ユーベルトの困惑 02
ピアスを見つけて卒倒したユーベルトは、必死に外そうとした。ところがキャッチ部分を引き抜こうとしても、ネジになってるのかと回してみてもどうしたことか全然外れない。どうすればいいのかと焦りながら、ピアスが刺されたことを父に報告しなければならないことを思い出した。
いくら個人の誓いとはいえ、何処までも家が絡むのが貴族である。家長に報告して、相手が同姓なら同性婚をしなければならないし、異性であれば実らぬ花を誓って性交渉を封じる処置をしなければならない。その上今回ユーベルトは相手のことをすっかり忘れているから、文官である父の伝手を辿って相手を特定しなければならないのだ。
気は重いが、思い立ったら行動に移さなければならない。親子といえどユーベルトは軍の寮住まいなので父への面会予約が必要になる。なるべく早くに時間が欲しいと思えば父の職場に顔を出さなければならない。ユーベルトはせめて鬱血痕だけでもと治療用の固定包帯を貼り付けて隠してから部屋を出た。
扉の音を聞いたのか、タイミングよく両隣から隣人たちが顔を出した。隣人たちは互いに顔を見合わせてニヤリと笑ったかと思うと「昨日はずいぶん激しかったけれど」とユーベルトを揶揄い始めた。
ユーベルトの記憶はすっかり消えているが、隣の部屋にはそれなりに何らかの音が漏れていたらしい。もしかしたらと思い、恥を忍んで自分が相手のことを忘れていることと何か知っていることがあれば教えて欲しいことを伝えると、それぞれ困ったように首を横へと振った。
「だいぶ遅い時間だったから自分の部屋で物音を聞いただけなんだ」
「俺もそうだな。声は聞こえてきたから性別は分かったよ。気の毒だがあの低さは男だと思う……体は大丈夫か?」
二人ともずいぶん痛ましげに見てくるので、どうやらユーベルトが組み敷かれた方だというのは決定的になった。わかっていたことだが落ち込んでしまう。二人の話からするに、最後まで致しているのかもしれない。全く違和感も痛みも無かったから油断していたが、相手が魔術士や魔術の課程を修めた者ならば事後に治癒魔術をかけられている可能性がある。
「迷惑をかけたようで済まなかった。用事があるから出かけるけれど、もし誰か尋ねてきたら教えて欲しい」
「すまないが、今日は仕事なんだ」
「……じゃあ俺が頼まれてやるよ。非番だし予定もないからな」
請け負ってくれた左隣の隣人にお礼を言ってユーベルトは部屋の鍵を掛けて父の職場へと向かった。
城内に入ると、さらに好奇の目がユーベルトに突き刺さった。それも致し方ないことだと割り切りながらユーベルトは文官棟に足運ぶ。
ピアスを刺す意味は貴族間で知らないものはいないし、ピアスが耳に有る者もいるが、その大半は女性なのだ。しかもユーベルトの耳に付けられているのは装飾が豪奢なもので、明らかに身分が高い者から刺されたと分かる。
ユーベルトを見ながらコソコソと話し始める者たちはきっと、何処の誰が凡庸で筋肉質な男の耳にと思っているのだろう。ユーベルトは自分こそそれを知りたいのだと苛立ちながら父が所属する情報管理室の扉をノックした。
暫くして向こう側から扉が開かれる。どうやら開いてくれたのは父だったようだ。彼は黙って応接室を指差して、そのまま歩いていく。ユーベルトはその背を追って応接室に入った。
「とんでもない噂になっているぞ」
「……いくら何でも情報が早すぎませんか?」
「それはそうだろう、男でも女と見間違うくらい華奢で美しいなら兎も角。何処をどう見ても凡庸な容姿に兵士だとわかる体格のお前がピアスをつけているんだぞ?相手は一体何処の誰なんだ」
どうしたものかと唸りながら、父はこめかみを揉みはじめた。これは事態を収束させるために案を練っている時の癖だ。余程でない限りこの癖はでないのだから、今回のことは余程のことらしい。
「父上、大変報告し難い話なのですが……」
「何だ」
「あの、実は、このピアスの持ち主を知らないのです」
