なぜ幼女を犯してはいけないのか
最近、見た目小学生くらいのラブドールを買って小児とセックスしたい欲望を抑えようみたいなツイートが炎上したりしているわけですけれども、幼女作家であるわたしからすれば、それは二十年くらい前、1997年に放送されたニュース23という番組で問われた『なぜ人を殺してはいけないのか』という話と重なって見えました。
幼女を犯すことと、人を殺すこと。
共通項としては、どちらも実行してしまったら犯罪にあたるということです。
つまり、刑罰を受け、刑務所にぶちこまれます。
したがって、なぜ幼女を犯してはいけないのかという問いに対して、ひとまずこう答えることができます。
『刑務所に入りたくないから』
誰だって(大多数の人は)刑務所に入れられて、社会的名誉が失墜し、自由な行動を奪われるのは嫌なはずです。
犯罪の実行によって、それらがもたらされるのは嫌だからしない。
インガオーホーです。
しかし、刑務所に入るのが嫌だからという話は自らの行動によってもたらされるメリットとデメリットを考えているに過ぎません。
メリットは自らの欲望が満たされることです。この点について補足すると、性的欲望はメインであることが多いでしょうが、殺人の欲望と同じく、多層性があるように感じます。
ミステリー小説で殺人の動機はさまざまであるように、幼女を犯すという行為が性的欲望を満たすためだけにおこなわれるわけではないでしょう。
例えば、子どもという将来のある存在と自らを比べたときに、子どもの将来を破壊することに愉悦を感じる。性的に子どもが綺麗で歩く宝石だから抱きしめたいという欲求を感じるより先に破壊衝動を有している場合もありうる。
そういうわけで、一概に性的嗜好がメインだとも言い切れないと思うのですが、話としてはズレていくので、ひとまずは『自らがしたいこと』のためということでひとくくりにしましょう。
この自らがしたいことというのが幼女を犯すメリットです。
そして、官憲につかまり刑務所に入れられるだろうというのがデメリットです。副次的には犯した幼女の親族・家族から復讐されるかもしれないとか、前科がついて社会復帰が難しくなるとか、そういうものをあげることができるでしょう。
ただ、こういったメリット・デメリットを考える限り、それは単なる内心での『計算』にすぎません。
つまり、幼女を犯したい人が、単に上で上げたようなメリット・デメリットを考えて、デメリットのほうが多いからしないというだけであって、『なぜ』幼女を犯してはならないのか、あるいは『なぜ』人を殺してはいけないのかという話には至っていないのです。
なぜ、法律が存在するのかという問いであれば、一応は答えられます。守るべき法益があるからです。つまり、犯される幼女の人権を考えたときに、刑務所にいれられるということを考えれば、実際に犯される女児の数が減るだろうと考えられるため、そういった法律ができたと考えられます。
要するに、人を殺したい欲望や幼女を犯したい欲望は存在することが前提となっているわけですね。
しかし、数は多くない。確実にマイナーな趣味です。人を殺したいと一瞬思うことはあっても、実際に人を殺す人は少ない。幼女の件も同様です。
要するに、趣味の多寡によって法律が制定されるのだと思います。殺人を趣味にする人は少なく、殺人を趣味にしない人が多い。よって殺人は禁じる。多数派によって少数派の自由を封じているのです。そうすることで多数派にとって居心地の良い時空間ができあがる。
子どもを持つ親にとっては、幼女を犯すことが合法化されれば恐ろしい世の中でしょう。
なぜ幼女を犯してはいけないのかという点を、法律のみに制限して論じるとするならば、犯してはいけないという理由はないが、多数派の趣味的にそれは居心地が悪く、気持ちの悪く、不利益な世界なので、少数派の意見を封じることにした、ということになるでしょう。
ただここで、想起されるのは『なぜ人を殺してはいけないのか』という議論が出てきたときの話です。そのとき、えらい先生は、問い自体が失当であるというような話をされていました。要するに、『なぜ人を殺してはいけないのか』を問うこと自体が不道徳でありけしからんという話です。
実をいうと小児ラブドールの話も、それと似たようなところがあって、小児ラブドールの話を公の場に開陳すること自体が不道徳的であるというような言論も存在します。
