レコード3
水の臭いがする。
肌寒さを覚え重い体を起こすと、不思議なことに手の感覚が無い。
徐に視線を向け、そして固まった。
手が無い。
透けている。
代わりに巻きついていた黒いネガが、次第にその輪郭を露わにしていき、やがて激しく燃え上がった。
それと同時に俺の体は衣服を残して…。
「…っ…!」
俺が反射的に飛び起きると、側に座っていたらしい柏木さんの肩がビクッと揺れた。
「……あれ、ここは?」
慌ただしく体が消えていない事を確認し、辺りを見回す。
「気づかれてよかったです。まさか倒れるとは思っていなかったので」
「柏木さん、ここは一体?」
「真白でいいです」
柏木さんが砂を払いながら立ち上るのを見て、俺もそれに続いた。
見る限り俺たちは今、遺跡のような建物の中にいるらしい。
一面に砂が積もっているそこは少し埃っぽく、光が差し込んでいる隙間からはまた新しいすなが流れてきている。
「此方です、逸れないでくださいね」
「柏木さん!一体どうやってって言うか、何で俺たちこんな所に」
「うーん、覚えていませんか?弱りましたね、あの移動方法を説明するのはちょっと私でも難儀なんですよ。それと、真白でいいんですよ?」
そうこうしてる内に、他とは明らかに異質の赤いカーテンのかかった部屋に着いた。
柏木さんはそこで立ち止まると、俺を中に入るよう促す。
「先にどうぞ」
「いや、ここはレディーファーストで…」
「気づかいは無用ですよ?」
「いやいやでも…てっ、のわっ!」
自分でも情けないと思うくらい尻込みしていた俺を、伸びてきた浅黒い何かが素早く中に引き込んだ。
「のゎーっ!ゎーっ!」
そこには絵に描いたような褐色の蛇の化け物が、目を光らせながらウネウネととぐろを巻いていた。
俺はと言うと、その蛇に軽く締め付けられてこれでも必死に絶叫しているのだが、これが俺の限界だ。
あらかた叫び終わった頃に、その巨大な蛇はゆっくりと俺を更に引き寄せて言った。
「すまないね、驚かせてしまったようで。久しぶりに誰か来たと思ったらつい興奮してしまって」
「…あーいえ。すみませんこちらこそ、なんか騒いじゃって…」
俺は反応に困りながらしどろもどろにそう答える。
口調の割に礼儀正しい巨大蛇は、そのまま俺を自分の顔の近くに下ろすと、満足げに目を細めた。
よく見るとそいつには体中に白い布と鈴が括り付けられており、少しでも動く度にシャラシャラと音を鳴らしていた。
「久しぶりですね鈴羅緒」
いつの間にか入って来ていた柏木さんがそう言うと、鈴羅緒はまた鈴を鳴らしながら嬉しそうに目を細めた。
「おぉっ!真白かい!? 嬉しくて食べてしまいたいくらいだ。こっちに来てもっとよく顔を見せてくれよ」
「いいえ、遠慮して置きます」
「そうかい?」
鈴羅緒は残念そうにやや下を向くと、再び俺の方に向き直ったので若干冷や汗が滲む。
「そんなことより、君は誰だ?見たことない人種だしそのグルグル巻きのコードはなんだい?これじゃまるでミイラ男ならぬネガ男だ」
とぐろを巻いている上に全身に布を巻きつけている奴に言われたくはないが、さっきの危ない発言の手前、俺は言葉を呑み込んだ。
「まぁ、何も言う必要は無い。全ては読み解けば分かることだ」
鈴羅緒はそう呟くように言い終えると、大きな牙で俺に巻きついた物を甘噛みした。
するとそれは浮かび上がるようにはっきりと存在を露わす。
その瞬間、脳裏にあの先程の悪夢が蘇り、とっさに俺が手を伸ばした。
だが、その手は鈴羅緒の尻尾に静かに阻まれた。
「心配は要らないよ。この程度なら害は無いはずだから」
鈴羅緒の頭上でネガが淡く燃え上がり、閃光が部屋の中を包み込む。
光が収まると、俺と柏木さんはとっさに顔を庇った腕を恐る恐る外した。
「どうです鈴羅緒。彼は一体?」
終始訳がわからない俺を置き去りにして、柏木さんが何かしたらしい鈴羅緒に少し歩み寄り尋ねる。
「成る程ね、大方検討は着いたよ」
そう口ずさみながら鈴羅緒はゆっくり金色のこれまた大きな瞳を開いた。
「真白、これは喜ばしいことだよ。今まで未開だった世界に新たな同胞が誕生した」
鈴羅緒がそう言うって意味ありげに視線を向けると、柏木さんも俺に向き直る。
そして巨大な体が首を垂れると、柏木さんもそれに続いた。
「何、何なの一体?」
「大天使の子、リピカの名の下に貴方は選ばれました。数々の非礼を謝罪致します」
何かの儀式が始まるのかと思った俺は、ガクッとこけそうになった。
まさかここで謝られるとは…。
「いや、別にいいよ。気にしてないっていうか…」
そんな暇なかったし、そう続けようとしたのを遮るかのように、柏木さんが勢いよく俺の手を握ると目を輝かせながら言った。
「では、協力してくれるんですね!」
えっ、何を?
頭の中にそう短くそんな単語が過ぎり、俺がフリーズしたのを当然のように気にする様子もなく、柏木さんは話を進めていく。
「先日、私の世界のレコードが何者かに盗まれました。事態は深刻です、一刻の猶予もありません。犯人を見つけ次第捕らえ、共に世界を支えようじゃありませんか!」
全く事情がよくわからないまま、流されていることに対し、心のどこかで警告のブザーが鳴る。
しかし、この有無を言わせね雰囲気からか。
はたまた何かのイタズラか。
俺は微妙な顔をしながらも、気づけば首を縦に振ってしまっていた。