歯磨き校
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
つぶらやくんは、怪我とか病気とかで出血したことってあるかしら? いやね、うちの弟が昨日、鼻血を出しちゃったのよ。本人が血に慣れていないこともあって、大騒ぎ。
血は私たちの身体を支える、特に重要な物質のひとつ。なのに、いざ目にするとたちまち気分を害してしまうほど、相性が悪い人がいる。歴史を振り返っても、忌み嫌われることの一部には、血が絡んでいる。
どうして昔から血はここまで嫌われるのか、考えたことはあるかしら? つぶらやくんはどんな風に考えている?
――ふんふん、呪術に用いられることが頻繁にあったから?
うん、妥当な線をついてくるわね。呪いには身体の一部を使うものが多いけど、中でも血液は特に強力なものといわれている。それだけ何かと深く結びつく力も、多く含んでいるんでしょう。
その血をめぐって、つい最近、おかしな出来事に遭ったのよ。弟の鼻血より前にね。ちょっと聞いてもらいたくって。いいかしら。
中学校の入学式のこと。生徒のひとりが突然、意識を失って倒れたの。私と同じ小学校からあがってきた男子だったわ。貧血と思しき症状だったって。
小学校時代、格別に親しかったわけではなかったけど、家は近所で、本当に小さい頃に行き来したこともある。「様子を見に行ってあげるか」と、次の日の登校前に足を向けたの。
彼の住まいは、敷地いっぱいが家とガレージにほぼ占拠されている一軒家。数年前までは玄関の戸の裏に子犬が飼われていたけれど、今は犬小屋だけが寂しく残されているのみ。
で、私が近くまでやってくると、彼が玄関先に仁王立ちしていたのよ。こちらに気がついている様子はなく、歯ブラシくわえて腰に片手を当てながら、ごしごし歯を磨いている。
あなた、歯を磨いたり、顔を洗ったりしている相手に、平然と声をかけたりできる人? 私は無理な人ねえ。自分が逆の立場で、邪魔をされたら腹が立つタイプだし。「鏡を見ずにちゃんと磨けてるのかなあ?」と思いつつも、その場を去りかけたところで。
彼が出し抜けに歯ブラシを抜いたわ。赤い柄を持つその先のブラス部分にも、紅色がにじんでいるのが、私にも見えたの。彼が「イッ」と歯をむき出しにしてかみ合わせると、血がぽたぽたと垂れていく。
白っぽいコンクリートの上に点々と数を増やしていく、朱色の斑点。その意図をはかりかねて、私は足早にその場から逃げちゃったわ。
同じクラスだった彼は、ホームルーム開始の5分前にやってきた。私はいつも通りに彼にあいさつしたけど、心臓はばくばく。今朝のこと、気づかれていたんじゃないかってね。
けれどその日、彼から私に接触してくることはなかったわ。
彼は、小学校時代に比べて休み時間に席を立つことが増えた。毎回、通学鞄の中から小さいビニール袋を取り出して、それを携えながら男子トイレへと消えていく。
何日も続くと、みんなも彼のキャラだと思い始めて、何かしらいじる材料にしようとしていたわね。
でも、私は安穏と構えていられない。
――きっと歯ブラシが入っているんだ。
あの朝の様子を見た私は、そう感じたわ。事実、彼と入るタイミングを同じくした男子生徒の何人かは、個室の中から歯を磨く音が聞こえたって話していた。
更に何日かが経つと、追い打ちをかけるかのように、別の話題が持ち上がる。放課後に入った個室。その便器の中に赤い血が残されていたっていうものがね。
半ば容疑者扱いされるのに前後して、彼は教室最寄りのトイレは使わなくなったわ。
同フロアのトイレは校舎の反対側にもある。特別教室が多く並ぶから、移動教室の時の生徒が使うくらい。教室近くのそれに比べれば、需要は多くないはずだった。
わざわざそこを選ぼうとする理由。悪評から逃げ、ほとぼりが冷めるのを待つつもりかもしれないけれど、本当にそれだけ?
