第一章:5 復讐と失ったもの
大変長らくお待たせしました。
えっ、待ってない?
そっ、そんな〜(泣き
とにかく、私は一応学生ですので、更新はかなり不定期です。
これくらい遅くなることもあるのでご了承ください。
フリージアは厳しい表情で宿の階段を上っている。
ディブロが気絶したあのあと、看病しようと思い、ディブロを背負ったわりと体躯のいい見物人の一人に、「私もついて行きます」と言ったのだが、「こいつは俺が責任もってつれて行くから」と、それだけ言うと走っていってしまった。
仕方なく宿の戻り、ホールに向かった。
ホールにリオンの姿はなく、かわりに階段から下りてきたミレイアが、リオンはすでに二階の部屋で朝食をとっていることを伝えてくれた。
そして今現在にいたるわけだ。
言いたいことは山ほどあった。
二階に上り、廊下を渡って部屋の前に立ったフリージアは、扉をノックした。
中から「入れ」という声がしたので、扉を開けた。
リオンはゆったりと椅子に腰掛けていて、テーブルに置かれたスープをスプーンですくい、上品に口元へ運ぶ。
テーブルには他にもパンとコーヒーが置かれている。
フリージアは厳しい表情のまま、ずんずん歩く。
テーブルを挟んでリオンと向かい合う形になったフリージアは、静かに、だが叱責の意図が伝わるように語調を強めて言った。
「なぜあんなことを言ったのですか」
リオンは特に反応せず、パンに手を伸ばし、千切って口元へ運ぶ。
そんなリオンをフリージアは何も言わず、ただじっと見つめる。
重苦しい沈黙の中、パンを飲み込んだリオンは呆れたように小さくため息をもらし、開口した。
「事実を吐露したまでだ」
「事実かどうかはわかりませんが、あんなことを言わなくてもいいでしょう!」
フリージアは両手をバンッとテーブルにたたきつけた。
両手がひりひりするが、そんなことは気にならなかった。
リオンはそんなフリージアを冷ややかに見つめている。
リオンにはフリージアが憤る理由が理解できなかった。
「何をそんなに憤る? お前には関係ないことのはずだ」
「確かに私はあのお方のことをよく知りません。しかしあんなことを言われれば誰だって傷つくことは知っています!」
フリージアの声がだんだん大きくなってきた。
フリージアはすでに怒り心頭だ。
リオンのあまりにも心無い言葉は、彼女には到底許せるものではなかった。
「今すぐにあのお方のところへ行って謝ってきてください!」
「何故だ? 事実を言うのがそんなにも悪いことなのか?」
「ですから! 言わなくてもいいことがあると言っているのです!」
「言わなくてもいいことがある? 事実をひた隠しにして生きろとでも言うのか?」
「そんな難しいことを言っているのではありません! 思いやりを持ってくださいと言っているのです!」
「思いやり……くだらない。そんなものは所詮人間の馴れ合いという惰性に過ぎない」
「なっ……!」
フリージアは言葉を失ってしまった。
いろんな言葉が喉元まで出掛かっているが、何一つ出てこない。
その言葉は叱責、怒り、罵倒。整理しようとすればするほど言葉は混濁していく。
フリージアはキッと睨みつけた。
フリージアのような生真面目な人間が眼に角立てていれば、普通は謝ったり、目を逸らしたり、萎縮したりするだろう。
だが、リオンは謝りもせず、目も逸らさずに直視している。
しばらくの静寂。
睨みあっている(睨んでいるのはフリージアだけ)間も、リオンはパンに手をつける。
リオンは残っていたスープを飲み干し、パンをたいらげた。
最後に残ったコーヒーに手を伸ばし、ゆったりとした動作で口に運び、優雅にすする。
一度コーヒーをテーブルに置いて、答えを求めるようにフリージアの言葉を待った。
だが、フリージアは何も答えなかったため、再度コーヒーに手を伸ばす。
そしてフリージアは沈黙を破った。
「リオンさん。こんなことは言いたくないのですが、あなたは人として最低です」
