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1.「私は、ひとしきり泣いた」

 身震いと共に目が覚めた。

 寒さに震えながら目を開け、現状を把握するのに、少し時間を要した。

 私は寝間着のまま、晴天の下、鬱蒼と樹々が生い茂る森のようなところにいて、地べたに寝転がっていた。思わず上体を起こすと、体の節々が痛んだ。背中からパラパラと砂や土が落ちる。


 さてと…と呟いて、寝惚けた頭をフル回転させるべく、冷静に現状を振り返る。

 昨夜は間違いなくベッドで眠った。愛犬コロスケと愛猫タロマルも一緒に寝ていた。昨日は酒も飲んでいない。夜中に起きた記憶もない。どこかに出掛けた記憶も、もちろんない。

 私は混乱しながらも、よろよろと起き上がり、周囲をじっくり見渡した。


 そこはやはり、見覚えのない樹や草花で覆われた、森だった。木の葉が風で揺れる音と鳥の鳴き声だけがかすかに響く、静寂に満ちた世界。それにしても夏だと言うのにやけに冷える、山の中なのだろうか。

 こうして突っ立っていても、何もわからない。裸足で外を歩き回るのは正直、抵抗があるが、じっとしている道理もない。覚悟を決めよう。

 私は自分が寝ていた地面に指で丸印を書いてから、比較的樹々の密度が薄そうな方向へ進路を定めて歩き出した。


 草をかき分け歩きながら、大声で呼びかけてみた。寝起きのアラフォー男には辛い作業だ。

「誰かいませんかーーーーっ」

 木霊にもならないそれは、森に吸収され、当然のように何の反応も返ってこなかった。

 そして、歩いて数分も経たない内に、私は、己の思慮の浅さを呪った。慎重に歩いていたつもりだったが、比較的鋭利な小石を踏んでしまい、左足の踵を怪我してしまった。流血を見たショックも合わさったせいか、私は思わず痛みで思わず蹲ってしまった。裸足で外を歩く機会など、そうそうない。よって、こんなダメージを負う機会もそうそうない。

 このまま歩くことはできるのか?そう思って再び歩き出してみたものの、左足に負荷が掛かる瞬間の痛みに耐えられそうになかった。そしてまずいことに、出血が全く止まっていない。止血しようにも、自分が身につけているのは寝間着にしている上下スウェットのみ。足を庇って座り込みながら考えた。

 スウェットの一部を裂いて巻くのはどうだろうか、ただどうやって裁断するか、そもそも消毒もせず、水で洗いもせずに止血していいものなのか。しかし、生存本能なのだろうか、考えながらも体は自然と動き、手近な樹の枝に裾を引っ掛けて思い切り引いてみると、意外にもあっさりスウェットに穴が開いた。私は覚束ない手取りで穴にもぞもぞと手指を入れ、スウェットを不器用に破り裂くことに成功した。テーピング状に踵に巻きつけていると、閃きがあった。両裾を大きく切り裂き、靴下のようにすればいいのではないか?

 それなりの時間をかけて、どうにか不格好ながらも足を保護する包帯と靴下を身に着けた頃には、かなり疲労していた。また歩かなければならないと思うと気が重かったが、現状の把握が何もできていない焦りの方が強かった。加えて、空腹はそれほどでもないが、喉も乾いている。尿意も便意もある。


 そもそも、ここはどこで、私は何故こんな所にいるんだろうか。

 近くに人家などないのだろうか。周りには文明の痕跡すら見受けられない。鉄塔でも立っていれば電線を辿っていけるのだが。


 スウェットの切れ端に滲む鮮血に躊躇しながらも、私はまた、よろよろと歩き出した。手製の靴下のお陰が、先程よりもしっかりと歩けそうだ。左足だけはつま先立ち状態だが、歩けなくなくは、ない。




 どれほど歩いただろうか。平坦な森の中、私は岩に腰かけ、パニックにならないよう努めていた。斜面がほとんどないことから、ここは谷間か、そもそも山ではない。だがそんな森は、日本にはほとんどないはずだ。そして、焦りからあまり気にしていなかった、樹々や植物。私はこれらに全く見覚えがないのだ。そこらじゅうに生えている樹は見慣れたヒノキなどの針葉樹に似ているが、葉の形状は知る限りのどんな広葉樹よりも大きく、小さめの物で手の平の二倍ほどの面積がある。さほど植物に詳しくない私でも、ここは日本ではないのではないか、と疑ってしまう程度の違和感を抱かせる、どことなく不気味な造形だ。

