1
都市が燃えている。
かつて天を穿つほど高く聳えていた白亜の摩天楼は、全てが折られ、砕かれ、地に落ちている。白の街を彩っていた緑色の植物も残らず燃え、灰燼と化している。
青白い火に包まれたモノ達は悶え苦しみながらも、死ぬことを許されず、全員が灼熱に抱擁される永遠の苦痛を与えられ、かつてエリュシオンと名乗っていたヨーロッパの楽園は今日を以て滅亡する。
「私が怖いか」
崩壊した神殿の中央。以前は純白であったろう柱たちは火によって煤け、半ばから壊され、天井を支えられなくなり、屋根が落ちてきている。楽園の統治者、神を自称する存在の居城として作られた神殿だが、今では以前の様な威容は無い。
その中央にソレは居る。黒を基調とし、節々に銀色の装飾が施された全身鎧、と言うよりも強化外骨格とでも言うべきか。流れる世界の血が宿ったように赤い眼は吊り上がり、歯を食いしばっているのを表現している口の模様、全身に浮き上がる青筋の意匠。誰が見てもそのモノが怒りの化身であることは明白であった。
成人男性よりも一回りも二回りも大きな身長、そして太い腕は皮下で無数の蛆虫が蠢ているのではないかと思う程に、血管や筋肉が動いている。見た目では性別を推し量る事は出来ないが、少なくとも声は男性的だ。
「な......ぜ......」
そんなモノの片腕で首を締め上げられている、豊かな白髭を生やしたヒマティオンと言う一枚布で作られたワンピース型の上着を纏った老人は、声も絶え絶えに聞く。
この人物は自らをラダマンテュスと呼び、泰平の都を築き、そこを楽園エリュシオンとし、永劫に思える年月統治し続けていた。
「聞いているのは私だ」
指先に力を入れ、首を絞める力を強める。ギリシア神話に出てくる審判の神たるラダマンテュスを自称するだけはあり老人も伊達ではなく、それだけでは死にはしないが、死なないだけだ。久しく忘れていた苦痛に顔を歪めている。振りほどこうにも、両手足の腱を斬られ、治癒したくてもそれを阻止するために傷口を地獄の業火で燃やされ続けている。
「仏の顔も3度までと言うが、私を相手に3度目は無い」
ラダマンテュスが何か大罪を犯したのだろうか。楽園の住民に例外なく不老不死の能力を授け、飢餓や病気を始めとする苦痛が生じる事象の一切を排除し、常に民草が幸せでいられるように努めた。
楽園。その言葉に恥じぬ箱庭を創った。例え誰が聞いても例外なく、全ての住民が笑顔で幸福だと言える場所をだ。
滅びは無い。民は餓える事も病むことも無く、多幸感に口付けをされながら死を知らない故に永遠を生き、神たる己と自らが創り出した楽園守護騎士団の圧倒的な武力により、外的要因を退けてきた。
他の楽園の神と協力し、寿命が近づきつつある地球を延命させる事にすら成功した。
滅びる事は無い。そのはずだった。
「私が、怖いか」
神殿を燃やす炎を勢いが増す。憤怒の権化たるソレの言葉に呼応し、その揺らめきをより大きく、苛烈なものへと変えていく。
嗚呼、これが恐怖か。何百年、何千年ぶりのこの感情に、ラダマンテュスは全身の震えが止まらず、首を圧迫されている事もあるが、震えによって口は上手く回らない。その様はまるで幼い子供が、親に怒鳴りつけられ、今にも泣いてしまいそうな時の顔だ。
「こ、こっこ、こわっ、わっ......こ、わっい......」
極度の怯えにより、最早言葉を発しているとも言えないような呂律。
手で適当に丸められた新聞紙の様な顔は、余りにもラダマンテュスの外見年齢から反している。見た目だけが成長し、内側は幼児なのではないかと錯覚してしまう。
だが、この姿は当然の帰結である。
「無様だな。だが、堕落した貴様には相応しい格好だ」
一言一句ごとに指の力が強まり、首から軋む音が聞こえ始める。否応にも、この者が内に秘める激情が伝わって来る。ラダマンテュスを何十何百何千と地獄の業火で燃やし尽くしても、朽ちる事のない底知れぬ憤懣。
