八百屋の娘
店の灯はついていた。どうやら、この店舗が唯一この商店街で店を開けているらしい。軒並み閉店、あるいは営業自粛しているとあらば、もっと繁盛していてもよさそうなものだが、人気はまるでなかった。むしろ自粛しないことで、不買運動でもされているのだろうか。
あるいは、商店街ではなく市場のような文化で、昼になったら閉めるという機構なのか。はたまた本当にシャッター商店街なのか。
「入ってみていい?」と少女に聴くと、うんともすんとも返ってこなかったため、暖簾をくぐった。棚には、ナス、トマト、ピーマン、レタス、トウモロコシ。スイカもある。今夜はカレーにしようかしら。
客はアケビたちのほかにいないものの、この店は開いており、棚には野菜が並んでいる。つまり営業しているということだ。そうなればもちろん話せる店主もいるはず。村人が話さないのは極度の人見知りという可能性もあるが、相手が商人であれば話は別だ。野菜を買えばこちらが客。話さない訳にはいかないはずだ。
アケビは自分が無一文であるということなどすっかり忘れて、
「すいませーん。野菜買いたいんですけどー」
と店中に響く声を出した。
すると、二階からガタガタッと何かが倒れる音。
しばらく様子を伺っていると、キシキシと階段の軋む音と共に、涙目の女の子が下りてきた。
どうやら急いでつけたであろう黄色いエプロン。後ろの紐がまだ結ばれず下がっている。
踏まなければといいけど、と思った。
――踏んだ。
女の子は派手に転ける。前に積まれた、野菜の入った箱が倒れ、中の茄子や南瓜やピーマンがごろごろと音を立て転がる。
「痛ったあ〜」
エプロンと一緒にスカートがはだけ、純白の布が露わになる。あ、この子ドジっ子や。
瞬間、彼女は青ざめてハッと口を押さえる。
いや、押さえるとこそこちゃうやろ。この子やっぱりドジっ子や。
そしてこちらを一瞥。アケビの視線の先にある純白に気がつく、すると刹那今度は顔を赤くして、はだけたエプロンを押さえる。口と交互に押さえる。口、エプロン、エプロン、口。エプロン、エプロン、エプロン!
16歳くらい(推定)の女の子は、顔がトマトのように真っ赤になり、立ち上がった。ツカツカとアケビに近づき、涙目で顔を覗き込む。
あれ、何これ。私の純白見たんだから、責任取ってよねとかそういうやつ? え、何この棚からぼたもち。棚ぼた。棚ぼたと七夕って似てるよね。
とかいう妄想も束の間、下駄の上から、思いっきり踏まれる。痛ったあ〜。
そしてずかずかと店の奥へと戻っていく。階段を上る音がして、また、何かが倒れる音がする。悲鳴に似た何かが聴こえる。彼女は一体何をしに下りてきたのだろうか。
少女が、つかつかと店の奥へと進む。
「え、さすがに居住スペースはダメじゃない?」
少女はやはり答えない。アケビは後を追うほかない。
キシキシと音を立てながら、年季の入った急勾配の階段を上る。この階段から何度彼女は落ちたのだろう。二階に上がって、左側の襖を開けると、4畳半の和室があり、襖でさらに仕切られた先から、すすり泣く声が聞こえる。
少女が襖を開けると、すすり泣きが止み、女の子が少女を目を合わせる。2人は言葉を交わさないが、女の子はすくっと通常らしいの状態に戻る。顔見知りのようだ。
アケビは襖の陰からひょっこり顔を出し、
「なんでみんな喋らへんの」
と問う。
女の子は、ひっ、と声をあげた。
そんなびびらんでも。
彼女にとっては、もう客と店主ではないから、この問いに答える義務はない。
だが、彼女は少女を一瞥すると、全てを了解したように大きく息を一つつき、答えた。
「コトバ、ヘル」
「言葉、ヘル? 地獄? ここ、言葉の地獄なん。それは嫌や。言葉ヘヴンがいい」
「……。ゲンショウ」
手を下げるジェスチャーがつく。
「ん? 落ちる、現象? 怪奇的なやつか。やからこんなゴーストタウンになってんねや」
「……。ディクリーズ」
「なんや、ここ言葉違うんや。どおりでカタコトな訳や。え、じゃあ今まで俺、伝わらへん言語でひとりで喋ってたん。恥ずかしっ。犬に話しかける独身ぐらい恥ずかしいことしてるやん。うわあ最悪や。英語、たぶん英語やんな? 英語なあ、俺苦手なんよなあ。むかし駅前留学して、ホームシックなったくらいやからなあ。でも背に腹は代えられん。お、おほん。あー、あいあむバージニアウルフ」
「あー、めんどくさいっ」
「うわ急に喋った」
「なによバージニアウルフて」
「え、喋れるやん。バレへんと思ってボケたのに、バレてるやん。恥ずかしっ」
「あんた何で無尽蔵に喋ってんの。馬鹿なの? ここに来たってことは、もう感染してるんだから、喋ったら無くなっちゃうじゃん。って何であたしがこんな部外者のために命懸けで。お人好しがすぎたわ」
「感染? 命? へ? 」
「言葉を喋ると減るの。貯金みたいに失くなるから喋れないの。だから黙る。アーユーオーケー? 」
「なにそれ面白い設定」
「ただの映画の設定だったらどんなによかったか」
女の子は、少し涙交じりの声になって。アケビは悟る。
「え? え? 無くなるの? 言葉。え、俺喋れへんと死んでまうで。まってまって。……。あいあむノット、バージニアウルフ。アイムソーリー。……。しーゆーグッバイ! 」
アケビは逃げだした。
しかし、少女にまわりこまれてしまった。
相変わらず耳が聡い。
少女は黙って首をふる。手術後、助からなかった医師のように。
俺は身に覚えのないところで何かに感染し、何のゆかりもない場所で、どうやら命を落とすらしい。
絶望という感覚を生まれてはじめて味わったアケビは、その場にただただ立ち尽くした。