002 針槐(ハリエンジュ)の季節
下町の小洒落たアパートの二階へと階段を上がり、昼間の熱気を開放するために、窓という窓を全て開ける。
あんなに暑い日だったけれど、思ったより早く訪れた夜が冴え冴えとした空気を運び込んできた。
(お腹は空いてるなぁ…)
悪いとはわかっているが、アルコールを先に口に含む。
酔いたい。心持ち緊張の糸をほぐす程度に。暑気払いとか、今日のこととか、色々と、色いろ……。
窓辺に寄りかかり溶けこんできた夜闇を見つめていると、ゆったりと風が動いて鼻先をくすぐり取り巻いてきた。
甘く芳しい、そして濃厚な艶を持った初夏の香気。
―――あ、
『……ニセアカシア、と言うんですよ』
―――この香り?
『甘くて、美味しいでしょう。ハリエンジュ、とも呼ばれています』
―――お詳しいんですね
『母がこの花の蜂蜜が好物ですから』
ああ、そうだ。
さっきの人が、そう言っていた。
枝や幹に鋭い棘が付いていて危険な樹なのだ、とも。
――ねぇ、そんなに尖らなくたっていいのに
ふふふと笑った真珠香に、彼も微笑んだ。
『花房ですが、一つ一つの花は可愛らしいのです』
……咲かねば蜜も採れぬ――――
花ひとつを識ることは、何と優雅なことか。
―――いいお話ができました
夕闇と暗闇の狭間、たゆとって滴る香りを体いっぱいに吸い込んだ。
一瞬。
―――ガラスと氷がぶつかる無機質な音にハッと手のひらを見ると、グラスの中はいつの間にか空になっていた。
弱い刺激は喉元を過ぎただけで何の慰めにもならなかったようだ。残存する冷気と雫になりそうな結露を、さも名残惜しそうに手で拭う。
酔いつぶれたい気もしていたが、そこまでのめり込む方でもない。頭を冷やしたいのか、酔いに任せた熱に浮かれたいのか、もう自分には分からなかった。
今日起きたことは忘れて明日をどう過ごすかと考える貴重な時間である。
同僚の熱い想いを振り切ってしまったことは、正直、大したことではない。
大したことではないのに、それなのに、この沈鬱な胸のつかえに食欲も無くする。
胸の扉が開かない息苦しさに、真珠香の表情は微苦を含んで陰色を増した。
「―――……」
恐らくは、ふとした記憶を手繰ろうとした時、部屋の机の方から何らかの連絡を受信した音が鳴る。
急がない音ではあったが、気持ちの切り替えには必要だったようだ。
コップを置くと、端末のモニターを点ける。
“明日、暇ならいつもの所で”
簡素な内容で伝わるメッセージ。
一人暗がりで頷くと、煌々とした画面を消して窓に顔を向けた。
四角い額に収まった風景の中に、軍港から飛び立ったらしい艦船が夜空へ向かおうとしているのか、明滅する警告灯が真珠香の瞳に星と映った。
◇ ◇ ◇
「―――おはよう」
真珠香が席につくより早く女の声が掛かる。
「あ……おはよ」
いかにも起き抜けに来ました、と言う顔をして猫足の椅子に座った。
午前中は蒼い陰が足元にまとわりつく。
「なぁに、その顔。洗顔くらいはしたの」
先に来て座っていたその女が、目を見開いておかしそうにする。
「幾ら休日でも、顔洗うのまでオフにできないよ…」
女は、今しがた来たのかのようにメニューを手にしていた。
「今日はマスターの特別セットがあるのよ」
「もう、ブランチな時間なんですが」
「うーん……お昼すぎまで、ゆっくりしようね。昨日は飲んだ?」
「いや……断って家で軽く」
仕草が顔の表情より早く憂鬱さを表しているのを、女は見逃さない。
「……なんかあったでしょ」
「あ……うん」
ウエイトレスが注文を取りに来たので、まずは一服する好みの茶を頼んだ。
「アタシはこれのファーストフラッシュ。こっちはアッサム。そう、いつもの。……で、言う気ある?」
「別に…隠す気もない」
「いやぁねぇ、根掘り葉掘り聞きたいわけじゃないから。あの会社を紹介したアタシにも責任あるもの。前みたいな“事件”起きたら困る。今度そういうことになったら警察沙汰にしてもいいくらい」