「貴様らは神でもなければ人間でも獣ですらない。歩むことを辞め、快楽に興じ、溺れ、抜け出すことを辞めた貴様らを語る言葉なぞこの世には存在しない。生物とは歩き続けなければいけない。人間とは考え続けなければいけない。前に進もうが後ろに下がろうが、左右に逸れようが一向に構わない。それもまた進化だ。そして人間は先の憂いに思いを巡らせ、案じ、熟考し導き出した先へと進む」
ラダマンテュスを持ち上げたまま腕を振るい、傍にあった柱の残骸へと背中を叩きつける。
「生物は本能によって、人間は理性によって生きる。貴様らはなんだ? 理性を捨て、根源的な本能である恐怖すらも今の今まで忘れていた貴様らは何だ」
神であった者は答えられない。強大な力を持ち、万人を導き、快楽だけがある楽園を築き統治する。故に神と名乗った。それ以上も以下の意味もない。己が何であるかなぞ当の昔に忘れ、神を自称するようになってからは考えたことも無かった。
考えずとも生きていけるから。そうせずともこの生活を維持できるのだから、余計な思考を巡らす事は無い。何か外的危機が迫ろうとも自分が何も考えずに力を振るえば大体の事が解決し、その前に楽園守護騎士団が処理する。
住民ともなればそれはより顕著だ。何故ならその危機があった事も、知らされないのだから。明日も幸福と快楽に満ちた幸せな日になると信じ実際のその日々が何千年と続き、今日それがたまたま夢と言う儚い泡となり散った。
「生物とは、人間とは、逆境により強くなる。進化をする。人間は知識を蓄え、経験を積み、困難を乗り越える事で成長し叡智を極める。だが貴様らは知識を蓄えず、経験をせず、困難から遠ざかり、成長ではなく停滞を選び、生物の中で人間を人間たらしめる理性を捨て去った貴様らは 獣以下だ。先にも言ったが貴様らの様な存在を言い表す言葉は無い。そのような贅沢を主は許さない」
老人の口の端から泡が溢れ始め、顔は赤く染まり、視界が狭まっていく。死にはしない。そのはずであった。しかし何千年ぶりに経験する死の感覚は、快感だけに染まった脳には余りにも劇物であった。肉体はこれに耐えられるほどに頑強だと言うのに、脳が不釣り合いなほどに脆弱なのだ。
「この世で最も主に恵まれ、愛されたていたモノ達よ。これが主による貴様らへの最後の慈悲だ。だが、主が貴様らにこれ以上の慈悲をかける事はもう2度とない。それは絶対だ」
恐怖と言う根源的であり普遍的な本能を呼び覚まし、永い、それこそ楽園があった年月と同等の苦痛を死や慣れすらも許されずに味わされる。
「どっど、ど、う......か......」
「過去に数えられぬほど機会はあった。しかし色欲に支配された貴様らが、それに気がつく事は無かった。目先の快楽を優先した結果がこれだ」
締めていた掌から辺りを燃やす青白い火が生じ、ゆっくりと蛞蝓の様に全身に広がっていく。
「主に感謝しろ。貴様らは今際の時に、生物として最低限の尊厳を取り戻したのだからな」
老人は子供の様な甲高い泣き声を発すると同時に、火は全身を包み永遠に思える時間、神を名乗っていた生物を燃やし続ける。
ここの住人が死ねるのは何千年後だろうか。常に死に際の恐怖の感覚に巻き戻される彼らが、その苦痛に慣れる事ない。何故なら常に死に際になった時を維持され続けるからだ。それが住人たちに与えられた唯一の贖罪なのだ。
「......」
締め上げていた手を放す。老人は業火に焼かれながら地面に落ち、体をくねらせながら苦痛に悶える。
憤怒の権化はそれに背を向け、地面に落ちていた深淵の闇を塗り固め作られたように黒いマントを羽織る。
去り際、顔だけ振り向き老人を見る。
「最早聞こえてはいないだろうが、地獄の名を教えてやろう」
その瞬間、周辺の炎が俄かに鎮まり、絶叫も些か大人しくなる。自らの王の名乗りを邪魔しないように。
「ゲヘナ。それが地獄の名だ」