あれからもう一ヵ月以上が過ぎている。私も当初感じていた、恐れとか嫌悪とかよりも、好奇心の方が勝るようになっていたわ。彼が本当は何をしているのか、確かめようと思ったのよ。
彼は廊下を歩いていく時、しょっちゅう背後や周囲をうかがう。廊下はトイレに着くまではほぼ真っすぐ伸び、途中から鍵のかかった特別教室が続くつくり。隠れる場所はところどころに張り出した柱の影のみだった。この条件でスニーキングに臨むのは、少し冒険が過ぎる。
幸い、校舎には避難経路の確保のために、他の階段を使った迂回ルートがあったわ。それを使えば、トイレのすぐ近くに出られるはずなの。
私は彼が校舎の向こう側へ歩いていく姿を見て、教室近くの階段を降りる。別のフロアの他学年に変な目で見られながらも、急ぎ足でもう一方の階段へ。すでに彼がこのあたりまで来ているだろうから、足音を忍ばせる。
反対側の階段を上がりきった。左手は行き止まりの被服室。右手は美術室と、男女のトイレが隣り合っている。周囲に人の姿は見えない。
私はそっと男子トイレのそばへ。聞き耳を立てると、中からかすかに歯を磨く音がする。恐らくは彼だ。
のぞくことはせず、私はいったんまた階段の影へ身を隠す。彼が去ったのを確認してから、状況証拠を押さえようとしたのね。あの朝のようなことをしていると。
そのうち、男子トイレから出てくる気配。ちらりとしか確かめていないけど、やはり彼だった。後は彼が教室へ戻っていくのを待ち、状況証拠をおさえる。
けれど彼は教室方向へ向かわない。それどころか足音は女子トイレの方へ行き、中へ入っていってしまったの。
信じられなかった。ひょっこり顔を出したけど、やはり彼らしい人の姿はない。教室へ続く廊下も同じく。今度はそうっと女子トイレの前に立ってみる私。
歯を磨く音がしたわ。中からはっきりと。私の心の中で、あの朝、血を垂らした彼の姿が浮かんできて、にわかに鳥肌が立ってきたわ。
女子の誰かが歯を磨いている可能性も、ゼロじゃない。でも先客がいたなら、入ってきた彼に対し、とっくに声を出しているはず。
中に踏み込んで注意をする? いやいや、曲がりなりにも相手は男。腕力で敵う自信はない。あれだけ周囲をはばかりながら動いていた彼のことだ。見られたと分かれば、何をしてくることか。
本当ならもう逃げたい気分だったけど、度胸を試しながらここまで来たのは、証拠をつかむため。私は他の男子がいないことを祈りつつ、男子トイレの中をのぞいてみたの。
ひどい有様だったわ。
まず流し部分。排水溝とその周りで、残っている水の上を、血が糸を引きながら滑っていく。最も血の色が濃い場所が、五つ並ぶ蛇口の左から二番目。恐らく、ここで彼は歯を磨いていたんだ。
血はタイルの上にも一滴、また一滴と不規則に垂れながら、それぞれの個室へ続いている。いずれも戸が開いているそれのうち、一番手前をのぞき込むと、案の定、便器の中に血の姿。張ってある水の中にも、そこへ向かって傾く白い丘の上にも。
丘にたたずむ、暗褐色に染まったひとしずく。それから細く長い肢が伸びて一本だけ伸びて、下の「池」へと注がれる。水の中に飛び込んだ肢は、元来の形を失い、自由な広がりを見せていたわ。
また足音。女子トイレの中から外へ出るものがいる。やはりひとつだけで、他の誰かが連れ立つ様子はない。
私は個室に入ったまま動かなかった。この距離じゃ、ささいな音さえ届いてしまう恐れがあったから。何もせず、やり過ごせることを祈るしかない。
幸い、足音は早いペースのまま、遠ざかっていく。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り出したの。
ここからだと、かなり走らないと間に合わない。事実、聞こえていた歩みは、チャイムと共に駆け足へ変わった。
――行かないと。でも、その前に……。
私はできる限りの速さで、男子トイレから女子トイレへ。小用便座の有無をのぞけば線対称の作りになっているそこは、被害の遭い方も男子トイレとほぼ同じ。
血で汚れる流し、床、便器。さっとそれらを見やって、一気に教室へ向かって駆け出す私。チャイムが鳴る中、激突御免の速さで廊下を走り出す私だったけど、なまじ前方注意していたせいで気づいちゃった。
ビニール袋を持っていた彼が、廊下の真ん中に立っていたのを。私と視線を一瞬だけ交わして、同じ方向へ駆け出したことへね。
二人してぎりぎり教室へ飛び込んだけど、午後はもう彼のことが気になっちゃって、仕方がなかった。女子トイレにまで入り込み、あんなに色々なところを汚して何をしたいんだろうってね。
びくびくする私の様子を察したか、次の休み時間。彼はビニール袋を持ちながら、自分の席で縮こまっている私の横まで来ると、わずかに足を止めてつぶやいたわ。
「この学校には、血が足りてない」
彼は教室を出て行き、またそのことを揶揄する声が、くすくすとあがったわ。そして私はようやく、彼の持つビニール袋の一部が赤くなっていることを、視認できたのよ。
卒業までの間、彼は頻繁にトイレへ足を運び続けた。それどころか、校舎中の色々なところで歯磨きする姿が見受けられ、後輩が入ってくると「歯磨き先輩」と呼ばれることもあったわ。
在学中は比較的、平和に過ごしていた私たちだったけどただ一回、二年生の秋ごろ。ソフトテニス部に入っていた同級生の男子が、怪我をしちゃったの。渡り廊下の屋根に乗っかったボールを回収しようとした時みたい。
校舎と体育館を結ぶその屋根へは、どちらかの校舎の二階の窓から乗り移らなきゃいけないの。その男子は勢いよく屋根へ飛び移ったけど、直後に足を抱えてうずくまってしまう。
現場には居合わせなかったけど、釘が着地したところに転がっていて、もろに踏んづけちゃったとか。傷は指の先さえ入っちゃいそうなくらい、大きかったとかなんとか。だいぶ血も出たみたい。
この時期、例の歯磨きの彼は、早いインフルエンザにかかって学校を休み続けていたわ。これ、偶然なのかしらね?