電光掲示板が知らせるもの
はぁ。この会社はどれだけ俺を働かせれば気が済むのだろう。働くのってこんなに辛いのか。
働き始めて3ヶ月。最初は働くことはそこまで苦じゃないと思っていたが、1ヶ月、2ヶ月と働いていると少しずつ辛くなってきた。
仕事量も徐々に増え、終電まで残業をしなくてはいけない日が増えた。
土日の休みはしっかりと確保されているからまだ少しはマシだが、平日は寝るために家に帰る日が続いていた。
大学生に戻りたい。
そんなことを考えながら、最終電車に揺られている。
同じ車両には会社員と思われる女性が1人と、黒いズボンに黒いパーカーを羽織り、フードを深くかぶった男性が、それぞれ間隔を開けて乗っているだけだ。
この2人は、同じ時間の電車で何度か目にしている。
女性に関しては、俺が乗る車両を合わせているが、男性の方は偶然だ。
この女性は、少し茶色の髪の毛と、クリクリした目がとても美しい。
俺は彼女の虜になってしまった。
かといって、声をかけたりしているわけではない。ただ、同じ車両に乗っているだけだ。
毎日同じ車両に乗っていると怪しまれるかもしれないが、その心配はいらなかった。
この車両に乗る3人は降りる駅が同じなのだ。それでいて、この車両が最も階段に近い。
3人がこの車両に集まることは不自然なことではない。
おかげでノーリスクで彼女を拝むことができる。
その日も、電車を降りるまで彼女を堪能した。
駅についた。
電車を出ると、じめっとした空気が包み込んできた。
最近は、雨の日が多いのもあり、湿度が高い。
駅には、3人がそれぞれのペースで階段を上る音が響く。
女性を先頭に、パーカーの男性、俺と続く。
改札を出ると、2人は東口に向かった。
この駅は線路を挟んで東側の入り口と西側の入り口に分かれている。
俺は西口を利用している。
西口の階段に向かって歩いていると、ダイヤ改正のお知らせが目に入った。
今日初めて目にしたから変わるのはまだ先のことだろう。今しっかりと見ておく必要はない。
そう思い駅から出た。
駅を出ると、電車と同じようにほとんど人の姿はない。
この地域は決して賑わっているとは言えないため、夜になると、ほとんどの店は閉まり、遊んでいる若者の姿は見えない。
駐輪場から自転車を取り出し、家に向かった。
住宅街に入ると、今にも犯罪に巻き込まれそうな気分になった。
こんな若い男を狙う物好きなんていないのだろうけれど。
そうして5分もしないうちに家に着いた。
俺は支出を抑えるために実家で暮らしている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
普段はこの時間なら寝てしまっている母から返事があった。
「まだ寝てなかったんだ」
「昼寝したら、眠れなくなっちゃたのよ」
「そうなのね。親父は?」
「酔っ払って寝ちゃったわよ」
俺の父親も当たり前だが働いている。しかし、俺よりも家に帰るのは何時間も早い。
「ほどほどにしてほしいよ。本当に」
父は昔からよく酒を飲む。
「そうよね。もう若くないんだから。それより、ご飯食べるでしょ? 今日はステーキよ」
「まじ? 最高だよ」
「でしょ。これから焼くからちょっと待ってね」
肉を焼くためにこの時間まで起きていてくれたのかもしれない。
そう思うとなんだか嬉しかった。
椅子に座り、肉が焼けるのを待っていると母が話しかけてきた。
「それにしても、こんな時間まで働いて体壊したりしないでよ」
「母さんこそ、ちゃんと生前整理はしてよね」
「余計なお世話よ。まだまだ死にはしないわ」
まだ60歳にもなっていないのに死なれたら困る。
「それに、死ぬ時はなんとなんとなくわかるっていうじゃない」
「虫の知らせってやつか」
「そうそう。それにお迎えが来たっていう人もいるじゃない。まだそんなの私来てないし」
どんな形で迎えに来るのか気になるが、そんなことを聞く必要もないか。
「長生きしてくれればそれでいいよ」
こんなことを言えるようになったなんて、俺も成長したものだ。
母は嬉しそうな表情を見せた。
その後も母と会話を交えながら牛ステーキの味を満喫した。
明日も仕事があるから早く寝よう。
ベッドに入った頃には、もうすぐ3時になりそうだった。
数日後、俺はまた終電で帰ることになってしまった。車内には女性と男性が乗っているだけだ。
駅に着くまで、スマホと女性を交互に見ながら時間を潰した。
途中から、ネットの記事に集中してしまった。
ふと、周りを見ると、駅に着いていて、2人とも降りてしまっていた。
駅のホームから階段を上ると2人が改札を出て東口に向かっているのが見えた。
特に追いかけるつもりも無いので自分のペースで歩いた。
ふと電光掲示板を見ると、俺が乗ってきた下り電車に1時発というものがあった。
おかしい。今は0時40分だが、俺が乗った電車が終電のはずだ。
そういえば、ダイヤの改正のことを忘れていた。もう変わってしまったのか。