すでに口元まで運ばれていた、コーヒーを持つ手がピタッと止まった。
それを見たフリージアは、ウッという顔をした。
怒りに任せて言いすぎてしまったと、自責の念に駆られる。
謝罪の言葉が見つからず、ただ申し訳なさそうにうなだれた。
リオンは止まっていた手を動かし、コーヒーを一気に飲み干した。
空になったコップをテーブルに置くと、ゆっくりと立ち上がる。
リオンは壁に立てかけられた斧に向かって歩き出した。
斧を右手で持つと、今度は扉に向かって歩き出す。
そんなリオンを見ていたフリージアは、とにかく何か謝らなければと、慌てて謝罪した。
「あの、さっきは言い過ぎました。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
フリージアは深々と頭を下げた。
リオンは扉の前で立ち止まり、振り返らずに前を向いたまま無感情に答えた。
「謝る必要はない。お前は事実を言ったまでだ」
「えっ?」
「人として必要なものなどとうの昔に捨てた。俺は人として最低どころか、もはや人ですらない」
フリージアは困惑した。
てっきり怒っているのかと思ったが、その口調からは怒りは感じられない。
それどころか、自分のひどい言葉をはっきりと肯定し、そのうえでさらに卑下するようなことを言った。
だがそれは、卑下するというような口調ではなく、あくまで事実を吐露したというように、あまりに無感情だ。
まるで、「雨が少し降っている」と言ったのにたいし、「少しじゃなくて土砂降りだろ」と、少し表現を強めただけくらいにしか聞こえなかった。
それだけにフリージアの心は絞めつけられるように痛んだ。
「違う。そんなことはない」と、言おうとしたが、リオンはすでに扉を開けて、部屋を出ている。
リオンは背を向けたまま扉を閉めた。
残されたフリージアは、ただただうなだれることしかできなかった。
――――――
ディブロ・グオリッツ。
彼は剣の才覚に恵まれていた。
人の数倍のスピードで剣の腕をあげ、二十五という若さにして警備兵隊長になった。
あるとき領主に武闘会に出てみないかと言われ、賃金を渡されて、軽い気持ちで首都に赴いた。
首都に着いた彼は、初めて体験する都会の喧騒にやたら興奮し、はしゃぎまくっていたが、ここは割愛。
首都の闘技場で受け付けを済ませた彼は、数日後に控えた武闘会に向けて、疲労困憊になるまで首都を遊覧し続けた。
結果としてくたくたになりながら臨んだ試合は圧勝に終わった。
そのまま順調に勝ち進み、彼は五百人近く集まった出場者の中で、四位という偉業を成し遂げた。
彼が領地に帰ってきたとき、領地の人間は熱烈な歓声と拍手で向かいいれた。
故に彼という存在は、領民にとって誇りとなり、この領地にあまねく轟くことになった。
この領地の人間で、彼のことを知らないものはいないと言っても過言ではないほどに。
領主は、彼に最大の褒美と賛辞を送った。
彼は喜んで褒美を受け取ったが、それ以来この領地を退屈だと思うようになった。
仲間の警備兵と試合をしても、誰も相手にならず、何かが起こったりするわけでもない平和な領地に、彼はほとほと嫌気がさしていた。
少しの混沌を望むようになったころ、一人の少年とであった。
全身黒尽くめの少年は、華麗に舞い、卓越した剣技を見せ付けていた。
そして彼は、少年に勝負を挑んだ。
自身が敗北するなどとは微塵も考えずに。
彼が、どこからかやってきた旅人に敗れたという噂は瞬く間に広がった。
次の日からリオンを取り巻く状況が変わった。
<旅人の安らぎ>に、老若男女問わずリオンを一目見ようと野次馬たちが押し寄せてきたためだ。
そのため、ミレイアは客でもない彼らを追い返すのにやきもきする破目になった。
だが、野次馬たちを追い払っても、少したつとまた新たな野次馬が現れるということが繰り返されたため、ミレイアは追い返すことをあきらめてしまった。
ほとんど無理やり居場所を作った野次馬たちは、リオンがホールに下りてくるのを待った。