「は……?」
信じられないとばかりに目を見開く父に、ユーベルトは居た堪れなくなった。それはそうだ、噂の渦中にいるのが自分の息子で、しかもその本人が相手を知らないと言うのだ。
「特定できないほどの人数と関係を持っている、というわけではないだろうな」
「そんな不誠実な事はしません。ただ、酔い潰れて気づいたら……」
「爛れている……」
「申し訳もございません」
父の言う通り、爛れているのは確かで有る。一夜を共にした相手に、知らぬうちにピアスを刺されると言う不覚。ユーベルトは泣きたくなった。あまりにも情けなさすぎる。
「父上、緑の目で特定の相手が居ない方をご存知ありませんか……」
「緑だと?」
そこでようやくピアスの色を確認したらしい父は、今度は驚愕に目を見開いた。
「緑なんて、お前、ユーベルト、アーゲンラッハ伯爵家しかいないだろうが!」
この国では次子以降が家を持てないため公爵が存在しないが、その代わり初代国王の時代から仕えていると言われる三つの侯爵家と四つの伯爵家がその役割を果たしている。不思議なことにその家の子息女達はそれぞれの家を司る色の目を持って生まれてくるのだが、その中でも緑の目と言えばアーゲンラッハ伯爵家なのだ。
混乱していてそんな基本的なことも忘れていたなんて。ユーベルトは頭を抱えた。両隣からの憐憫を含んだ目も、城内に入った途端向けられた不躾な視線も説明がつく。皆、ユーベルトの耳に有るピアスの色を見て気づいていたのだ。
そしてユーベルトは恐ろしいことに気づいてしまった。
「ち、父上、あの、アーゲンラッハ伯爵家には……」
「言うな。聞きたくない。私は何も知らない」
「そんなことを仰らないでください!伯爵家にはヘリオロス様しか残っていないではありませんか!」
「ああぁ……口に出すなと言っているのにお前はぁ……」
頭を抱えて項垂れる父を眺めながら、ユーベルトは自分の口から出た言葉を反芻した。「伯爵家にはヘリオロス様しか残っていない」とはつまるところ、アーゲンラッハ伯爵家の子息女の中で適齢期で尚且つまだ家に残っているのがヘリオロスしかいないということだ。ちなみに当代アーゲンラッハ伯爵家には六人の子息女がいて、ヘリオロスを除く全員が娘である。長子である姉は婿を取ってすでに子供を三人こさえているし、四人の妹達は他家へ嫁いでいるのだ。
「どうしましょう父上、ヘリオロス様なんて私には荷が勝ちすぎています!は、外してもいいでしょうか……!」
「早まるな……!あのヘリオロス様だぞ、勝手に外したら伯爵家に何をふっかけられるか……!」
親子揃ってパニックになっている最中、扉がノックされた。今は誰も通さないでくれと伝えてあるのにと父は訝しみながら扉へ声をかけると、扉が少し開いて女性が顔を覗かせた。
「急な来客が知らされましたので、こちらの応接室を使いたいと室長が」
どうやら幾つかある応接室が全て埋まっているらしい。他の利用者とは違い、私的な目的で利用されているこの応接室を空けて欲しいと上から言われているようだった。
「……分かった。ユーベルト、この話はまた後日。それまで大人しくしておくように」
「分かりました。なるべく職場と寮を行き来するだけにします」
父にそう言って、ユーベルトは情報管理室を後にする。部屋を出た途端に周囲の視線が集まるのを感じながら、ユーベルトは寮の自室へと足を早めた。
さて、伏線というのは張ったら回収されるものである。
それは物語だけではなく現実でも適用されることだったのかとユーベルトはしくしく痛む胃を抱えながら、気配を隠すべく息を殺した。
曲がり角の向こうにヘリオロスの姿を見つけてしまったからである。
不幸中の幸いというべきか、見えたのは後ろ姿だったのでユーベルトは角に隠れてやり過ごすことにしたのだ。
道ゆく人々に怪訝な顔をされてもこの際気にしない。不躾な視線を受けるよりヘリオロスと対峙する方が怖いのだ。
