手だとばかり思っていた物が……
怪談ショートストーリー
蒸し暑い夏夜、蝉の静寂とともに網戸へ歩み寄る不気味な影。不審者の手かと思われたその正体は、蝉の鳴き声を模した巨大な異形の百足だった——。日常が恐怖へと変貌する一瞬を描いたホラー短編です。
蒸し暑い部屋の畳に寝そべり、ぼんやりと天井を眺めていた。耳の奥を刺す蝉の合唱が急にやみ、静寂が満ちる。
網戸の外で、カサカサと小さく乾いた音がした。風で葉っぱでも揺れたのだろう。そう思おうとしたが、音は網戸を指先でなぞるように、下から上へとゆっくり移動していく。
カサ、カサ……。
気になって視線を向けると、網戸の向こうに黒い影がへばりついていた。暗がりで見えにくいが、五本の細い枝のようなものが網目に食い込み、蠢いている。
「誰だ?」
手だっとばかり思っていた。不審者か、誰かの悪ふざけだと。
私は立ち上がり、網戸に顔を近づけた。しかし、近づくにつれてその音の異質さに気づく。それは肉の擦れる音ではなく、硬い甲殻が網目に引っかかる音だった。
影が月光に照らされる。
それは手などではなく、巨大な百足の脚だった。そしてその上には、人間の頭ほどもある異様な虫の本体が、じっとこちらを見下ろしていた。
ひゅっと息が詰まる。次の瞬間、夜の闇を裂くように、その化け物は耳を聾するほどの甲高い夏蝉の鳴き声を響かせた。
本作をお読みいただき、ありがとうございます。
夏の風物詩である「蝉の鳴き声」がふと途切れた瞬間の、あの独特な静けさと胸の騒ぎ。そこから着想を得て描いた短編ホラーです。
暗闇のなかで「見間違い」だと思いたい気持ちが、かえって恐怖の正体へ引き寄せられていく焦燥感を楽しんでいただけたら幸いです。蒸し暑い夏の夜、ふと網戸の外に違和感を覚えたときは、どうぞご注意ください。