しかし、リオンは部屋に引きこもったままめったに降りてこなかった。
そのため諦めて帰るものも多々いたが、一部は何時間も待ち続ける者がいた。
そしてリオンが下りて来た時、運よくその場にいたものは、さまざまな視線を投げかけた。
それは誇りを汚されたことによる憎悪や怒りであったり、純粋な羨望であったり、畏敬の念であったりした。
しかし、リオンは一切の感情を受け付けず、睥睨することによってすべての視線をねじ伏せ、恐怖の色に染め上げた。
リオンにとって変わった状況は、野次馬たちが押し寄せてくるということだけではなかった。
毎朝、鍛錬の時間にディブロがあきらかな憎悪と憤りをその目に湛え、勝負を持ちかけて来るようになったことだ。
リオンは無視を決め込んだが、ディブロはお構いなしに襲い掛かってきた。
リオンは仕方なくディブロが襲い来るたびにねじ伏せた。
そして、リオンたち滞在から六日目の朝、事件は起こった。
――――――
空を覆う灰色の雲が陽光をさえぎるセインバーグ領地。
朝霧がこもるセインバーグ城の中庭。
そこにはディブロとブロードが立っていた。
ブロードに背を向けているディブロは、振り返らずに前をむいたまま言った。
「何のようだ?」
あきらかに苛立った様子のディブロに、諭すような口調で言う。
「またあの少年のところに行くのか? いつまでそんなことを繰り返す?」
ディブロは振り返った。
ディブロの目を見たブロードは身震いした。
その目は憎悪や怒りだけでなく狂気も宿っている。
「勝つまで繰り返す」
「無理だ。おまえがあの少年に敗れて以来血反吐を吐くほど、それこそ朝から晩まで鍛錬していたのは知っている。だがな、剣の腕は一朝一夕で上がるものではないことくらい知っているだろう。それに、彼がいつまでこの領地にいるかわからない」
「わかっているさ、そんなこと!」
ディブロは声を張り上げた。
「だからって負けたまま終われって言うのか! そんなことできるか! 勝つんだよ! なにがなんでも! 絶対に!」
ブロードも負けじと言い返す。
「何がわかっているんだ! 仮にあの少年がこの領地に一ヶ月滞在するとして、その間に少年に勝てるのか? いや、不可能だ。その前に、朝から晩まで体を酷使するお前が先にぶっ倒れるはずだ」
「知るか! たとえ体がぶっ壊れても! それでも俺は」
「ふざけるな! お前は警備兵隊長だぞ! お前の体はお前一人のものじゃないんだぞ!」
「知るか! 俺がぶっ壊れたら代役でも立てりゃいいじゃねーか!」
「馬鹿野郎! 何でそうなるんだ! たかが一度の敗北で何故そこまで熱くなる!」
「黙れ!」
ブロードの顔が強張り、口を閉ざしてしまった。
ディブロが放った言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
二人は無言のまま、冷戦状態に突入。
殺しあいに発展しそうなほどの形相で睨み合う二人。
少し時間が経過し、ディブロが口を開いた。
「どうしても俺を止めるつもりか?」
「当然だ」
「そうか……」
ディブロはうつむいた。
「なら仕方ないな」
ブロードの顔がぱあっと明るくなった。
説得に成功したと思ったのだ。
しかし、ブロードはすぐに自分の思い違いだと知る羽目になった。
ディブロはゆっくりと頭を上げて、ブロードの目を見据えた。
「お前をぶっ飛ばしてでも、俺はあいつのところへ行くまでだ」
冗談でも脅しでもなく、決然とした口調だった。
ディブロの手がゆっくりとロングソードの柄に伸びる。
それを見たブロードは奥歯をかみ締めた。
「本気……なんだな」
ディブロは答えず、決意をこめた瞳で見据えたまま、ロングソードを抜いた。
ブロードもロングソードの柄に手を伸ばし、躊躇うように剣を抜く。
互いに中段の構えをとり、二人はにらみ合った。
緊迫した状況の中、一陣の風が吹く。
一瞬とも永遠ともいえぬ時間が過ぎたころ、ブロードが力なく腕を下ろした。