変わっていたことには驚いたが、俺がいつも乗っている時間の電車はそのまま残っていたので安心した。
改札を通り、西口から駅を出た。
次の日も、俺は同じように終電に乗っていた。そしていつもの2人も乗っている。
女性の方は眠ってしまっている。男性は、グレーのパーカーを着て、いつも通りフードを深くかぶっていた。
「まもなく到着いたします」
駅にもうすぐ着く。しかし、女性は眠ったままだ。
これはチャンスだ。ここで起こせばこの女性との関わりを持てる。
俺は思い切って席を立ち、女性の肩を軽く叩いた。
「あのーもうすぐ着きますよ」
女性は眠たそうな目を無理やり開けて、俺の顔を一度見たあと、後ろにある窓から外の様子を確認した。
状況を理解したのか、目をこすりながら小さな声で
「ありがとうございます」と言った。
駅につき、女性よりも先に降りて、女性が降りるのを待った。
女性は、表情こそ眠そうだが、しっかりとした足取りで電車から出てきた。
「本当にすいません」
「いえいえ。お疲れなんですね」
「ええ」
そう言うと女性は階段を上って行った。
俺も少し間を開けて上った。
階段を上りきると、自然と電光掲示板が目に入る。
それを見て俺は、自分の目を疑ってしまった。
電光掲示板には0時50分発の文字があった。
昨日見た時は、1時発だったはずだ。見間違いだったのだろうか。この際ダイヤ改正のお知らせに目を通して確認しよう。
ダイヤの改正のお知らせには、終電は40分と書いてあった。さらに、変更されるのはあと2週間も先のことらしい。
この掲示板は壊れてもいるのだろうか。
そんなこと気にしていても仕方がない。
俺が今乗っている時間の電車があるならそれで良い。
俺は駅員に報告はしないで駅を出た。
次の日、俺はこの日も最終電車に乗っていたが、いつもの2人の姿はなかった。
男性の方はいなくてもいいが、女性がいないのには少しがっかりした。
俺は彼女がいるから終電に乗っているようなものだ。
彼女がいないと、電車に乗っている時間がいつもより長く感じた。
電車を降りると、俺はいつもより少し速く歩いた。
そして、俺は階段を上りきると同時に足を止めた。
視線の先には電光掲示板がある。
そこには、何も表示されていなかった。つまり、俺が乗ってきた電車が最後ということだ。
昨日の50分発や、その前の1時発という表示はただの間違いだったのかもしれない。
そう考えるのが自然だ
俺は一度止めた足をもう一度動かし、家に向かった。
その次の日も、俺は最終電車に乗ることになった。
車内は、外の気温のわりに冷房の温度が低いのか、少し寒かった。
今日は、他の2人も同じ車両にいた。
昨日いなかっただけだというのに、久しぶりに見たような気持ちだった。
俺はいつものようにチラチラ女性を見ながらスマホを触っていた。
電車に乗って数分すると、突然女性が席を立ち、俺のほうに向かってきた。
そして、俺の顔を一度確認すると、隣に座った。
体が触れるのが申し訳なかったので、元々座席の端に座っていたが、出来るだけ体を寄せた。
「気にしなくていいですよ。私が勝手に座ったんですから」
「はあ。それより、いきなりどうしたんですか?」
「少しお話ししたいことがありまして」
こうして、彼女と会話できることになった。
彼女がなぜ今話しかけてきたがわからないが、俺にとっては仲良くなるには絶好の機会だった。
電車が駅に着くまでの間、2人の仕事や、プライベートのことを話した。
今までにないくらいあっという間に駅に着いてしまった。
俺は彼女の横に並んで階段を上り、改札に向かった。
しかし、俺は階段を上り終えたところで足を止めてしまった。
電光掲示板がおかしかったからだ。
そこには0時42分発という表示があった。
「どうかしたんですか?」
「電光掲示板を見てください。さっきの電車が終電のはずなのに、まだ1本残っているんですよ」
彼女はおれと同じように掲示板を見た。
「本当だ。おかしいですね。でもこれ、なんかの手違いとかじゃないんですか?」
誰だって最初はそう考える。
「でもね、これが初めてじゃないんですよ。それに、この出発時刻も日によって違うんですよ」
「へー。それなら、本当に電車が来るのか見てみましょうよ」
こうして俺たちはホームに戻り、電車が来るのを待った。
ホームに出て1分ほど経つと、線路の奥から光が見えてきた。
「電車きましたね」
「なんだ。ちゃんと来るじゃない。帰りましょう」
彼女はそう言って階段を上っていった。
俺も階段を上ろうとしたとき、理解できないことが起きた。
なんと電車はこの駅に止まらなかったのだ。
俺は急いで彼女の後を追った。
「ねえ、あの電車、止まらなかったんだけど」
「え? じゃあなんで電光掲示板にはあの電車の時刻が書いてあったわけ?」
そんなことを聞かれたって俺にわかるはずがない。
俺が返答に困っていると彼女は笑顔を見せた。
