オペラ探偵 毛利さくらの美学 第三話「ラ・ボエーム」 第三回
日本で唯一の市立オペラハウスである、桜園シティオペラハウス。
プッチーニの名作オペラ「ラ・ボエーム」の舞台上に飾られたのは、
美術館から持ち込まれた展示される予定の絵。
「ラ・ボエーム」の公演の裏で進行していた全く別の物語を見抜いた「オペラ探偵」毛利さくら。
彼女の謎解きの時間が始まります。
「ラ・ボエーム」後半です。
「ラ・ボエーム」第2幕〜第3幕
私が一人で街を歩いてると
みんな立ち止まって私を見るの
綺麗だなぁって、私を隅々まで眺めるの
頭から足の先っぽまで…
「ラ・ボエーム」の舞台は冬のパリ。舞台の上は全幕を通して、寒々とした冬景色に終始する。それなのにこのオペラの全編に横溢する生命力はなんだろう。若者達はそれぞれの今を本当に精一杯生きて、楽しんでいる。冬の先に訪れる春を信じて。
「ラ・ボエーム」には魔法も神様も出てこない、19世紀後半のパリを必死に生きている若者たちの青春が描かれる、いわゆるヴェリズモオペラの典型。だけど、だからこそ、演出と舞台裏は色んな工夫や稼働を強いられる。リアリズムを追求するにせよ、道具を抽象化した人間ドラマにするにせよ、中途半端は許されない。
祝祭的な雰囲気に満ちた第2幕から、雪の降りしきる第3幕の関所のシーンへの転換でも、客席から拍手が起きた。躍動から静謐。舞台を覆う雪景色は、若者達が生きる世界の厳しさを表して冴え冴えと冷たい。でも、ロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタの2組のカップルの4重唱の熱量の高いこと。
春が再びやって来たなら
また太陽は僕らの友だ。
泉も、夕方の風も、
僕らにささやくだろう
痛い目にあわせてやろうか、
お前が他の男といちゃついてるなら!
なんで私に怒鳴るのよ、
あんたと結婚したわけじゃないわ!
熱っぽく愛を語り、あるいは大げんかを繰り広げる4人の若者の上に絶え間なく降りしきる雪。私はその雪を降らせている雪籠に繋がった綱を持って、時々それを揺らす。私の手は天の手。小さな舞台の上の小さな人工の世界の中で、愛することにも喧嘩することにも全力で命の炎を燃やしている若者たちに、静かに白い慈悲の雪を降らせる。触れても決して冷たくない、紙で作られた幻の雪でも、今この瞬間、この場所は間違いなく、19世紀末のパリの青春のひとときだ。
「3幕も雪籠係で手が離せないなら、チャンスは4幕の間だね」スマホの向こうで毛利は言った。「その時間なら大丈夫?」
「全然大丈夫だけど」私は言った。「でも、白川先輩が先に奈落に降りちゃうかもよ。」
「大丈夫。その時には大事な絵は舞台上にあるから」毛利は言った。「犯人グループのメンバーはそれぞれの場所に足止めされて動けない。そこで自由に動けるのは、有沢みなみ、君だけだ!」
「あんた、なんか楽しそうね?」私が言うと、毛利は、「だって我が母君の鼻をあかしてやれるんだもーん、うひひひ」と言った。うひひひって、本当に文字通り笑う笑い声を初めて聞いた気がするな。
「ラ・ボエーム」終演後
マリア様、私は
あなたに許される価値のない女です。
でも、このミミは、
天から舞い降りた天使なのですよ
「奈落って寒いんだなぁ」毛利が言う。
「コンクリートむき出しだからねぇ」私は答える。「空調も切っちゃったし。私の職場環境は決して楽園ではないのだよ。」
2人して、終演後の奈落に身を潜めて、毛利の言う所の「犯人グループ」の登場を待ち受けている。終演後、ロビーに溜まっていたお客様の前で、恭しく展示ケースにデュフィの『野外コンサート』が収められた。さっきまで舞台上に置かれていた絵がケースに収まった瞬間、なんとなくロビーに拍手が起きたのは、今日限りの特別企画が成功した証だろう。
そんなロビーの群衆もいなくなり、熱気はすっかり冷めて、舞台上も明日の公演の準備を終え、関係者も退館し終わっている。人がいると思われないように奈落の電気も消しておいた。オペラハウスはもう静かな眠りについている。それでも、