首をぶんぶん横に振ったあと、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「行ってこい。俺にお前を止められるだけの力はない」
ディブロは剣を鞘に収めると、背を向けて正門に向かって歩き出した。
ブロードは、憎悪にとらわれた友人の背を、ただただ見つめることしかできない自分の無力さをかみ締めることしかできなかった。
――――――
フリージアは自分の部屋の窓からリオンを見つめていた。
眼下で剣を振るうリオンはなんら変わりない。
変わったのはリオン以外の人間だ。
路地に群がる野次馬たちも、リオンを見る目がただの好奇だけではなく、さまざまな感情が入り乱れたものになっていた。
そしてフリージアも変わった。
あの日以来、リオンと話そうとしても気まずくて話しかけられなくなってしまった。
ただ、リオン自身は普段どおりで気まずい雰囲気を作っているわけでもなく、フリージア自身が話しかけられないでいるだけだ。
そのことにフリージアも気づいてはいるのだが、謝るタイミングが見つけられずに今現在にいたるわけだ。
フリージアは嘆息をつくと空を見上げた。
空を覆う灰色の雲は陽光をさえぎっている。
フリージアはポツリと呟いた。
「雨が降りそう」
すると、初夏にしてはずいぶん肌寒い風が吹いた。
フリージアはぶるっと身を震わせて窓を閉じる。
フリージアは顔を洗うと部屋を出て廊下を渡り、階段を下りた。
薄暗いホールには、いつもいるはずの人物が居らず、代わりに一人の下男がテーブルを拭いている。
不思議に思っていると下男がフリージアに気づき、にんまり笑って声をかけてきた。
「おはようございます」
「おはようございます。ミレイアさんはいらっしゃらないのですか?」
「ミレイアさんは今出かけていますよ」
「そうですか」
「朝食はいかがなさいますか?」
「スープとパンをお願いします。リオンさんを見に行きますのでゆっくりして下さってけっこうですよ」
「わかりました」
フリージアは裏庭に続く廊下を渡り、扉を開けた。
まず目に飛び込んできたのはリオンの踊るような剣の舞。
本当に、驚くほどに何も変わっていない。
本来人は、何らかの感情を見せられれば何かしらの感情を持って反応するものだが、リオンにはそういう反応がまったくない。
それはつまり、野次馬たちの様々な感情のこもった視線に、そして人の感情そのものに無関心であるという証拠だ。
リオンさんは存立した存在なのかな、などと考えているとリオンと目が合った。
リオンの瞳は透き通った氷のように美しく、冷たく感じられた。
フリージアは複雑な感情を持って見つめていると、リオンは立ち止まって剣を収めた。
リオンはフリージアに向かって歩き出す。
正確にはフリージアの後ろにある宿の扉に向かって歩いている。
フリージアもそのことに気づいていたので、扉に脇に移動した。
リオンが扉の取っ手に手を伸ばしている時、フリージアは野次馬たちの異変に気づいた。
どよめく野次馬たちは、たじろぐように左右に分かれた。
瞬間、フリージアは戦慄いた。
現れた道を、ゆっくりと歩きながらディブロはロングソードを抜いた。
その目に憎悪と憤りを宿して。
取っ手に手をかけていたリオンは、視界の端で小さく震えるフリージアを見て、誰が来たのか瞬時に察知した。
小さくため息をついて、取っ手に手をかけたまま、振り返りつつ言った。
「またお前か。いいかげんに――」
リオンは言葉を詰まらせた。
ディブロの目に気圧されたわけではない。
ディブロから放たれる微かな殺気を感じ取ったからだ。
リオンの顔つきが一気に険しくなった。
取っ手から手を離し、ショートソードの柄に手を伸ばす。
ディブロは立ち止まり、リオンと対峙する形になった。
睨み合う二人。
リオンは剣を抜くと、口を開いた。
「そっちがそのつもりなら、俺もこれ以上は」
「リオンさん!」
リオンは横目でフリージアを見た。