「そんなこと知るわけないよね。それにどうでもいいと思う。私たちには関係が無いんだもの」
確かにそうだ。
「帰りましょう」
そう言って彼女は再び歩き出したので、俺も後に続いた。
「さようなら」
改札を出たところで彼女は俺に言った。
俺は西口、彼女は東口から帰るからだ。
「じゃあまた」
俺は彼女の目を見つめていった。
彼女はうなずいた。
それを見て俺も東口に向かって歩いた。
次の日、俺はいつもより早く帰ることもできたが、あえて終電に乗ることにした。
恋の相手に会いたかったのと、電光掲示板が気になったからだ。
駅のホームでいつもの女性と会い、昨日と同じように隣に座った。
電車の中はいつも通り、俺と女性とパーカーの男性しかいなかった。
今日の彼女の顔はとてつもなく暗かった。
「顔色が悪いけどなにかあったの?」
彼女は周りを見回してから答えた。
「昨日あまり眠れなかったの」
「そっか、今日は早く寝た方がいいね」
彼女は「うん」と言って、下を向いてしまった。
あまりにも彼女の表情が暗かったので、俺は話しかけなかった。
5分ほど経ったとき、彼女がおれの肩を叩いた。
彼女の方を向くと、顔を耳に近づけ、小声で話しかけてきた。
「今日、家まで一緒についてきてほしいの」
誘っているようなそぶりは全くなく、ただなにかに怯えているようだった。
俺は安心させるために笑顔でうなずいた。
彼女は俺にもたれかかり目を瞑った。
そこからは駅に着くまで電車が線路を走る音だけが聞こえた。
駅に着くと彼女は目を開き俺の手を取って電車を降りた。
階段に向かって歩いていると止まっていたはずの電車が急に消えた。
さらに、虫の鳴き声などの音や、パーカーの男の姿もなくなった。
「これどういうこと?」
彼女は俺と同じ疑問を持っているようだ。
「さあ」
そう答えたとき、暗闇の奥から電車の光が見えた。
彼女もそれに気がついたの電車の方向を向いた。
その電車は、駅に近づくにつれてスピードを落とし、ホームの前で完全に停止した。
見た目は普段乗っている電車と全く変わらない。
ドアが開くと中から冷たい風が流れてきた。
すると、彼女は電車のは入り口に向かってゆっくりと歩き始めた。
「ねえ。勝手に動くんだけど」
彼女は顔を歪めた。
「だめだ、止められない」
俺は彼女の手を力強く引っ張ったが、止まる気配はなかった。
仕方なく、俺は彼女と一緒に電車に乗った。
車内の座席は客で埋まっていた。それに、つり革につかまっている客も何人かいた。
電車に乗ると、彼女の足は止まった。というよりもその場に固定されたように動かなくなった。
「これどこに向かうの?」
俺は首を傾げた。
俺たちが乗ると、すぐに扉は閉まった。
しかし、電車は全く動かき出さない。
30秒ほどすると、もう一度ドアが開いた。
「ねぇ、周り見て」
俺がドアの外に気を取られていると、彼女は繋いだ手をさらに強く握りしめて言った。
言われた通り周りを見ると、乗客が俺たちのことを真顔で見ていた。というより、俺を見ていた。
俺がなにかしたのだろうか。全く心当たりはない。
キョロキョロし続けていると、つり革につかまっていた男性が近づいてきた。
「降りろ」
男は低い声で言った。
彼女をおいて降りるわけにもいかなかったので、黙って男の目を見つめた。
すると男は距離をさらに詰め、俺を突き飛ばした。
その反動で、手を離してしまい、電車から降ろされ、俺はホームに頭を打った。
その瞬間、ドアは閉まり電車は動き出した。
それと同時に彼女の足は動くようになり彼女はドアに近づき、ドアを思い切り叩いた。
他の乗客はドアを叩く彼女を大人数で取り押さえた。
彼女の泣き叫ぶ声は電車の外にまで聞こえた。
電車はそのまま駅を出発し、闇に消えていった。
しだいに俺の視界も暗くなりいつのまにか気を失ってしまった。
目を覚ますと病院のベッドの上だった。
そして、背中がとてつもなく痛かった。
ベッドのそばには母が座っていて、おれが目を覚ましたのを見て、何度も「良かった」と呟いていた。
後で聞いた話によると、俺はあの日、パーカーの男に刺されたらしい。
パーカーの男はいつも同じ電車に乗る女性のストーカーだったらしく、俺と彼女が仲良くしていたのが気に食わなかったらしい。
そして、俺と彼女を刺した。
駅員がすぐに通報してくれたおかげで俺は助かったが、彼女は何度も何度も刺されたせいで救急車が到着したときには、既に死んでいたらしい。
それにしても、あの時に彼女と見た電車はなんだったのだろう。どうして俺はあの電車に乗ることができなかったのだろう。
分からないことだらけだ。
それ以来、あの電車を見ることはなかった。
あの事件から5年が経った。
未だに俺は、終電で家に帰ることがある。
今日もそうだ。
車内には俺以外だ誰もいない。
駅につき、疲れで重くなった足をどうにか持ち上げる。
やっと上りきったとき俺の目には電光掲示板がうつった。
そこには、1時発の表示があった。