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恋一夜

作者: ななえ

 我が国の国主であり、この城の城主であり、そして彼女の父である男の討ち死にを伝えると、姫は「そうか」と言っただけだった。脇息にもたれかかり、物憂げに障子ごしの外を見ている。その様子にこれといった危機感はなく、しかし諦観もなかった。

「これで我が国も終わりじゃ」

 姫は独り言のようにつぶやいた。その声は楽しげですらあった。部屋の隅に膝をつき、顔を伏せ、自分はただその声を聞いていた。

 姫と自分の間には明確な身分の違いがあり、顔を上げることは許されない。――否、身分差以前の問題だった。言うなれば自分は姫の影のようなもの。彼女なくして自分は存在しえない。自分は一個の人ですらなかった。

 静かだった。障子の隙間から秋の名月のさやかな光がもれている。終焉がすぐそこまで迫っているとは思えなかった。明日には国主を破ったその軍がこの城へやってくるだろう。

 落城前夜だった。

 

 

 

 姫は信仰を持たぬ自分の神だった。仏だった。

 幼い時分、川の氾濫で家族を含む一切を失った。行くあても生きるすべも持たぬ自分は城下町へたどり着き、物乞いとなった。

 世の中は乱れに乱れていた。

 国主は隣国の戦に明け暮れ、領民のことなど二の次だった。農村では戦に働き盛りの男をかりだされ、慢性的な人手不足に陥っていた。重税にあえぎ、飢饉や疫病とともに無常さが蔓延していた。

 荒れた世に人心までもがすさんでいた。

 生きる気力をなくし、道端に転がる子どもになど誰も関心を払わない。皆、自分の口をまつることだけで精一杯だった。

 真夏の熱気が陽炎のように揺らめく昼下がり、死の足音を聞きながら路地に横たわっていた。

 そこには自分と同じように熱に冒された孤児の死体がそこら中にある。

 自分はもう彼らとなんら変わりないように思えた。明確な生の実感などなく、腐りかけた屍の虚ろな瞳と目を合わせていた。

 もはや何も枯れきった自分の心を動かすものはないと思っていた。

 ――姫に会うまでは。

 偶然通りかかった童女。

 人ごみの中、自然に彼女へ目が行く。見るものすべてを睥睨し、そして嘲笑うように立っていた。

 童女はこちらを見た。

 その瞬間、脳天に鮮やかな衝撃が走った。凄烈な生の衝動が稲妻のように体を走った。

 それはある意味生への渇望だったのか。それともただ単に身なりのよい童にすがれば施しのひとつでももらえると思ったのか。この人の瞳に映りたいと強烈に願った。

 しかし彼女は路傍の石でも見たかのように自分から視線を反らす。自分の姿を瞳に映しておくことさえ無駄だと言わんばかりの行動だった。

 気がついたときには這う体でその背を追っていた。無我夢中でその足首を垢だらけの手でつかんだ。

 驚いた顔をしたのは一瞬で姫は笑った。年端もいかぬ少女とは思えないほど妖艶に自分を見下ろし微笑した。

さながら仙女のごとき美しさだった。

 無臭の絶望がただよう暗い路地裏に大輪の花が咲いたようだった。

 すぐさま彼女を取り囲む屈強な武士たちに鞘つきの刀でひどく打ちすえられる。

 それでもその足首から手を離さなかった。骨が折れ、皮膚が裂けようともその足をつかみ続けた。

 刀を振りあげる武士たちの息が切れ始めた頃に姫は言った。

「こやつを城へ連れていけ」と。

 身元の不確かな乞食を城へ上げようとは狂気の沙汰だった。付き人に諫められようとも姫は頑として譲らず、最終的に自分は荷車にぞんざいに乗せられ、城へ連れていかれた。

 真夏の暑さが見せた白昼夢のような出来事だった。

 

 

 