フリージアは何か訴えかけるように見つめていた。
リオンは再びディブロに視線を移した。
「……しばらくは再起不能にする。それ以上は譲歩しない」
フリージアは不満そうな表情をしたが、自分に二人を止められるだけの力がないのは明白な事実だったので、仕方なく見守ることにした。
だが、もしもの時は、二人の間に割って入ってでも止める決意を固めた。
リオンは、背後に宿の壁、となりにフリージアがいる状況は不利と考え、慎重に弧を描くようにサイドステップを踏み、周囲に障害物がないところで立ち止まった。
平和な朝のひと時に流れる不穏な空気。
睨み合ったまま動かないリオンとディブロ。
どれほどの時間が経過しただろうか。
先に仕掛けたのはディブロだ。
構えも何もない状態で飛び掛ったディブロは、袈裟に切りかかった。
リオンは下から振り上げて弾き返すと、勢いに任せて一回転して薙ぎ払う。
ディブロはバックステップでかわしたが、リオンは踏み込んで突きを放った。
ディブロは剣を振り下ろして強引に叩き落とし、リオンの剣が地面にめり込んだ。
リオンは焦った様子もなく剣を引き抜こうとする。
ディブロは、リオンが剣を引き抜こうとしている隙をつき、首を狙って薙ぎ払った。
しかし、リオンは剣を両手で握ったまましゃがむことで回避し、そのままバック宙をして、剣を引き抜くと同時に切り上げる。
野次馬たちは悲鳴を上げた。
血に濡れたリオンの剣先。
かなりアクロバティックなリオンの斬撃は、ディブロの肩を掠めていた。
ディブロは肩から血を流しながらも、臆することなく突撃し、リオンが着地するころには、すでに攻撃態勢に移行していた。
ディブロは胴めがけて斬撃を放つ。
それをリオンは腕を折り曲げて、手を肩の位置まで持っていき、剣を斜め下に向けて斬撃を受け止めた。
ただ、体が吹っ飛びそうなほどの衝撃を受け、体勢が崩れてしまった。
そこへディブロの容赦ない垂直切りが頭上に襲い掛かる。
リオンはそれを受け止めたが、腕が痺れるという事態に陥ってしまった。
苦々しげな表情をするリオンを尻目に、ディブロはいきおいよく押し弾く。
危うく転倒しかけたリオンの胴に、早くも斬撃が迫っている。
何とか弾き返したものの、すぐさま斬撃が飛んできた。
あきらかに動きの切れが以前とは違っている。
幾度となく響く剣が交わる音。
激しい斬撃の嵐を崩れた姿勢のまま受け止めるリオン。
そして、一際強く金属音が響いた。
二人は鍔迫り合っている。
剣と剣が交わる点から火花が散る。
押し崩されそうになっているリオンは、剣と剣の間からディブロの目を見た。
その目に宿る、微かでありながら明白な殺意をリオンは感じ取った。
瞬間、リオンの目にも殺意が宿った。
リオンが放つ殺気は瞬く間に人々を呑み込み、恐怖の色に染め上げる。
唯一、ディブロだけが恐れることなく、さらに殺意を強めた。
ディブロはさらに力をこめ、リオンを押し込む。
リオンは以前やったように、靴底で蹴り飛ばそうと思ったが、今のディブロなら絶対に耐え切ると思い、バックステップで距離をとる。
だが、ディブロはあっという間に距離をつめ、踏み込んで突きを放った。
リオンは左足を軸に右足を外側に持っていくことでこれを回避。
横腹を掠めたものの、かわりに一回転しながら水平に斬りかかった。
ディブロは瞬時にバックステップで回避したが、かわしきれずに横腹を掠めた。
飛び散る鮮血が地を濡らす。
リオンは追撃せずにバックステップで距離をとった。
ディブロは激しい剣幕で睨み、リオンは無表情に近いものの目は鋭くなっている。
ただただ傍観するしかなかった野次馬たちは目の前の状況に困惑し、気が気でなかった。
それは、野次馬たちが直感してしまったためだ。
これはもはや“勝負”ではなく“殺し合い”だということを。
そしてなにより、二人の血に濡れた剣が、体から流れる血が物語っていた。
それでも誰も止めなかった。止められなかった。
