ですか?それならこの部屋にもついてますから」
言うやいなや義隆は貴文のことを抱き上げて、そのまま大股で部屋の中を移動した。貴文は抵抗することも出来なかったが、義隆の大股歩きの振動がどうにもむず痒くて仕方がなかった。
「こちらです」
寝室の奥にトイレが着いていたらしく、手洗い場も含めれば貴文の家のトイレの6倍ほどあった。スっと床に降ろされ、そのまま腰を支えられたが、さすがにこの介護はいただけない。
「あ、うん。自分でできる、よ?す、座ってするから心配しないで」
そう言って何とか義隆を追い出して、貴文はようやく落ち着いたのだった。だが、手を洗おうとすれば義隆が後ろから抱きつくような体勢で手伝ってきて、挙句ベッドに戻ることさえさせてはくれなかった。
「何か食べて薬を飲みましょう」
ベッドに座らされ、背中にはたくさんの枕、そしてとてもいい匂いのする食事が運び込まれた。
「ホテルの中華部門に作ってもらったお粥です。栄養を取った方がいいと思うんです」
サイドテーブルの上に置かれたのは貴文が見た事のない黄金色のお粥だった。何か細長い物が見えるのが気になるが、そんなことを気にしてしまえば恐ろしくて口にすることが出来なくなる。
「さっぱり食べるなら、この黒酢をかけてみてください」
白い陶器の調味料入れがそっと置かれた。いかにも中華っぽいその入れ物を見て、貴文は内心ドキドキが止まらない。けれど、無情にも貴文の腹がクゥとなってしまったのだ。
「あ、う、ぅあ……」
恥ずかしすぎて顔が赤くなるのをしっかりと味わいながら、貴文は使い慣れないレンゲを手にした。
「いただきます」
一口口にしてみれば、熱すぎずぬるすぎず、大変食べやすい温度のお粥で、白米のお粥と違い深いコクがあった。そして時折口の中に何やらコリコリとした食感が現れる。
(考えたくは無いけれど、フカヒレじゃないよな。でも貝柱でも十分お高いよな?珍味の貝柱一袋千円ぐらいするもんな)
モグモグと口を動かしながら、貴文の頭の中は今食べている食材が何なのかでいっぱいだった。
「具は鶏肉とこちらはザーサイです」
義隆が解説してくれたので一応一口食べてみる。いわゆる梅干しと海苔の佃煮的なものだと考えればいいのだろう。箸で摘んでお粥の上に乗せ、少しずつ混ぜながら食べ進める。
(黒酢は体にいいって聞いたぞ)
いつどこで聞いた知識かは忘れたけれど、都市伝説ではなかったはずだ。けれど小心者である自称平凡ベータな貴文は、用心してレンゲによそった一口分にほんの少しだけ垂らすのだった。
「ああ、うん。サッパリするね」
かけた時、少しとろみがついていたから見た目で黒蜜みたいだと思った貴文であったが、口に入れれば確かに酸味があった。鼻から抜けるのは確かに酢だった。だが、貴文の知っているやや透明な醸造酢とは違い、口の中はまろやかだった。
「ああ、美味しかった」
なんだかんだで全て平らげて、貴文は大満足だった。家で寝込んでいたら、百歩譲って姉がレトルトの玉子粥を出してくれるぐらいだっただろう。
「よかった。では貴文さん、薬の時間です」
そう言って義隆が貴文の手のひらに錠剤の薬を二粒置いた。ガラスのコップには水が七分目まで注がれている。
「あ、うん。はい」
言われるままに貴文は手のひらに置かれた錠剤を水で飲み込んだ。
「あ、熱計らなくちゃ」
薬を飲み込んで気がついた。こんなに体が熱いのだ。さぞや高熱に違いない。
「ご飯食べちゃいましたからね。寝て起きた時に測りましょう?」
義隆にそう言われ、いとも簡単に寝かしつけられてしまった。
「水はここに置いておきます。ストローがささっていますからこぼさず飲めますよね?」
サイドテーブルを貴文の頭の位置に動かし、義隆はストローのささったペットボトルを見せてきた。なんとも至れり尽くせりで、貴文は黙って頭を縦に振るのだった。
マスクをしている義隆の表情は分かりにくかったが、それでも満足そうに笑っているのは目を見ただけで伺いしれた。
「では貴文さん。おやすみなさい」
義隆はそう言って部屋の明かりを間接照明に切り替えて出ていってしまった。
(あの空気清浄機、10万円ぐらいするやつだ。最初置いてなかったよな。わざわざ俺のために買ってきたのかな?)
寝たことにより目線が下がって、余計なものを見つけてしまった貴文なのであった。




