40 出勤停止は七日間
「貴文さん、体温を測りましょう」
声をかけて布団を少しはがした。着替えの際、貴文に新しい下着を用意したのは義隆だ。前回貴文が買っていた下着を参考に買いそろえたのだ。そのおかげで今、貴文の胸は守られている。
「うん、お願い……します」
ほんの少し貴文の肌は汗ばんでいた。
ピピっいう測定終了の電子音が鳴るまでの時間が、ずいぶんと長く感じられた。
「熱はそんなに高くはありませんね。37度5分です」
念のため、デジタルの表示を貴文に見えるようにすると、貴文は自分のおでこに手のひらを当てて呟いた。
「そんなに熱、ないいんだ……」
どこかがっかりしたような響きの声をだした。
「これから上がるかもしれませんよ」
義隆はそう言って貴文の前にミネラルウォーターを出した。透明なボトルの中で透明な水が波を打つ。
「水……」
貴文の口が開いた。
「喉、乾きますよね?飲みましょう?」
義隆はそう言って、貴文の体を起こした。こういう時のためにベッドに大量の枕は不可欠である。手早く貴文の腰や背中の後ろに挟み込み、状態を安定させた。こういったことを習いもしないで、とっさにできてしまえるのがアルファならではの能力なのだろう。
「ん、冷たい。おいしい」
貴文の喉が上下するのを義隆はじっと見つめていた。何度も何度も嚥下を繰り返し、ペットボトルは半分ほどが無くなった。
「医者を呼んでいますから、心配しないでください。ご自宅にも連絡を入れておきますね」
貴文を再び寝かしつけ、義隆は部屋に設置されていた空気清浄機のボタンを操作した。
「30分以内にはこちらに到着するそうです」
リビングルームに戻ってきた義隆に、田中が報告をする。距離と準備する道具のことを考えると、随分と手際がいいということだ。
「そうか、分かった。俺は貴文さんのご家族に連絡を入れておく」
「そのくらいは私がいたしますが?」
「いや、俺がしなくては駄目だ」
義隆はそう言って自分のスマホを操作して貴文の自宅に電話を掛けた。一般的なベータ家庭であるから、家族全員がスマホを持っていても固定電は存在する。数回のコールの後、電話口に出たのは貴文の母だった。手短に用件を伝えると「まぁ」とか、「そんな」とか、だいぶ動揺している反応だった。
「インフルエンザにかかったことにした」
通話を切った後、義隆はぶっきらぼうに田中に報告をした。インフルエンザなら一週間は時間が作れる。しかも一週間後は正月だ。つまり、このまま貴文と新年が迎えられるというわけだ。
「賢明な判断ですね」
田中はそれだけ答えると、往診の医者を迎えるために部屋を後にした。
「傍にいたいけど、難しい、な」
田中がいない今、自分勝手な行動は控えなくてはならない。とにかく今は、医師の到着を待つのみである。
そうして田中が医師を連れてくるまで大した時間はかからなかったが、義隆にとってはとてつもなく長い時間であった。
「お待たせしてしまいましたね」
医師はお約束のような言葉を口にした。
「いや、こちらこそ無理を言った」
義隆が返事をすれば、田中が貴文の眠る部屋に案内をした。貴文は義隆が寝かしつけた状態のままだった。
「ふむ。前回よりフェロモンの濃度が上がっているようですね」
部屋に入るなり医師はそう言って、眠る貴文の横にそっと座った。そして貴文に声をかけたが、反応は鈍い。
「フェロモンの値を調べますね」
そう言って貴文の首元に機械を押し当てる。電子音がして、表示された数字はどんどんと大きくなっていった。ある程度の数値で上昇が緩やかになり、そうして数値が確定した。
「うん、まあまあな数値が出ましたが、それでもまだ足りませんね」
医師はタブレットに出た数値を入力していく。なんのことが書かれているのかはわからないが、貴文の数値はまだ足りないらしい。
「あのですね」
医師は義隆の顔を見て話し始めた。
「彼、今発情しているんですよ。前回から数えておおむね三か月なんで、周期としては正常で順調なんです。そこは子宮がきちんと成長していることが要因の一つかもしれませんが、他に何か心当たりはありませんか?」
医師に聞かれ義隆は考え込んだ。
「もしかして……おじいさま?」
思い当たることは一つだけあった。会場で貴文に近寄ってきたのはオメガ一人だけだった。アルファもいたことはいたが、子どもであったから、そもそも近づいてさえ来なかった。唯一貴文に接近し、あまつさえその体に触れたのは誰あろうおじいさまの一之瀬和親に他ならなかった。
「和親様が?なにかされたのですか?」
医師が怪訝そうな顔をして聞いてきた。
「何もされては……いや、もしかして、あれがそうなのか?」
義隆はあの時のことを思い返す。おじいさまは初対面の貴文の名前を間違いなく口にした。事前に大切な人を連れていくことを申請はしたけれど、貴文の名前は伝えていなかったはずだ。直系の孫がしていることぐらい、把握済みだったのだろう。そのうえで、あえて貴文を孫扱いして頭を撫でていったのだ。
「おじいさまが、貴文さんの頭を撫でたんです」
義隆がそう答えると、医師は考え込むような仕草をした。
「頭、ですか。可能性としてはありえそうですね。頭からアルファのフェロモンを浴びせたのかもしれません」
「頭から……そんなことができるんですか?」
基本的な疑問が沸き起こる。頭に手をかざしただけでフェロモンを出せるものなのだろうか?
「フェロモンってコントロールできますよね?おそらく、和親様は義隆様へのプレゼントのおつもりだったのかも知れませんね」
そう言われればそうかもしれない。まだ子どもの部であり、おじいさま本人も孫だと言っていた。番でもなければオメガでもないわけだから、当然義隆はおじいさまの手を止める権利何て持ち合わせてなどいなかった。はたから見れば、一之瀬家のトップに認められた外部のベータだった。
「そんな、ことが?」
けれど、考えればきっかけはそれ以外に考えられなかった。義隆は、ただ単純におじいさまにも貴文が認められ、一族の誰もが貴文を排除することができなくなった。と思っただけだったのだが。
「成熟したアルファですからね。きっかけを与えてくれたのかもしれません。なんにしても数値は上がっています。本人がインフルエンザにかかったと勘違いをしてくれているのなら、それでいいのではないでしょうか?」
そう言いながら医師はタブレットを操作して、カバンの中から薬のシートを取り出した。
「今の彼ならこのあたりの抑制剤でじゅうぶんでしょう」