リオンが放つ殺気のせいもあるが、ディブロの威圧感がそれを許さなかった。
しかし、フリージアだけは違った。
フリージアは、これ以上傍観しているのは危険だと思い、止めに入ろうとした。
その時だった。
「ディブロ!」
突如としてどこからか声が聞こえた。
その声の主は野次馬たちの中にいたが、肩で息をしている。
睨み合ったまま動かないリオンとディブロ以外の全員が、その男に注目した。
「ディブロ……はぁっ、はぁっ、大変だ。すぐっ、すぐに……げほっ、げほっ」
息が切れているのに無理やりしゃべろうとしたため、その場でむせ返ってしまった。
かなり慌てた様子で、何か切迫した事態が起こっているということが理解できる。
しかし、ディブロは素知らぬ顔で言う。
「今、俺は忙しいんだ。他を当たれ」
むせていた男は、一度深呼吸して息を整えると、大声で捲くし立てた。
「バカヤロウ! 魔物だ! 魔物が出たんだよ!」
「えっ!?」
ディブロの表情が変り、いきおいよく振り向く。
リオンも微かだが反応していた。
ディブロはずいぶん動揺した様子でその男に歩み寄り、矢継ぎ早に訊いた。
「魔物が出た? どこに出たんだ? 警備兵たちはどうしている?」
「あっちだ。あっちの方」
そういって指差した方向は、タール山脈の方だった。
「タール山脈の第二関門の方だ。警備兵たちはすでに向かっている」
「わかった。ありがとう」
ディブロは踵を返して走り出した。
その顔は復習に取り付かれた鬼の顔ではなく、警備兵隊長のそれだった。
ディブロの走っている後姿を見ていたリオンは小さく不敵な笑みを浮かべた。
リオンはフリージアの方に振り返り、矢継ぎ早に言う。
「俺は奴の後をついて行く。お前はここで待っていろ」
「えっ。でも、私も」
「お前が来ても邪魔なだけだ」
リオンの歯に布着せぬ言葉のせいで、フリージアは何も言えなくなってしまった。
事実、足手まといにこそなれ何の役にも立たないであろうことはフリージア自身もわかっていた。
リオンはディブロの後を追いかけるように走り出した。
リオンのほうが速いのか、ディブロに追いつき、横に並んだ。
並走するリオンを忌々しげにディブロは睥睨する。
「お前! 何でついて来るんだ!」
「お前と遣り合うよりは面白そうだからだ」
「ふざけんな! さっさと戻れ!」
「お前の命令をきいてやる義理はない」
ディブロは苦々しげに睨み付ける。
一瞬、無理やりにでもとめようと思ったが、そんなことをしている時間はないと判断した。
「くそっ! 勝手にしやがれ!」
全速力で疾走するディブロ。
ディブロの心臓が早鐘のように鳴り、得も言われぬ不安と焦燥感に駆られていた。
途中、逃げ惑う人が何人か通り過ぎた。
次第にぽつりぽつりと雨が降り始め、二人の体を濡らしていく。
雨に濡れた体に肌寒い風がぶち当たり、凍えそうになる。
しばらくすると、ハードレザーに身を包んだ十人の警備兵たちが、一体の魔物と戦っているのが見えた。
つるつるで気色悪い緑色の肌に、三メートルはあろうかという巨体のトロールが、体長の半分近くある棍棒を持っている。
もともと四体いたのだろうが、地に伏せる三体のトロールは血まみれになって絶命している。
一体は首を刎ねられ、一体は心臓を貫かれ、一体は体中をやたらめったら斬られまくった痕があった。
共通して片足が切断されているところを見るかぎり、倒れこんだところに一気に攻撃を仕掛けたのだろう。
残る一体のトロールは、怪我を負いながらも奮闘しているが、攻撃が大振りなためかことごとく避けられ、警備兵たちに怪我人はいない。
ディブロは警備兵に怪我人がいないことを知り、表情こそ厳しいものの、内心でほっと胸をなでおろした。
次の瞬間、飛び込んできた光景に目を疑った。
一人の警備兵が、トロールに果敢に飛び込んだが攻撃をかわされてしまい、大きな隙ができてしまった。
その警備兵を、見慣れた顔の男がかばって、横から飛んできた棍棒をまともにくらってしまった。
