16 赤ずきんはどっちだ
「これから毎日送迎させてもらえませんか?」
家の前に着いたとき、シートベルトを外そうとした貴文の手を掴んで義隆が言ってきた。その言葉を貴文は脳内で反芻する。情報量としては大したことではないが、なかなかに重大なことを言われている。
「毎日?」
これは極めて重要な案件だ。そう、通勤方法の変更届を出さなくてはいけない。
「はい。朝は乗り換えのJRの駅まで。帰りは会社から自宅までです」
ハッキリきっぱりとそう言う義隆の瞳は車外の街灯の光を反射させ、キラキラと輝いていた。
(なんだこれ、目が輝いてる。同じ人類なのか?やっぱりアルファだからなのか?)
義隆のキラキラとした瞳をまともに見てしまい、貴文の思考が急停止した。社会人としてしなくてはならないこと、するべきことが今さっきまで脳内で思考されていたというのに、今はもう、そんなこと頭の片隅のもない。いや、ギリギリ片隅にとどまっているだけだ。
「あ、そ、の、こぉつぅひのぉ」
何とか言いたいことを言葉にしようと努力する。だが、まったく意味のある言語にはなってはいなかった。だが、それを察した義隆が斜め上な回答をしてきたのだった。
「安心してください。通勤方法の変更は受理されていますから」
そう言って貴文の目の前に一枚の紙きれを出してきた。よくあるA4サイズのコピー用紙に、見覚えのある言葉が印刷されていた。
「俺の、通勤方法の変更届……受理されてる……」
今日の通勤方法でそのまま申請されていて、総務課長が本日付で受理していた。つまり、貴文は今日から乗り換えに使っていたJRの駅まで自家用車で、その後会社の最寄り駅までがJR使用、帰宅時は自家用車という申請が通ってしまっていた。
「一週間も意識が戻らなかったんです。何が起きるかわからないから本当は電車になんて乗ってほしくはありません。けれど、杉山さんの言うとおり、朝は道が大変混雑していて、時間通りに出勤できないとわかりました。ですから、朝はJRの駅まで帰りは自宅までということにさせていただきました」
いやいや、させていただきましたって。と貴文は脳内で軽く突っ込んだ。いろいろと考えてはみるものの、どうしてこうなったのか皆目見当がつかないのだ。貴文の勤める会社は、一之瀬グループの傘下にはなかったはずだ。もしかすると、貴文が知らないだけで、取引はしているのかもしれない。しかし、一社員である貴文の通勤方法がこうも簡単に変更されてしまうとは驚きだった。誰がどうしてどうやったのかはわからないけれど、いや、どちらかと言うとわかりたくはないし、世の中知らない方が幸せなこともあるだろう。
「はぁ、そう、なんですね」
貴文はなんともあいまいな返事をするしかなかった。これはどうにもならないらしいということぐらいはわかっている。
「では、明日も今日と同じ時間に迎えに来ますね」
そうしてようやくシートベルトを外してもらい車外にでる。カバンを手渡され、それからもう一つ、紙袋を持たされた。
「俺の好きな店のお菓子なんです。貴文さんのお口に合うといいんですが。……あ、これは今回のことについてのお詫びの品です。受け取って、いただけますよね?」
まだ西の空はかろうじてオレンジ色の名残が見えた。定時退社して、こんな時間に家に着いたのは初めてのことだ。自宅の車庫にはまだ姉の車が停まっていない。いるのは母親だけで、シャッターが閉められているから、貴文が家の前にいることなんて気が付いてはいないだろう。
「ああ、うん。いただきます」
そう言われてみれば、ぶつかったわけではないけれど、ぶつかりそうになってよけた直後に倒れたのだった。と思い出す。車ではないのだから、なにも責任問題なんて生じないだろうと思うのに、こんなにも律儀に対応されてしまい貴文は正直対応に悩んでいた。もしかすると倒れたのは貴文の年齢のせいかもしれないのに、責任をここまで感じさせてしまうのは申し訳ないと思う。
だが、貴文が所属する組織がそれを良しとしたのだ。つまり、五大名家の一つである一之瀬家とこの件をもってなにか懇意を結びたいと会社の上の方の人が考えているのかもしれない。そうだとすれば、ベータで平社員の貴文は黙って大人しく従っておくのが吉なのだろう。
「それでは、杉山さんお疲れさまでした。また明日、おやすみなさい」
貴文を玄関先まで送り丁寧にあいさつをして義隆は車に戻っていった。走り出す車を見送るのは昨日と同じだ。そうして車が見えなくなってから、貴文は玄関の中に入るのだった。