失った、アールグレイ
――冷えた空気に身震いし、オレは目を覚ました。
『失った、アールグレイ』
午後1:34。少し遅めの起床だった。
どうやら昨日は窓をあけたまま眠って仕舞ったらしい。
部屋の空気が秋のそれだ。
淡い水色のカーテンが、ゆらりともう一度秋の風と遊んだ。
「…起きる、か」
誰に言うでもなくオレは呟き、ゆっくりとセミダブルの白いベッドから立ち上がった。
一人で使うには大き過ぎるそのベッドが、ギシリときしんで悲鳴をあげた。
――美沙と別れて一週間が過ぎていた。
美沙、木下美沙と初めて出会ったのは、大学のバレーボールサークルでだった。
当時三年生だったオレは、あまりサークルに顔を出さず、授業にもあまり出ないで、ぐうたらな毎日を送っていた。
六月。久しぶりに行ったサークルで、髪の長く、雪のように色の白い女の子に目がいった。
今思えば、一目惚れだったのかも知れない。
それが美沙だった。
オレからの猛アプローチに、美沙は戸惑いながらも答えてくれた。
出会ってから半年、オレ達は付き合う事になった。
「あたし、修の声好きよ」
言いながら彼女は笑った。
彼女は自分の低い鼻と笑ったときに出る片えくぼを嫌っていたが、オレはそんな彼女が好きだった。
美沙の、全てが好きだった。
――ゴウンゴウンゴウン…
隣の部屋のベランダから、洗濯機を回す音が聞こえる。
カーテンを開けると、秋のやわらかな陽射しにオレは眉をしかめた。
アパートに面する道路からは、無邪気な子供の笑い声が聞こえた。
――どこで間違えて仕舞ったのだろう、オレ達は。
美沙といれば毎日が幸せだった。
なんでもない毎日でさえ、宝物のように感じたのに。
「あたし、大学辞める」
美沙の母親が亡くなって、美沙は大学を辞め、故郷の福島に帰ることになった。
今思えば、きっと美沙のこの言葉が始まりだった。
オレは大学四年になって、就職活動もろくにせず、バイトばかりな毎日を送っていた。
それでも月に何度か、美沙は福島から夜行バスに乗ってオレの住む東京まで来てくれた。
その頃だ。二人でこのセミダブルのベッドを買ったのは。
少しして美沙は地元で就職し、こっちに来ることが少なくなっていった。
オレも美沙に遅れること数カ月、なんとなく決まった会社で働くこととなった。
季節は五月になろうとしていた。
――オレは、冷蔵庫に手をかけた。
中に入っているのは、ミネラルウォーターと腐りかけの牛乳くらいだ。
一人になってから、ろくなものを食べていない。
テーブルの上にはカップラーメンの残骸がいくつか残っている。
美沙は料理が上手かったと、思い出していた。
「別れよう」
それは突然だったのかも知れないし、前から気付いていたことなのかも知れない。
お互い就職し、会うことも連絡を取り合うことも少なくなっていった。
先に切り出したのは、オレの方だった。
「…お互いの為に、別れるのが一番だと思うんだ」
オレがそう言うと、美沙は悲しそうに笑った。
「…お互いの為なんて、嘘よ。あたしの為なんかじゃない、修は自分の為に言ったんでしょ?
…最後まで、自分が大事なのね」
そして、彼女は部屋を出て行った。
外では雨が降っていた。
そうだったのかも知れない。
オレは最後まで、一方的に彼女に気持ちを押し付けることしか出来なかった。
美沙の優しさを、オレはすくいあげることが出来なかったんだ。
――オレは、紅茶を飲む為に食器棚に手を伸ばした。
紅茶が好きなオレに、美沙が買ってくれたアールグレイ。
それを口にすることがせめてもの償いだと思った。
二つ並んだペアのマグカップ。
この部屋には想い出が多すぎる。
呼吸さえも、過去を呼び覚ます引き金となる。
――そしてオレはやっと気がついたんだ。
思わず、オレはシンクにうなだれる。
やっぱりオレは、美沙がいなきゃなんにも出来ない。
あんなに大好きだったのに。
あんなに大事にしようと決めたのに。
君がいなきゃ、オレは、
紅茶のありかさえわからないんだ。
end.