変な形にひしゃげて吹っ飛び地面にたたきつけられ、激しく転がって仰向けで止まった。
喉が上下に動き、口から溢れるほどの血が湧き上がる。
ピクリとも動かない体を見れば、もはや彼の魂がこの世に存在していないことが理解できる。
ディブロは呆然と立ち尽くしてしまい、警備兵たちもその場に硬直し、死人と化した仲間の姿から目を離せなくなってしまった。
だが、悲嘆にくれる時間許されなかった。
敵を一人殺したことで、トロールは凶暴性を増し、うなりながら猛攻を仕掛けてきたためだ。
警備兵たちは慌てて回避し、反撃しようとしたが、あきらかに統率がなくなって苦戦をしいられている。
ディブロの視界には、苦戦する仲間たちの姿が入っているが、見えてはいない。
全身から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。
「ブロード……」
震えた声で呟いた言葉。
ブロードの元へ駆け寄ろうとした。
そこで、一人の警備兵がディブロに気づいた。
「隊長!」
涙声の悲痛な呼びかけに、ディブロは我に返った。
ロングソードを握る手に力をこめる。
絶対に殺す。
憎悪と怒りの炎をその目に宿し、ディブロは突進した。
しかし、復讐を果たすことはできなかった。
人の死を目の当たりにしても何も感じていないリオンは立ち止まることなく、敵を見つけた喜びに嬉々としてトロールに突っ込んでいた。
トロールの懐にもぐりこんだリオンは片足を切断すると、倒れこんだところであっさり首を跳ね飛ばし、瞬殺した。
リオンは血振りすると、ショートソードを鞘に収めた。
リオンは、期待を裏切られて落胆したような表情でトロールの死骸を眺めていた。
ディブロはなすすべもなく立ち尽くす。
ロングソードが手から滑り落ちる。
不思議と憎悪と怒りはすぐに消えた。
ディブロは気づくとブロードのところに足を運んでいた。
警備兵たちもブロードのもとに重い足取りで向かう。
ブロードの顔はすでに血色はなく、開かれた目はどこにも焦点は合っていない。
ディブロはブロードの横に崩れるように両膝をついた。
ディブロは震えた声で呟いた。
「うそだろ? なあ、ブロード?」
震える手をブロードの頬に伸ばす。
頬に触れた瞬間、口にたまっていた血が溢れ、手に生暖かい感触が伝わった。
頬はとても冷たく、そこにブロードがいないことがわかる。
ディブロの胸に何かがこみ上げてきた。
それを払拭するかのように、大声で呼びかける。
「おい! 冗談だろ! なんか言えよ! ブロード!」
両手で肩をつかみ激しく揺さぶるが、口から血がこぼれるだけで何の反応もない。
ディブロは頭で理解していたが、心で拒否していた事実を受け止めた。
ふっと全身が脱力し、肩から手が離れ、力なくたらす。
こみ上げる悲しみと、世界が崩壊したような喪失感の中、ほんの数十分前のことを思い出した。
「こんなのってないだろ……まだ仲直りしてないんだぞ……」
すると、十八歳くらいの若い警備兵が泣きじゃくりながら、ディブロのそばに来た。
「ひっく……すいません。僕を……僕をかばったばかりに……ううっ……すいません、すいません……」
ディブロに謝罪の言葉は聞こえなかった。
ディブロは空を見上げる。
太陽の光をさえぎる灰色の雲は、のしかかってくるかのように重苦しく感じられた。
小雨はディブロの目に落ち、涙となって零れ落ちた。
ディブロはこみ上げる悲しみを、胸のうちにとどめておくことに耐えられなくなった。
「うああああぁぁぁぁぁぁ!!」
ディブロの悲痛な叫びを皮切りに、空が慟哭を始めた。
痛いほどたたきつける空の涙は、警備兵たちの体や剣についた血を流したが、悲しみを流すことはない。
ある者は嗚咽を漏らし、ある者は慟哭し、ある者は涙を流すまいと空を睨んでいる。
その光景を白眼視するリオンの姿はとても歪だ。
ディブロが望んでいたはずの混沌は、自分のいない間に、自分の望まぬ形で、悲劇という傷だけを残した。