 城の生活は決して易しいものではなかった。

 言われるままに武芸十八般を死に物狂いで体得し、その間に毒薬や人の謀り方などの知識をものにした。人を殺し、殺されかけたりもした。

 そして再び姫にまみえたとき、自分は墨染めの衣を纏った忍びの者になっていた。

 そこで初めて数年前気まぐれに拾った孤児の存在を思い出したように姫は言った。

「そなたにふさわしい役目を与えようぞ。そなたは妾のもの。妾のために生き、妾のために死ね」

 残酷でそれゆえに戦慄するほどに美しい笑みに、ただ頭を垂れ、感情を押し殺し「仰せのままに」と答えた。

 そうして自分は彼女の手足になった。

 姫に命じられるままに何でもやった。

 暗殺も拷問も、女を抱き情報をせしめることも、毒薬で赤子を殺すことも。

 命令を達成できなかったときには彼女は自分に容赦なく鞭を与えた。次に失態を犯したら命はないものと思え、といつもの美しい微笑で言った。

 彼女はこの城の影の主だった。

 それなりに将として名を馳せた父君が病に倒れ、世継の若君である姫の弟はたったの五つ。

 これを絶好の契機とみた近隣の大名が我が国を虎視眈々と狙っていた。

 状況が姫をただの姫君でいることを許さなかった。

 表では目もくらむような豪華な打ち掛けをまとって微笑んでいても、裏では忍びを動かし他国の情勢をさぐり、戦をしかける機会を伺っていた。その一方で城内の佞臣を秘密裏に処分した。

 しかも女である姫が表立って動いては家臣の反発を招こう、と彼女は従兄を隠れ蓑にしていた。美しく賢い姫に従兄君は首ったけだった。姫は自身に従順な従兄君を利用し、自身の思っていることは全部従兄君から言わせた。小娘が言うよりも家臣が素直に従うと踏んだからだ。

 自分はといえば、ただ姫の言うことをまっとうするだった。

 忍者などただの道具だ。代わりがいくらでもきき、不都合になれば真っ先に切り捨てられる存在だった。

 ただただ人を殺し、騙し、血をまとったまま姫の御前に膝をつき――その繰り返しだった。

 いつだって自分の前に立つ姫は狂おしいまでに美しかった。生の感触を植えつけられたあの日から、自分は彼女のために生きている。彼女に捨てられることが一番恐ろしかった。

 任務を達成すれば姫に会える。声をかけることも、その姿を直視することもかなわない。労いの言葉すら聞いたことはない。それでも彼女という圧倒的な存在を感じていたかった。

 そのために修羅にも夜叉にもなり人を殺した。ただそれだけのために。

 

 

 

 あんなにも姫に入れあげていた従兄君が裏切った。正確には従兄君の一族が裏切ったというべきだろう。

 下剋上の時代、肉親同士が刃を向けあうことなど珍しくはない。むしろそれができないようではこの戦国の世を生き抜いてはいけない。

 従兄君の一族はしょせんは傍流だ。いつか主家に成り代わろうと野心を抱いていたのだ。

 あっという間に一族は崩れた。姫がいくら聡明であっても、陣頭で指揮をとることはできない。

 病をおして父君が出陣したが、すでにそんなことでどうにもなるような状況ではなかった。

 この城はもう滅亡を待つのみになっていた。

 

 

 

