九つ目
あなたは、「宵闇時計」の噂をご存知だろうか?
気が付くと、あなたは暗闇の中にいる。
一寸先も見えないそこを進んでいくと、突然明るくなる。そこは、まるで満天の星空の中のような絶景だという。
そして、そこには、時間からも忘れ去られたかのように、美しいままの時計があるのだとか。
その時計は、訪問者へ一つ鐘を打ち鳴らし、その時を一つ進める。
時計が一つのめぐりを終えるとどうなるのか、それを知る者は何処にも居ない。
……そんな噂だ。
その話を聞いたとき、僕は「猿夢かよ。新しさもなくて面白くない」と思った。
タイムリミットらしきものが存在し、そこに行く度に時間が進むなんて単純すぎて欠伸が出る。怖い話という体で語られたが、正直物足りなさしか残らなかった。
教えてくれたやつも同じように思っていたらしく、呆れ顔の僕を見て「だよなぁ」と呟いていた。
「あ、でもさ、そんなに綺麗なら少し見てみたい気もしねぇ?」
「……そうだな。そこは同意する」
……こんな風に思っていた時期が僕にもありました。
ああ、またか。
目を開くと何も見えないという、この状況にも慣れてしまった。これに慣れてきたというのは正直かなり不味いのだが。
彼の話のように、進んでいくと確かに絶景と呼ぶに値する世界に至る。手を伸ばせば星に届きそうだという表現は聞くが、星が目に入るのではないかという経験をした人はなかなか居ないだろう。……これは密かに自慢に思っている。
本来星は光を発さないのだから、こんなに近くにあるこれらが恐らく星ではない何かであることを抜きにしても、ここは素晴らしいと絶賛したくなる美しさだ。……本当に、これだけなら良かった。
――ゴォーン
暫しの安らぎは響いた音にかき消された。
思わず顔を上向けると、嫌でも目に入る長針が常に天井を指す文字盤。短針の位置は、九。
……九度も来れば慣れるはずだ、と苦笑い。
その時、文字盤の上部が音を立てて開いた。鳩時計の鳩が納まっている部分と言えば分かりやすいか。
驚くこともなく見守っていると、そこから黒ずくめの塊が落ちてきた。
「今回は随分とご無沙汰だったね? 寂しかったんだよ?」
「そりゃあどうも。そこまで懐かれるようなことをした覚えもないが」
「今回はどうして?」
「……ヘッドフォン外した時に馬鹿が。ああ、思い出しても腹が立つ」
「ふーん、「筆箱忘れた、死にたーい!」だっけ?」
「違うな、「筆箱忘れちゃった☆ もぉ、死にたぁい!」だった」
「……相変わらず厳しいね? そして、声真似上手い。どっから出ているのさ?」
「喉。というか声帯」
「そりゃあね……? 他から出ていた方が驚くよ」
淡々と会話を続ける僕たちの姿は端から見れば、可笑しさしか感じないだろうが、この場に存在する二人がこれで良いと思っているのだから問題ない。
「……すっかり聞き逃していたけど、ヘッドフォンで防いでいたわけか」
「そ。僕自身は楽天家の自信あるからな」
「うーん、そこは本当に羨ましいレベルなんだよね。こっちは根っからの悲観……、ペシミストなもんで」
「言い直した意味とは」
「ないね」
さらりと返されて、突っ込むのも馬鹿らしくなった。
まあ、こいつは初めてあったときからこんなヤツだったけど。人をおちょくるのが好きなくせに、妙に自信がない、とでも言えば良いのか。
「そういや、さっき「寂しかった」とかほざいていたが、僕が来れば来るほど、残りの来られる回数が減るってこと分かっているのか?」
「口悪いな、もう。……そうなんだよね、うん。そっか」
そう呟いたあと、そいつの視線が上を向いた。
別に、楽天的になったというわけではあるまい。僕は相手の視線を読む能力などないので確証はないが、星のような光を見つめていたような気がした。そして、珍しく、本当に寂しそうな表情になったように見えた。
「おい、何を諦めやがった?」
「ん? 何のコト?」
「……はあ、もういいわ」
本人は気付いていないんだろうが、こいつは何かを誤魔化すのがとても下手だ。そういう時は決まって語尾の発音が少し可笑しくなる。分かっていて、気付かない振りをする僕も人のことは言えないが。
「あれ? もう戻っちゃうの?」
「ああ、ルールはとっくに知っているからな。対策を考えないといけない。……ヘッドフォンだけじゃ駄目だな、どうしても耳が痛くなる」
「あらら、残念。俺の楽しみこれだけなのに」
「知るか。じゃあ、もう会わないことを祈っているわ」
いつもの文句を口にすると、アイツはわざとらしいほどの笑みを浮かべて言うのだ。
「またね」