はじまり
「痛っ」
「おいバカ、あっ……」
「……」
「……」
箱いっぱいに詰められた葉物野菜を運搬する傍ら、年の頃四十ほどの、商人然とした男の右足の小指は、一家代々使用してきた桐箪笥の角を捉え、全身へ激痛を走らせた。反射的に漏れた声は、不可抗力そのものであった。額にまかれたねじり鉢巻きに、汗がじわりとにじむ。しばらくの間、呼吸をするのも忘れ、口をパクパク動かしていた。
また同時に不運であったのは、野菜の運搬を手伝ったもう一人の男である。商人然とした男とは対照的に、何年も労働から遠ざかっているようにみえる、白くほっそりとした腕をした男だ。反射の反射で発した声が、宙に浮かんで霧散する。駐輪禁止の自転車を撤去されたときのような、やりどころのない感情だけが、胸の内の同じところを何周も何周も渦巻き、この男を苦しめた。
家の外は、風が強く吹いている。
老朽化が進む家は、風で建物全体が小さく揺れ、きしきしと音を立てる。廊下には、そのきしきしだけが不穏に響き渡る。
通りには、野菜を積んできた軽トラックが一台停まっているだけで、道行く者はない。風がびゅうと吹き、建物がきしきしと鳴る。あたりの静寂が、音をより大きく感じさせる。
音は空気の波。だから静かであればあるほど、鮮明に音を捉えることができる。一滴の雫が起こす波紋でも、波風がなければ遠く遠くへ拡がっていくように、誰かが漏らした小さな叫びも、遠くの誰かにきっと伝わるのだ。風は、届くかもしれない便りをいつもどこかへと送り続けている。このびゅうと吹く風の音にも、きっとどこかの街の人々の声も混じっているはずだ。
しかし、この村だけは例外だ。
声のない、沈黙の村。
建物のきしきしという音だけが虚しく響き、二人の男は頭を抱え震える。
いつかこの恐怖から救われる日が来るのであろうか。
きしきし。キシキシ。起死起死。きしきし。
置かれた箱からレタスがひと玉、廊下の床板にごろんと転がっている。