この道徳的か否かという考えは、正直なところよくわかりません。
もともと、道徳のお友達である規範という考え方は、normという言葉からきていて、つまりはノーマルであることが規範的であるという意味でした。
正常であることが道徳的に正しいという意味だったわけですね。
そうすると、もともとの語意として、道徳的であるか否かは多数派か少数派かの違いにしか過ぎないということになります。
多数の趣味に寄り添うことが道徳的であり、正常であり、規範にかなうということになるわけです。
したがって、この考え方を前提にするならば、幼女を犯したいという欲望は異常であり、不道徳であり、規範にかなわないということになります。
しかし、幼女を犯したいという欲望が異常であり、不道徳であり、規範にかなわないとしたとして、そうした欲望を開陳することを制限すべき理由になるでしょうか。
多数派の趣味がそうであるから、少数派は我慢しなければならないのでしょうか。
この点は昨今のLGBTの問題と重なる部分があるように思います。
幼女を犯したいという欲望を分解すると、
『内心で妄想する』>『クローズドな関係で開陳する』>『公で開陳する』>『実行する』というふうに段階を進んでいくわけですが、実行するということについては、法律によって罰せられます。
法律によって罰せられるのは守るべき法益があるからで、実行が禁止されるのは傷つく幼女がいるからです。公で開陳するという行為については現時点では罰する法律はありません。あくまで道徳的領域で異常であるとみなされる可能性はありますが、客体の傷つく程度が弱いからでしょう。公園で幼女犯したいと叫ぶ人間がいて、怖い思いはするかもしれませんが、実際に犯された場合と比較すれば、どちらがより傷つくかは言うまでもありません。
ただ、公の場で、幼女を犯したいと叫んだ場合に、多数の人は不快に思う可能性も高いでしょう。そうすると、多数派の意見が固着して、道徳的領域から法律的領域にシフトチェンジするといったことも起こりえます。
同性愛者の場合、客体の傷つく程度がかなりの弱さです。同性愛者どうしが同意のもとキスをしていても、比較的誰も傷つかない。いや、『不快』を思う人はいるんですけどね。ただ、誰かを殴るよりは誰も傷つかないということで、少数派の趣味も認められる。
とすると、自らの欲望を公で開陳するという行為については、LGBTより『不快』の程度が大きかったから、多くの人が不快に思うのであれば、非道徳的ということになり、極限的には法的に制限されるのかなと思います。
ここまではやむを得ない面もあるのかなと。
多数派の趣味によって少数派の趣味が蹂躙されているわけですが、しょせん、世の中数だよ。
的な発想ですね。
とはいえ、この非道徳である、あるいは法律で罰したいという『多数派の欲望』は容易にクローズドな関係での開陳ですら、類が及びかねないという、別の意味での恐怖があります。
要するに二次元の規制すらありうるという話です。
この『クローズドな関係での開陳』と『公での開陳』は、公的な領域がそもそも曖昧であることから、グレーゾーンであると言えます。コミックLOをコンビニで売ってたらさすがにまずいとも思いますし、専門店で買うぶんにはなんら問題はないという感覚の問題です。専門店でも公と言える可能性はありますし、程度問題でしょう。
不快の程度が人それぞれ違うので、内心で思ってることすら唾棄すべきであり、そんなやからはすべからく去勢すべきと考える人だっているでしょうし。
したがって、幼女を犯したい人で刑務所に入りたくない人『実行はNO』しかし『公で開陳したい』場合は、最終的に狩られることも覚悟しておいたほうが『計算違い』がなくてよいかもです。
あるいは『公で開陳したい』という欲望までない人は、こそこそとラブドールを買ったほうが、欲望を投射する代替物を手に入れやすいかなと思います。
なぜ幼女を犯してはならないのか。計算問題じゃないとすれば、道徳の問題。道徳の問題とすれば多数派の趣味の問題。多数派の趣味にどれだけ自分を合わせるかという話ですかね。それも計算問題か。
生きやすさを考えると、合わせられるところは合わせたほうがよいでしょうし、合わせられない人は犯罪者に堕ちるのでしょう。
そういえば最近「ぷに」って言葉を聞かなくなりましたね。(唐突な話題転換)
以上。