「あいつらは必ず来るよ。それも、オペラハウスの搬入口からのゲートが閉まる前に、しらっとやって来る。今日中に片をつける気でいるはずだから。」
そういう毛利の言葉を信じて、私と毛利は奈落の暗がりにいるわけだ。非常口の案内ライトだけがぼんやりと照らす奈落に置かれているのは、カルチェラタンの通りに並ぶカフェのテーブルや椅子。毛利はその椅子の一つに腰掛けて、暖かそうなマフに手を突っ込んで身を縮めている。「有沢、もうちょっと近くに来てよ」と毛利が言う。
荷物を持って毛利のそばの椅子に座ると、立ち上がってこっちの膝の上にフワッと腰掛けた。私の自由な片手を握って、マフの中に引き込む。あったかいなぁ。
「なんて冷たい手」毛利が言う。ミミの手に初めて触れたロドルフォのアリアだな。
「毛利、髪ゴムつけたままだよ」目の前に毛利の白いうなじが見えて、私が言うと、「髪まとめてた方がミミっぽくてよい」と毛利は言う。「お針子さんっぽいって、常連さんにも評判良かったよ。」
その時、奈落の明かりと空調がついた。誰かが電源を入れたのだ。舞台袖に通じる階段から、複数の足音が聞こえる。毛利が立ち上がって、ちょっと名残惜しそうにマフの中の私の手をぎゅっと握って、そっと放した。
「誰かいるの?」階段の途中で立ち止まった人影が言った。
「出たなドロンジョ!」毛利が言った。「あんたの企みは、この毛利さくらが丸っと全部お見通しだ!」
「誰がドロンジョだ」階段から降りて来たゴージャス美女が言った。毛利華江理事長。毛利のママその人だ。「小娘風情が、一人前の口を叩くようになったわねぇ。それにネタがちょっと古くない?」
「ママの年に合わせてあげたのよ」毛利さくらが言い返す。「阿部寛大好きじゃん。」
「年の話をするな」理事長が言う。「ボヤッキー、この目障りな小娘をやっておしまい!」
「誰がボヤッキーだよ」階段の上から頭をかきながら降りて来たのは、千葉さんだ。「さくらちゃんは何でもお見通しだから、隠し通せるわけないって言ったでしょ?」
理事長が口をとがらせた。いたずらが見つかって拗ねてる子供みたいだ。なんだか可愛くって思わず苦笑いしてしまう。「お二人がお探しなのは、これですよね?」手にした大きな荷物を見せる。4幕のうちに奈落に降りて、壁際に隠してあったのを見つけておいた。幅130センチほどのカンヴァスに描かれた、鮮やかな色彩の絵。
「デュフィ作、『野外コンサート』」と、私は言う。「の、偽物ですね。今ロビーの展示ケースの中にある本物そっくりに描かれた。」
「模写って言うんです」階段の上から、白川先輩の声がした。白川先輩が来るかどうかはちょっと分からないって毛利は言ってたけど、やっぱり最後まで見届けに来たんだな。これで当事者が全員揃ったわけだ。
「さて」毛利さくらが腕組みをして言う。「始めましょうか。謎解きはオペラの後で。」
「大体、最初から変だなぁって思ってたのよ。ママがこんなにオペラハウスの本公演に入れ込むなんて、今まで全然なかったから」毛利さくらが、椅子に座った理事長を見下ろして言う。理事長は口を尖らせてそっぽ向いたままだ。
「舞台にデュフィを使うなんて、演出にまで口出してさ。なんか企んでるんじゃないかなって思ってた時に、白川先輩が当日の朝から舞台袖にいたって聞いて、引っかかったのよ。」
「私が?」白川先輩が呟いて、理事長の視線を浴びて身をすくめる。
「白川先輩はそもそも美術館側の人間なんだから、舞台袖に行く必要なんかないのよ。それも当日の午前中に。白川先輩の立場なら、前日の夜からロビーに展示されている絵の所に真っ先にきて、そのまま張り付いているはずなの。何より絵の大好きな白川先輩が、わざわざロビーの絵から離れて舞台袖に行くってことは、誰かに呼び出されたか、そこに別の絵があったか、その両方か。