 冷たい秋風が襖から吹きこんだ。

 その風が彼女の華奢な体を冷やしていると知っていた。知っていたところでどうにもならなかった。

 自分は乞食で忍びで、人の枠からは外れている。彼女に触れることはおろか、用が済めばさっさとこの場から消えなくてはならない。

 人から忌避される自分は人には非ず。姫の目に映ることさえ汚らわしい。

「もう用はない。下がっておれ」

 いつもと変わらない玲瓏とした声。何度この声に残虐なことを命じられてきただろう。

 毎回、何も考えることなくその言葉を受け入れてきた。考えることは忍びごときに許される感情ではなかった。

 しかし、今は骨の髄まで染みこんだその精神を捨てた。その命に逆らった。

 その場から動かなかった。

「下がっておれと言うておる」

 姫は閉じた扇をこちらへ向かって振った。出てけということだ。

 しかしそれにも従わなかった。

 今夜、すべてを懸けてやらねばならぬことがある。

 兵力差は大きい。明日は負け戦だと誰もが信じて疑わなかった。城を枕に討ち死にする覚悟でいた。

 これが最後の夜だとわかっていた。

 畳に額がすりつけるようにさらに深く平伏する。

「畏れながら申し上げます」

 任務以外で声を出すのは何年ぶりか。夜気が震えた。

 下賤の身である自分が、姫に直接声をかけるとは、恐ろしく無礼なことであった。その場で手討ちにされても文句は言えない。

 手慰みにもてあそんでいた姫の扇がパチンッと閉じられた。

「忍びの分際で妾に物申すか。面白い、申してみよ」

 姫は笑っているのであろう。表情に残虐さと凄惨さを兼ね備え、より輝く瞳で笑みを浮かべているだろう。

 この世の最下層にまで堕ちた自分には、その笑顔がまぶしくてしかたなかった。

 いくら残忍なことを命じようとも、決して汚れはしないその瞳。

 気高きその瞳が明日にはなくなるのだ。初めから自分を魅了してやまない瞳が――。

「お逃げください。私が貴女様をこの命に代えましてもお守りいたします」

 ですからどうか、どうかと土下座しながら血を吐く勢いで懇願した。

 生涯でたった一度きり、感情を捨て去った自分があなたに生き延びて欲しいと願う。

 姫は神にも見放されたこの身に生きる目的をくれた。

 それがたとえ過酷なものであれ自分は幸せだった。あなたの側にいれて幸せだった。

 この生きながら死しているような世の中で、あなたに自分は生かされてきた。

 あなたの存在に救われてきた。

 身勝手でも身分違いでもいい。あなたをこの死地から救うためなら何でもする。

 そのためなら我が身など惜しくはない。

 しばらくの間、姫は無言を通した。

 空気が動く。衣擦れの音がして、姫が上座から下りてきたのだと知った。

 打ち掛けの豪華な金糸が視界の端で光った。姫が目の前に立っている。

「……面を上げい」

 言われたままに顔を上げた。こんなにも間近で姫を見るのは、あの幼き日以来のことだった。

 姫の姿を後ろから月光が照らしていた。その姿はたとえようもなく美しく、呼吸すら一瞬にして奪われた。

 姫が腕を振り上げた。扇が空を切る音がして、次の瞬間それで頬を叩かれた。

 何度も何度も繰り返し頬をはられる。口内に血の味が滲んだ。

 血が一滴、二滴と畳に落ちた。

 打撃が止み、思わず下に垂れそうな頭を姫の扇が顎から持ち上げる。

 血が喉を逆流する嫌な感覚に奥歯を噛んだ。

「そなたは妾のもの。誰が妾の許しも得ずに命を投げだして良いと申した」

 その言葉に目を見開いた。

「生きよ。敵に背を向けても生き延びよ。そなたのような卑しき身にはそれが似合いじゃ」

 そして一息おいた後「妾は行かぬ」と姫は今まで見せたこともないような穏やかな顔で薄く笑んだ。

 失望に目の前が暗くなった。

 今、逃げなければ姫に先はない。城と命運をともにするか、敵将の慰みものになるしかない。

「姫! 私の生涯ただ一度のお願いにございます。どうか、どうかッ!!」

 阿鼻叫喚の戦場で、死を覚悟したときですらこんなに必死ではなかった。死に物狂いで思いつく限りの言葉を並べた。

 私の命など畜生にも劣りましょう。お家のためにも貴女様がご存命である方がどんなに益になりましょうか。

 枯渇したはずの熱い感情が次々と沸いて出た。激情を詭弁にくるみ、激しく言い募った。

 あまりにももろい詭弁だった。千の将が斃れ、万の民が死そうとも、姫一人の生を望む自分がいた。