そろそろ大丈夫だろうかと向こうを覗き込んでみれば、姿が見えなくなっている。それにほっとしていると、背後から肩を叩かれた。
「可愛いことをしてますね」
振り向かなくてもわかる。ヘリオロスだ。
だらだらと冷や汗をかきながらユーベルトは軋む機械のようにギギギと後ろに向き直した。
深い緑色の目が弧を描いてヘリオロスを見下ろしている。
「こんな、何処からどう見ても女に見えない人間つかまえて可愛いはないと思いますよ」
「そうかな?」
彼はふふ、と笑ってピアスが刺さっているユーベルトの耳を見つめたかと思うと、不意に顔を近づけてきた。
「昨日はずいぶん可愛かったけれど」
耳元で喋られて、ゾワゾワとしたものが背筋を這い上がっていった。思わず身を捩ってその場から離れようとしたら、力任せに壁へ押し付けられた。強かに打った頭が痛む。あまりのことにユーベルトはヘリオロスを睨み上げて自分の腕を掴んでいるヘリオロスを払い除けようとしたが、うんともすんともしない。彼は全く動じずにもがくユーベルトを見下ろすだけだ。
そのことに、ユーベルトは自尊心を傷つけられた。
ユーベルトとヘリオロスは似たようでいて逆の立場だ。文官の家から兵士になったユーベルトと、騎士の家から魔術士とはいえ文官の職に就いているヘリオロス。騎士ほどではないがユーベルトは体が資本の仕事をしているのに、そうではないヘリオロスに意図も容易く動きを封じられてしまった。悔しくて、悲しくて、そんなふうに思うことが苛立たしくて顔が紅潮していく。それを抑え込むようにユーベルトは声を押し殺しながらヘリオロスに唸った。
「一体、何がしたいんですか……」
「分からない?」
「質問に質問で答えないでください」
睨み上げる目に、さらに険を加える。けれどヘリオロスはそれさえ面白がっているようだった。
「君以外は分かっているんだけれど」
そう言って触れられたのはピアスだった。
ピアスを触れた指はそのまま頬を伝って首筋に辿り着く。
「こんなもので隠して」
揶揄されたのが鬱血痕だということはすぐに分かった。カッとなって勢いのまま、今度こそヘリオロスの手を叩き落とす。生家の格も自分自身の立場もユーベルトはヘリオロスより何もかもが下の存在だから、歯向かえばユーベルトのような存在はすぐに消されるだろう。
けれど相手が自分より身分が高いとか、立場が上とか先輩だとか、そんなものはユーベルトの頭から抜け落ちた。
「前後不覚の人間を襲って、ピアスなんか刺しやがって!卑劣以外のなんだというんだ!」
「君は私に懸想してるじゃないか」
「ーーなっ、にを……!」
「君は私のことが好きなんだろう?それで私は君にピアスを刺した。それでいいじゃないか」
ふざけるなと怒鳴りたかったが、どこかに残っていた冷静な部分がそれを押し留めた。一体どこでユーベルトがヘリオロスに想いを寄せていることを知ったのか。ごく一部には気づかれているが、ユーベルト自身が直接明言したことはないのに。
ユーベルトが彼に懸想しているのは事実だ。それでもヘリオロスの言葉は否定しなければならない。硬く目を瞑って首を横に振った。
「情けないことに、私は何も覚えていないのです。どうしてピアスが刺さっているのかも、誰が私にピアスをさしたのかも」
「だからそれは私があの夜に……」
「いいえ。貴方だという確証なんてありません。もしこのピアスが貴方の物だと主張なさるなら、きっと不届者が勝手に使ったのでしょう。今すぐお返しします」
ヘリオロスから盗むなんて出来るはずもないことを分かっていながらつらつらと言い訳を並べる。そして、どうやっても外れなかったピアスを力任せに引っ張った。耳たぶを割いて外れたそれは血まみれになっていたが、遠慮なくヘリオロスの手を掴んでその上に乗せる。
「これで誤解も解けますね。それでは」
唖然とながら手の上に乗せられた血まみれのピアスを見つめるヘリオロスを一瞥して、ユーベルトは痛む耳をそのままに血を流しながらその場を立ち去った。