「その時、舞台上でデュフィの絵を使うっていうアイデアが頭の中で結びついたの。ひょっとして、舞台上で本物の絵そっくりの絵が飾ってある、という演出の発想自体が、本当のデュフィそっくりの絵がもう一枚あることから発想されたんだとしたら。もし、当日の午前中、舞台の方に、そのもう一枚のデュフィの絵があったとしたら。午前中から白川先輩がその絵のために呼びつけられたとしたら。呼びつける人間は一人しかいないし、そんな絵を持ち込む人も一人しかいない。毛利華江理事長以外にはね。
「空になった展示ケースに張り出す模造紙には、展示される予定の『野外コンサート』の絵の写真図版が添えられていた。穴の開くほど見て、はっきり分かったの。この『野外コンサート』は、私の知ってる『野外コンサート』じゃない。そっくりだけど、微妙に違う。そして一幕の舞台上に置かれた絵を客席から見て、確信した。」
「デュフィの『野外コンサート』が2枚ある。本物と、そっくりな模写と」私が説明を引き継いだ。「そして、美術館に収められていて、今回ロビーで展示される予定だったのは、模写の方だった。今回のコラボ企画の本当の目的は、美術館に誤って収めてしまった模写の絵を、デュフィの本物に入れ替えることだったんですね?」
「誤って収めたわけじゃないのよ。もっと悪質な確信犯」ため息混じりに、理事長が口を開いた。「おじいちゃんでしょ」毛利さくらが言う。
「デュフィの真作を自分の手元に置いておきたかった、なんて殊勝なこと言ってたけど、絶対嘘よ。美術館の人達が、自分の描いた模写に気づかないのを見たかったのよ。自分の技術が、デュフィ並みだってことを証明したかったんでしょ。」
「じゃあこの絵は」私は手にした色鮮やかな絵を見つめる。どこから見てもデュフィの絵にそっくり。そのものだ。
「そう。毛利徳治、私の父が画家修行中に完成させたもの。私の目で見ても、本当によく描けてるし、我が家のリビングにかけてあったこの絵が、私は大好きだった。美術館に寄贈するって聞いて、ちょっと残念だったけど、父の言う通りにしたのよ。デュフィじゃなくて父の絵で、真作は我が家に置いてあったなんて、全然知らなかった。」
「おじいちゃん、去年入院した時に白状したんだね」毛利は言った。
「さすがに気が弱くなったんだろうね。自分が死んでから真作が出てきて大騒ぎになったらどうしようって、やっと気がついたんでしょう。そんなの最初から分かってんじゃんねぇ。バッカじゃないの」いつも生徒の前で品よく立派なスピーチしてる理事長が悪態つくのを見るのは新鮮だなぁ。しかし、ざっかけない喋り方が毛利さくらそっくりだ。親子だなぁ。
「美術館に今更ごめんなさいって言うのもできれば避けたいって思った時に、オペラハウスで入れ替えることを思いついたんだね。千葉さん巻き込めば何とかなるって。」
「巻き込むとか、言い方悪いじゃん」理事長が言う。「協力してもらったのよ。ねぇ、ボヤッキー?」
「だから誰がボヤッキーだっての」千葉さんが言いながら笑顔になる。「でも楽しかったよ。久しぶりに姫の演出する舞台手伝ってるみたいでさ。」
「姫?」私が言うと、千葉さんはまた笑顔になった。「大学時代のあだ名だよ。」
「千葉さんとママは桜園音楽大学舞台芸術総合科の同期生なの」毛利さくらが言う。「ついでに言えば、幹代先生も。まだこのオペラハウスが建つ前のね。」
「姫の舞台演出は面白かったんだぜ。割とアドリブ重視でさ。ガッチリ作り上げるタイプの幹代ちゃんとは違うタイプだけど、2人とも天才だった。家業継ぐって聞いた時はもったいねぇなぁって思ったよ。」
「こっちの方が全然面白いって気づいたのよ」理事長が言う。「現実世界を演出できるんだから。」
「千葉さんを巻き込んだ時点で、絵の入れ替え自体はかなり簡単なことに思えたでしょう」毛利さくらが続ける。「千葉さんはオペラハウスの全部の鍵を利用できる立場だから、オペラハウス内の展示ケースに絵が収納されてしまったあとに、事前にオペラハウスのどこかに持ち込んでおいた真作と、展示ケースの中のおじいちゃんの模写を、閉館後にでも2人でこっそり入れ替える。それで終わり。でも、そもそも『野外コンサート』がロビーに展示されないとどうしようもない。それで、舞台上に同じ絵が飾られてる、という演出を思いついた。」
