10 日常とはつかの間のもの
「どうもありがとうございました」
田中に深々と頭を下げて、車が見えなくなるまでは玄関の外にいた。営業ではないけれど、一応送ってもらったのだからそのくらいは礼儀だろう。
貴文はカバンの中から家に鍵を取り出して、久しぶりの我が家に帰宅した。家の中は、いつもと何ら変わりはなかった。そもそも貴文が不在だっただけで、他の家族は普通に生活していたのだから。
「とりあえず部屋に行くか」
なんとなく呟いて、階段を慣れた足取りで登っていく。特に足に違和感はなく、いつも通りに上って、そうして自分の部屋のドアに手をかけた。もうずいぶん涼しくなってきたから、部屋に入った途端にこもったような空気は感じなかった。だが、ついつい習慣で窓を開けてしまう。秋とはいえ、晴れていれば暖かい。ただ、風が少し冷たいだけだ。
「ああ、買った下着を水通ししなくちゃ」
まだ日は高い。冬物とは言えど、下着ぐらいなら乾燥したこの陽気で乾くだろう。
貴文は紙袋から下着を取り出し、丁寧にタグなんかを外すと、また一階におりて洗濯機の前に立った。
「おしゃれ着洗いかな?」
ちょっと考えたのち、洗濯機のモードを決定して蓋を閉めた。水が注がれる音を聞きながらリビングへと移動した。
すっかり充電が無くなったスマホに充電ケーブルをさした。少し間をおいてスマホが揺れると、起動画面が現れた。この画面はめったに見ないからなかなか新鮮だ。画面にアンテナが表示されると同時にものすごい勢いで通知音が連続でなりだした。貴文が驚いて画面をのぞけば、同期の島野からだった。日付を見れば五日前に大量に送り付けている。会社ではいったいどのような説明がされたのだろうか。そもそも、倒れて入院した同僚にこんな勢いで連絡を入れてくるのはどうなんだろうか。と考えてしまうところだ。
ゆっくりと画面をスクロールさせながら、島野のメッセージを一つ一つ読んでいく。相当心配をしてくれていたようだった。まあ、来年30になる独身ベータ男子同士ということで、いろいろな面で心配なのだろう。
「あ、会社に連絡しなくちゃ」
入院の連絡は田中がしてくれて、うまいこと何とかしてくれたらしいが、退院の連絡はやはり自分でしなくてはならないだろう。道中の車内でそんな話はなかったわけだし。
電話のアプリを使うのなんて、そうそうあるわけではないから、電話帳から職場の番号を探すのに少々手間取った。昼休み前だから、もしかすると外線は出てもらえないかもしれない。なんて思ったものの、あっさり出たので拍子抜けしてしまった。
「杉山です」
そう名乗ればすぐに課長にかわってきたので、貴文は内心ほっとしつつ退院の挨拶をした。