 お家など大義名分など姫の命の前には塵芥にすぎなかった。

 是、とその答えだけを祈り、一心に姫を見上げた。

 しかし姫は傲慢に笑った。

「嫌じゃ」

 他愛もないわがままを言うような無邪気さで、自分を拒んだ。

 唇がわなないた。この世の光をすべて失ったかのような喪失感に、自分の中の何かが死んだ。

 ともに逝くことすら許されない。

 悔しさに泣いた。自分は手足。心の臓たるあなたなくしてどうして動けようか。

 多くは望まない。あなたがただそこにいてくれるだけでいい。他には何も望まない。

 そのただ一つの願いさえも無情に消されようとしていた。

 恥も外聞もなく、姫にすがりむせび泣いた。姫はただそれを許した。

 幾重にも重なった衣の下に確かな熱を持つ肉体の存在を感じた。

 明日には消えるぬくもり。夢にまでみたあなたが今、この腕の中にあるというのに――……。

 泥土にまみれ、血を浴び、貧困の衣を纏ってもなお消えない己のただ唯一の希望。

 希望を失った後、一体どうやって生きていけばいいのか。

 いっそのことともに朽ち果てたかった。しかしそれすら許されず、無限の悲しみに気が触れそうだった。

 心の奥底で本当は姫を連れて逃げることなどできないとわかっていた。

 どこへ逃げても敵はすぐさま姫に追っ手をかけるだろう。見つけた者に莫大な報奨を約束し、領民すべてを味方とするのだ。

 貧しい民たちが生活の糧を得るためにいとも簡単に昨日までの主を売るのは目に見えていた。

 それでもなお、周りがすべて敵となろうとも姫と逃げたかった。奈落の底へ落ちたとしても構わなかった。

「赤子のように泣きおって……」

 困ったような呆れたような顔をして、姫が自分の頭をなでた。

 その手のひらは慈しみにあふれていて、自分には分不相応のように思えた。

 自分は道具のように切って捨てられる存在。代わりなどいくらでもいる。常日頃から姫からもそう言い聞かされていた。

 だが、今宵の姫の行いはそれを忘れさせるものだった。彼女から与えられる感情は道具に対する愛着などではない。

 まぎれもなく生身の人へ向けられるものだった。

 どうして最後まで残忍なままでいてくれなかったのか。自分の立場を忘れる。食いしばった歯の間から、ずっと心の最奥に封をして隠してきた気持ちが漏れる。

 最後の一夜。姫の心にも自分の心にもその思いがあった。

「貴女様を……貴女様をお慕い申しております……!」

 運命に観念するように言葉を吐いた。

 人は笑うだろう。忍び風情が姫君に思いを寄せるなど恐れ多くて冗談にすらならない。

 膝で立ち、姫を見上げながら悲しさに悔しさに腹立たしさに、人くさい雑多な感情に涙を流す自分を姫は苦笑しながら見下げた。

「そなたは連れていかぬ」

 そして、姫もまた運命に膝をつくかのように言った。

「愛しいから連れていかぬ」

 秋風にさらわれるようなつぶやきだった。

 最後の最後に自分たちはただひとつの恋を手に入れた。

 今、このときでないとうちあけることを許されない恋だった。

 傷ひとつない白い手が両頬を包む。

「そなたの生をまっとうせよ。それが最後の命じゃ」

 自分の心に楔を打ちこみ、姫は逝く。

「仰せのままに。それが最後の命ならば」

 呪わしいほど、従順を旨とする忍びの本能のままに答えた。

 逆らいたくとも長年の習性がそれを許さなかった。

 夜が明ける。

 

 

 

 

 さら地になった城跡を秋風が吹き抜ける。その地に自分は立っていた。

 あなたは驚くでしょう。

 この自分が武器を捨て、鍬を握るようになった。己の育てた作物が食事の膳に並ぶ。

 路傍の花を目に留めるようになった。夕方に吹く風に季節の移り変わりを感じた。

 戦乱が収まり、世の中はずっと暮らしやすくなった。

 かつて闇を駆けた自分は、あの夜に心を取り戻し、今は太陽の下で生きている。

 貧しいが満ち足りた毎日。

 だが、秋の見事な月を見るたびに心が痛む。衝動に駆られ、あなたの後を追おうとも、武芸の腕などもうとうに錆つき自刃も上手くできやしない。

 だから生きる。

 精一杯自らの生を生き抜いた後にあなたの元へと戻ると信じて。

 日の当たる道を今日も歩く。

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