「いいアイデアでしょ?」理事長がテストの成績褒めてほしい子供みたいな声を出す。「幹代ちゃんだって褒めてくれたんだから。それ面白いなぁって。」
「全て上手くいくはずだった。でも、誤算が生じた」毛利さくらが言う。「確かに、この誤算さえなければ、この件はママの思ったとおりに無事に済んだでしょう。公演前日の夜の間に、展示ケースに収められた絵が入れ替わっていた、というのなら、私だって気がついたかどうか分からない。子供の頃よく見ていた絵と少し違っていても、家に戻ってきたおじいちゃんの絵の方を見せられて、こっちが飾ってあったんだと説明されれば納得してしまったかもしれない」そして毛利は、白川先輩の方を向いた。「白川先輩、貴女が誤算だったんですね。」
白川先輩がカメみたいに首をすくめた。理事長はその姿を見て微笑む。「全く、市立美術館もいい事務職雇ってるよね。まさか、オペラハウスの展示ケースじゃなくて、美術館から自分達の展示ケース持ち込むとは想定してなかった。」
「オペラハウス内の展示ケースならオレが鍵を使える」千葉さんが言った。「でも美術館持ち込みのケースの鍵は、白川さんが自分で管理していた。オレも迂闊でさ。展示ケース持ち込みって事前確認しときゃよかったんだけど、夜のロビーで展示ケースの鍵開けようとして初めて気がついた。手も足も出なくて2人して途方に暮れたよ。」
「ごめんなさい」と白川先輩が消え入るような声で言って、毛利さくらが、「白川先輩は被害者ですよ、謝る必要なんかカケラもないんです!」と声のトーンを上げる。「美術館から手間かけて展示ケース持ち込んだのも、美術品の管理と展示に責任取りたいって言う誠意じゃないですか。悪党はこの2人です!」
「おっしゃるとおりでございます」理事長が言う。「ごめんなさい。許してください。」
「ホントに反省してるの?」毛利さくらが言うと、白川先輩が慌てたように口を挟んだ。「いいんです。そもそも、カタログを鵜呑みにして現物のチェックを怠ったキュレーターの方に責任があるんです。今朝入館するなり、千葉さんにここに連れてこられて、理事長から本物の絵を見せられた時から、私もこの件に協力しなければって思ったんです。」
「素晴らしい」理事長が拍手をする。「市立美術館、キュレーターはヘボいけど事務員は優秀。」
「その優秀な事務員の誠意を利用したくせに」と毛利は言って、理事長の前に仁王立ちになる。「とりあえず、初日の展示はおじいちゃんの絵を展示するしかない、そして、初日の夜に、白川先輩に展示ケースの鍵を開けてもらう、という段取りをつけた後に、偶然の事故が起きた。舞台上の絵が破壊されてしまうっていう事故。そこで、おじいちゃんの模写を舞台上で使おうっていうアドリブが生まれた。思いついたのはママだと一瞬思ったけど」と、毛利さくらは少し言葉を切った。
「このアイデアをママに提案したのは、白川先輩、貴女ですよね?」
白川先輩が毛利さくらを見上げる。その視線の強さに、私は少し驚いた。いつも真面目で優しい白川先輩がこんな顔するんだ。
「たとえどんなに素晴らしい絵でも、卓越した技術で描かれた模写でも、真作の名前を名乗った瞬間にそれは贋作になってしまうの」白川先輩は言った。「展示のために、貴女のおじいさまのこの絵を見た時、私は単純に感動した。それがデュフィの絵だと思って見たからかもしれない。でも、今こうやって見てもやっぱりとっても素敵な絵だと思う。技術も色彩感覚も、オリジナルのデュフィに肩を並べるレベルに達してる。」
白川先輩は、私の足元にある「野外コンサート」を愛おしげに見つめた。「たとえ1日だけの展示であったとしても、デュフィの作品ですと名乗って展示されたら、その瞬間からこの絵は贋作になってしまう。理事長から話を伺った時に思ったの。何とかこの絵を、贋作ではない、毛利徳治という画家が描き上げた優れたデュフィの模写作品として、あなたのお家に帰してあげられないかって。この絵はそうやって、毛利家の人々にずっと愛されるべき絵だって。」
みんなの視線が、毛利のおじいちゃんの模写の絵の上に集まる。生きる喜びを色んな色が声を上げて歌っているような、華やかな色彩の「野外コンサート」。