「色々ありがと。会社は慣れてきたし、たぶん、皆いい人だから……」
日が木陰から覗き込むように差してきたので、女は顔をしかめる。
「また男?」
真珠香は無言で頷いた。
―――もちろん断ってるよね。
それにも頷く。
「困ってる?」
「今のところは困ってない」
「それは“まだ”って事よ。前には大変な事になったんだし、それと真珠香のお母さんも心配してるかも」
真珠香の、メニューをめくる手が止まった。
「―――お母様……母に内緒なのは約束よ」
女は軽く肩をすくめる。
「言い過ぎた。でも安全に静かに暮らすのが先決なんだから」
「それは、十分分かってるんだけど……」
母の元を離れてどれくらい経ったんだろうか。
新緑も過ぎようとするこの季節に、思い出す。
思い出すには少し辛さを伴うが、小さくこぢんまりと日常を生きるには仕方のない事であった。
「大きな会社じゃ当たる確率も高くなるかと思って辞めたのにね……ってか、辞めざるを得なかったのに、そっち行ってもおかしげなことが起こるようじゃ、お母さんにも相談してもいいのに」
身の安全を思ってくれる友人にも、頭を振りかぶって己の意思を貫く。
「それは、口にするのも憚れるの知ってるくせに………母もあの家には戻らないし、私も母から離れてお互いの安全を確保したようなものだから、今更感って言うのはある。それに昨日の人は悪い人ではなくて私も気をつけるから、それと、伊桜の助けは感謝してる」
「アタシは別に―――モテる女も大変ね」
どこまで事情を知っているのか、伊桜と名を言われた女も溜息を付いた。
「モテるとか、そういう事情で収まってないからこのザマ」
真珠香は何とも情けない溜息を吐きながら気がつく。
開け放してあるガラス戸の間から、蒸した空気が吹き込んだ。
昨夜も香った花が、ここにも入ってくる。
―――ハリエンジュ。
嫌いじゃない香り……
花の名前を思い出す。
その夢見るほどに芳しい甘さに身を委ねたかった。安穏とした微睡みは、贅沢な願望だ。
こうして頬杖付いて、目を閉じたら幸せというものはやってくるのか。
―――そういえば、似た花もあるんだなぁと
『……藤、ですか』
―――はい。香りはコレに及びませんけど…何となく好きで
『良い趣味をお持ちですね』
―――いえ……好き…と言うか
今しがたの自分の言葉に戸惑う真珠香を、彼は適切な距離から見ていた。
―――ごめんなさい、違ったみたいです
気恥ずかしさから視線を下げ、言い訳する。
……どういう植物なのかご存知でしたら、どうぞお聞きにならないで
「―――ねぇ。暑くない?」
今更に窓から差し込む熱線が気になったのだろう。伊桜が促す。
「お茶が来る前に移ろうか」
直射日光を受けて目を回しそうな真珠香を見やり、テーブルを変えるために腰を浮かした。
「冷え性の日光浴って爬虫類っぽい。ね」
「やだ、せめて光合成って言って」
伊桜は持っていた雑誌片手にバッグを取り上げると、奥に居るだろうマスターかスタッフに声をかけた。
「席を移ります!」
雰囲気に似合わない声の大きさに、数人が座っていた店内で、一人だけちらりと視線を上げる。
心持ち会釈をするとガラスの天板のテーブルから、白い天板のテーブルへと横へスライドするように座った。
窓際のテーブルがガラスなのは、ここに座る女性が天板に反射する日光で日焼けしないように、と言うこの喫茶店のマスターの配慮だという。
木漏れ日の演出をしたかったのだが、もう少し木の高さが足りないのだとも。
下町の人知れず生い茂る緑塊の中には、不思議と人気が途切れる事がなく、そして不思議と混むことのない憩いの空間が存在する。
「今日のスペシャルメニュー楽しみ」
「ほんと? あのね伊桜、この間みたいな分厚いカツサンドとか微妙だったから、あんまり期待しないでおこうかな」
「それマスターに告げ口しとく」
「え、だって、あれは男の人向きのボリュームじゃない」
「それも言っとく」