3.「私は異世界から来ました」
草の寝床、火種、クマウサギの遺体から幸運にも得ることができた毛皮の衣服、消耗品の木造り風呂、穴と木枠だけの簡素なトイレ。
それらを得た私の生存可能性は大きく向上していた。
あれから拠点をベースに探索を続けている内に、水辺は水分の樹以外の植物やキノコが生えていることがわかった。毒や食中毒に怯えながら、それらから収穫した木の実やキノコが食べられる物か、少しづつ手に塗ったり齧ってみたりと検証を続け、時に強烈な下痢や発熱に襲われながらも、食べて良いものを選別できるようになった頃には、数えで40日が過ぎていた。
息子と、残してきてしまったペット、そして在りし日の家族を思わない日はなかった。
私はうだつの上がらない、電気工事屋だった。
20代の終わりに見合い結婚した夏穂という女との間には一人息子の智明を授かり、人並みの幸せを享受していた。
その幸せは、夏穂の不倫と共に突然の終わりを告げた。
私の説得、懇願は既に何の意味も持たず、不倫相手のタグチという資産家が建て替えた慰謝料をもって、私達の結婚生活と家族は終焉を迎えた。
私に非があったという自覚はないが、何の責任もなかったはずがない。むしろ、社交的でもなく、面白みのない性格の私に、夏穂はよく付き合ってくれていたと思う。恋愛結婚であれば多少事情は違ったのかもしれないが、私達は「家族」、「夫婦」という社会的枠組みからのスタートだった。共同生活の些細なやり取りの繰り返しの中で徐々に情が湧いていったのは間違いないが、恋愛感情に連なる愛情があったかは、正直今でも分からない。
少なくとも夏穂は、いつも私に笑顔を向けてくれていた。智明が生まれてから、育児方針を二人で試行錯誤している時も、私といる幸せを語ってくれた。私もまた、愛情表現と感謝を惜しまなかったつもりだ。
夏穂が私と一緒にいて幸せでないのなら、別れることも、他の男と一緒になることもどうにか咀嚼して受け入れることができた。私への不満があったわけではない、と語った夏穂の言葉に、嘘はなかったのかもしれない。ただ、私という存在を上回る「恋愛」が、私の預かり知らぬところで育まれていたのだろう。
最後まで譲れなかったのは、智明の親権だけだった。智明自身は、私との生活を切望してくれた。しかし、夏穂とタグチは金銭的余裕による学習環境、シングルファザーよりも三人家族である利点を論理的に訴え、調停員を味方に付けた。
懇意の弁護士の意見を取り入れながら続けていた私の親権主張はあっさり拒絶され、私は息子からも引き離されることになった。全てが決まった時の智明の悲痛な泣き声をいつまで経っても忘れられない。決まってしまったことは守らなければならないのだと、親として、大人として、自分に嘘をつきながら説得したものだ。
「父ちゃんと一緒がいい」
泣きながらぶつけてくるその言葉は、嬉しさと悲しさになって私の理屈を壊そうとする。同時に、智明の中に母への不信を芽生えさせてしまったことが申し訳なく、悲しかった。私は嘘を重ねた。
「母ちゃんは智明が一番大事で大好きだから、父ちゃんから離れるんだよ。父ちゃんと一緒だったら、母ちゃん、幸せになれなくなっちゃったからな。人間ってな、自分が幸せじゃないと、誰かを幸せにできないんだよ」
嫉妬も失望も恨みも怒りも悲しみもあった。でも、それを智明に受け継がせるわけにはいかない。この子には明るい未来が待っている。笑顔で明日を迎えてほしいのだ。
数えで60日を過ぎる頃、朝晩の冷え込みこそあれ、昼間はすっかり暖かくなってきた。この世界のこの地に四季があるのなら、恐らく春ではないだろうか。
小春日和の湖畔で、私は習慣となっている朝食の支度をしていた。
すっかり手慣れた火起こしをしていたところ、不意に、そして遂にその時が訪れたのだった。
「※※※※※※※※※※※!?」
静寂に慣れきっていた私は、突然の怒鳴り声に驚いて身を震わせ、反射的に体を縮めた。恐る恐る声のした方を振り向くと、ログハウスの間近に3人組の人間がいた。
「ああ…」
私は不安と安堵と恐怖が混じり合った感情から、思わず声を漏らしていた。
紛れもなく人間だ、それも、東洋人の容姿にかなり近い。もしかして、異世界などではなく、中国やシンガポールだったりして、と思いつつ、毎晩のように見ている四連月がそれをすぐに否定する。
「※※※※※※※※※※」
三人組は男二人、女一人のように見受けられる。彼らは登山服のような重装備で、ピッケルのような、杖のような、槍のような物を携えている。怒鳴り声を発したと思われる男が、今度は先程より静かな調子で何かを喋っている。当然、聞いたことのない言語だ。
「こ、言葉が、わかりません」
久し振りに喋ったこともあり、少しどもりがちな発声になったことに我ながら驚いた。人間は話さなければこうなるのか、と。
私の発言を聞いた三人組は顔を見合わせ、困惑しているようだった。
私はこの日の、こうした状況の為に想定していた絵を地面に描くことにした。幸い、三人組は私に乱暴したりすぐに捕まえるつもりはないように見受けられる。
火起こし棒を拾い、私は地面に次のような絵を描き始めた。
まず大きめの円形を描き、その外縁にシンプルな棒人間を立たせる。その上に太陽のシンボルと一つの月のシンボル。その横に矢印を描き、矢印の先に同じような円形の外側に棒人間を描いた後、そちららには太陽のシンボルと、四連月のシンボルを描いた。記号のルールや法則まで違っていたらどうしようもないが、限りなくシンプルに描いたつもりだ。
「私は異世界から来ました」
2つの図を指し示しながら、極めてゆっくり、そう言った。「私」で自分と棒人間を指差し、「異世界」で円形をスライドさせるように指し示しながら、何度か繰り返した。
…いや、勿論こんなもので本当に私の境遇が伝わるとは思っていない。だが三人組は訝しみながらも私の図を見つめている。何かしら訴えたいことがあるのだとは伝わっているはずだ。