「でも、どうして私のアイデアだって分かったの?」白川先輩が言うと、毛利はにっこりして自分のスマホを出した。そこに表示された文章を読み上げる。「本日、特別展示!舞台上にご注目下さい!」毛利が展示ケースに張り出した模造紙のお知らせ文だ。
「若者達の夢のような色彩が19世紀のパリの街で音楽と共に歌い出します。本日限りの絵画と音楽のコラボレーションを舞台の上で確かめてください。」
読み終わって、毛利は白川先輩に向かって微笑む。「この文章には、デュフィも、『野外コンサート』も、オリジナルの作品に関する言葉が一言も出てこない。展示されるべき絵が舞台上にある、ということをお知らせする文章にしては情報量が少なすぎる。うちのママなら絶対に書きそうにない文章。この文章を考えた人は、舞台上の絵がデュフィの絵だって言いたがってないような気がしたの。あれは違う絵ですよって言いたいみたいな。」
「舞台上に置かれたとしても、デュフィの絵を名乗ってしまえば、客席のお客さまに対してこの絵は贋作になってしまうから」白川先輩が言う。
「白川さん、本当に貴女、うちの学校の事務に来てくれないかしら」理事長が嬉しそうな声で言う。「今の2倍の給料出すわよ。」
「ごめんなさい、私は学校経営より美術が好きなので」白川先輩が申し訳なさそうに答える。千葉さんが脇でくつくつ笑っている。「姫の思い通りにならないこともあるわな。」
「うるさいトンズラー。」
「誰がトンズラーだよ。」
「2幕への場面転換で、普段舞台上にいる千葉さんが、白川さんと一緒に奈落に降りてったって聞いて、本物の絵は奈落に隠してあるって分かったの」毛利が言う。そろそろ謎解きの仕上げだ。「場転の中で本物と模写を入れ替えて、4幕の時に舞台上に置かれているのは入れ替わった後の本物。流石にこれだけ注目集めたら、そのまま舞台上から展示ケースに本物を移動させた方が自然だし。」
4幕が始まってすぐ、奈落で模写の絵を確認した私が、上手袖に戻ってきたら、白川先輩は今にも気を失いそうな風情でガタガタ震えながら舞台上を見守っていた。ボヘミアン達の決闘ごっこのシーンで、パンの剣で襲いかかってきたコルリーネに、ショナールが壁にあった別の絵を盾に防戦し始めた時は、そのまま卒倒するんじゃないかと思うほど血の気がひいていた。可哀想に。
「でも、確かにいい演出だったね」毛利さくらが理事長に向かって言う。「ミミが死んだ後、完全暗転の一瞬前に、絵の上にだけスポットライトが残ったでしょう。あれは泣けたなぁ。若者達の未来は輝いてる。でもそこにミミはいない。」
白川先輩が、ウッと言って目頭を押さえる。この人も心キレイなんだなぁ。
「楽しかったなぁ」理事長が言った。「久しぶりに千葉ちゃんとワイワイ色んな仕込みの相談してさ。幹代ちゃんと舞台の話してさ。学生時代に戻ったみたいだった。」
「また舞台演出家に復帰したい?」毛利さくらが言うと、理事長は笑って首を横に振る。「私はね、さくら。舞台演出家になれなくて家を継いだんじゃない。音楽大学の理事長になりたくて、家を継いだの。あなたや、みなみちゃんや、白川さんや磯谷さんみたいな若い人達が、オペラから色んなことを学んで巣立っていく。こんな楽しい仕事ないよ。
「貴女は家を継ぐ責任なんか感じなくていい。自分がやりたいこと、叶えたい夢に向かっていけばいいの。その夢を実現するのに、この理事長の地位が必要なら、いつでも譲ってあげる。家とか地位とかを目的にしちゃダメ。それは全部、叶えたい夢を実現するための手段に過ぎないんだからね。」
オペラ舞台の上で絵を入れ替える、というアイデアは随分前に思いついていたネタだったのですが、「オペラ探偵」のシリーズの中でやっと具体化することが出来ました。毛利さくらと華江さんの親子の関係というのは決して険悪ではなくて、むしろ仲のいいライバルであり、師弟でもある、という関係だと思います。華江さんは自分と同世代になるので、子供との関係として、一つの理想の形を作りたかったのかもしれません。