地球の楽園を滅亡させる者たちが居る。凡そ100年前、突然現れたそれらは神の敵対者と箱庭の神々から呼ばれ、楽園守護騎士団と支配者との終わりの見えない戦いを繰り広げていた。しかし優位だったのは楽園側であり、最初の少しの間だけは多少の危機感を抱いたかもしれないが、こちら側が常に優勢ともなれば油断と慢心、そして慣れによって勝ちが確定している余興程度の遊び程度の認識となっていた。
だが数年前。ソレらは現れた。万を超える神の敵対者の軍勢を引き連れ、単体で楽園守護騎士団や神にさえ匹敵する圧倒的な暴を保有する個体。奈落の王、楽園側はその個体群をそう呼称した。ゲヘナもまた、奈落の王と呼ばれる者たちの1人だ。
だが、その呼び名のどれもが楽園側からの視点に過ぎない。神の敵対者と呼ばれる者達は自らを主の万軍と名乗り、御使いであると言う。
「......」
阿鼻叫喚が響く屍山血河の都市の道をゲヘナは1歩1歩、噛みしめる様に歩いていく。前に進むたびに揺れるマントは、外見も相まって魔王とでも言うべきだろう。正しく奈落の王、楽園を滅亡させた王が優雅に帰路の道を辿り、住民の叫びを主への懺悔として捧げる。
道中、足首を掴まれる。視線を送れば喉が壊れてもおかしくない叫び声をあげる、まだ年端も行かぬ子供だった。全身を覆う火によって男児なのか女児なのかは分からないが、身長から推定で10歳前後だと分かる。
もう眼は見えないのだろう。偶然掴んだ足首に縋るように地を這い、何とか助けてと言葉を紡ぐ。
「......」
ゲヘナはゆっくりと右腕を自分の腰に回し、そこに差していたモノを握る。
「慈悲は無い」
乾いた銃声が鳴り響き、子供の頭半分が消し飛ぶ。その衝撃で子供は手を放し、大きく仰け反る。露になった顎目掛け適当に、しかし力の籠った蹴りを放つ。吹き飛んでいった先で壁に衝突した子供は、先ほどまでとは桁違いの叫びをあげ始める。
ゲヘナが右手に持つ物は水平二連散弾銃だ。ゴモラ、そう名付けられたこの散弾銃の銃弾の餌食になったものは生きているならば命中箇所から青白い炎が生じ、やがて全身に回る。既に燃えている者の場合、火の勢いが増し、より苦痛を味わう事となる。
主からの最後の慈悲は恐怖であり、それ以上は無い。老いも若いも、性別も何もかもが関係ない。滅亡は違いに関係なく、理性忘れたモノに平等に齎される。
理性無きモノ全員が咎人なのだから。罪人には罰を与えなければいけない。それがどれほどの苦痛であろうと、滅亡だろうとも。楽園に与するモノは全員が大罪人だと星が求め、主が決定した。
「悔いろ。それが貴様らに許された唯一の罪滅ぼしだ」
主の万軍は執行者だ。神罰の代行者だ。人間から零落し、世界の理を破り、人間の道理から外れ、地球にて楽園などと言う星を侵す病巣を築き、そこに住まうモノ達を一掃する主の使者。
どれほど楽園側が平穏に暮らしていようが関係ない。それは、住民にとっての平和であり通常であるだけで、世界と言う多数から見れば星を脅かし、人間である事を辞めた醜い異常存在に過ぎない。
故に慈悲を抱く心は無い。かつて十字軍が異教徒や異端者を人間ではないと見なし、殺したように、主の万軍もまた、蟻を潰すように楽園を滅ぼす。
それが世界のためなのだから。
「......」
再び歩み始める。明日もまた楽園を滅ぼす。場所は既に決まっている。
かつてアルメニア共和国の首都エレバンとして定められ、ノアの方舟が流れ着いたと言う伝承のあるアララト山の臨む街であった。そしてそれよりも古い時代、始まりの人間が住んだエデンの園のあった聖地としても知られていた土地。
そこに今、楽園が築かれている。エデンの名を冠し、自らを絶対神とする驕り高ぶる偽りの神が支配する箱庭。ゲヘナは他の奈落の王、御使いと協力しそこを滅亡させることを任せられた。
ゲヘナの怒りが収まる事は無い。全ての楽園を滅ぼし、住民であったモノ達の贖罪が終わるその時まで。絶対に。