 しかし私は、この大きな葉っぱに使い道を見出していた。私は先程から便意と戦い続けていたが、この状況では、この決断も止む終えないだろう。私は、手に届く葉を何枚か千切り、「それ」に使った。

 葉は手に取って見ると、3mm程の厚みがあり、多量の水分を含んでいることが見て取れる。もしも毒性があったら最悪の事態だが、水道も川も見当たらない現状、有効な水分補給手段に思えた。手を洗えないことのストレスを押し殺しながら葉を齧ってみると、生臭い味と共に多量の水が溢れ出た。数枚、絞ったり齧ったりを繰り返していると十分に喉が潤った。これはいい。しかし、葉っぱというのはこれほど水を蓄えるものだったろうか。自分が知らないだけで、こういう種類もあるのかもしれない。ともかく、生臭さに目を瞑れば、水分補給が出来るというのは心強かった。


 だが、あてもなく歩き続けるのには少し辟易していた。間断なく大声で呼びかけてはいるものの、人の気配が全くないのだ。動物らしきものが動く気配はするものの、人間を警戒しているのか、姿は見えない。さすがにクマやイノシシに遭遇するのは避けたいところだが、見知っているものに出会いたかった。

 ふと思いつき屈んで地面を見渡してみた。土や泥や草木の根本を注視すると、小さな虫が点在しているのに気がついた。アリだろうか、黒だか灰色の虫に目がいった。

 頭部と思われる箇所は平べったく触覚のようなものが申し訳程度に前面に二本突き出ている、そして、胴体もやけに平べったい。背中にあたるところは灰色の甲羅のような形状になっていて、狭い面積に足が集中して生えている。もちろん、こんな虫は見たことがない。

 ぞっとしつつ、焦りは大きくなる一方だった。




 歩いては休みを繰り返したが、やがて足の痛みと疲労、空腹で私は一歩も動けなくなってしまった。わかりきっていたことだが、遭難である。

 空はまだ明るいが、どれだけ歩いたのか、検討もつかない。目覚めたところに戻る気力もないし、通ってきた道も不明瞭だ。

 絶望感とやるせなさが体を支配し、私はなりふり構わず地面に寝転んだ。本当に、一体何が起こったのだろうか…。色んなことを反芻する内に、いつの間にか私は意識を手放していた。


 眠っただけなのか、気絶していたのかはわからない。目が覚めるとあたりはすっかり暗くなっていた。

 明かりのない森の真っ只中の夜。それは本能的な恐怖を呼び覚ますには十分な光景だった。芯から冷えるような寒さと夜目が効かない暗闇の中、私は半狂乱になりそうな自分を制して、聞き慣れない鳥の鳴き声を聞きながら必死に目を凝らした。そして、何気なく空を見上げた時、私は声にならない悲鳴を上げていた。

 何なのだ、あれは。


 頭上の大半は樹々の葉で遮られているが、星空は見え隠れしていた。そしてその只中にあるべき月。それが4つも、連なっていたのだ。おまけにそれらは全て今まで見てきたどの満月よりも大きく、圧倒的な存在感を持って頭上に鎮座している。


 私は、悟った。

 もう、帰ることはできないところに来てしまったのだと。


 智明とご飯を食べることも、2年生に進級したばかりの学校の話を聞くこともできないのだ。

 コロスケと散歩に行き、タロマルを抱いて寝ることもできないのだ。

 いつか智明の財産になるようにと、ローンを払い続けている家も、渡してやることはできないのだ。

 仕事と家を往復するだけの日々、何気なくともわずかな幸せだけが支えだった日々に、戻ることが、もうできないのだ。

 恐怖よりも、残された物への思慕が、怒涛のように押し寄せる。


 夜が開けるまで、私は、ひとしきり泣いた。子供のように泣き続けた。

 もちろん、どれだけ泣いても、現状は何も変わりはしなかった。

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