第1話 レオの決意
ベル歴995年、火の月22日。
「虚飾」のマタド・ク・シアによるクーデター未遂事件から、一ヶ月が過ぎようとしていた。
次元の狭間に存在する「箱庭」。その一角にある工房で、レオ・クロースは鏡の前に立っていた。
彼が袖を通したのは、完成したばかりの全身装備だ。
全体的にゆったりとしたグレーのオーバーサイズコートに、無骨な革ベルトや真鍮の歯車の意匠があしらわれたスチームパンク風の装いである。首元には、防風と魔力視認を補助する丸いレンズのゴーグルが掛けられていた。
レオは自身の姿を確認し、満足げに頷く。
工房の扉がノックされ、一人の青年が入室してくる。黒髪に深紫の瞳。執事服を完璧に着こなす彼は、ヒト化した聖猫ノワル――ノイアーであった。
「おや。完成なさいましたか、レオ様」
ノイアーが恭しく一礼し、主の元へ歩み寄る。レオは振り返り、新しいコートの襟元を整えながら、ニカッと笑った。
「ああ、ノイアー。ようやく調整が終わったんだ。どうだ?」
「拝見するに、随分と厚手のようですが……今の季節には少々暑すぎるかと」
ノイアーの懸念に対し、レオは苦笑して首を横に振る。
「はは、確かに見た目は暑苦しそうだよな。でも心配ない。裏地に体温調節の魔術陣を縫い込んであるから、雪山でも砂漠でも、常に快適な温度が保たれる」
「なるほど。見かけによらず、機能的というわけですか」
「それに、強度はこの子のお墨付きだしな」
レオがそう言うと、彼の頭上の空間から、一本の白い糸がするりと垂れてきた。
糸の先には、手のひらサイズの黒い蜘蛛がぶら下がっている。闇の聖獣アラネアの分身体、キュートだ。
キュートは器用に糸を操り、レオの肩に着地すると、つぶらな瞳を輝かせて身体を揺すった。
「えっへん!ボクの糸だから最強だッチュ!」
キュートが得意げに前足を上げる。この装備の素材は、全てキュートが吐き出した聖獣の糸で紡がれている。鋼鉄をも凌ぐ物理防御力に加え、魔法に対する高い耐性を持つその糸は、レオにとって理想的な素材だった。
「左様でございましたか。聖獣アラネアの糸であれば、物理・魔法防御共に申し分ございませんね」
ノイアーが納得したように頷く。レオは腰に下げた銀色の愛剣に手を添え、ふと真面目な表情を浮かべた。
「……装備を一新したのは、守りを固めるためだけじゃない」
レオの声色に宿る静かな決意を感じ取り、ノイアーが姿勢を正す。
先の戦いで勝利こそしたが、レオは自身の限界も痛感していた。
彼には英雄ショウの記憶と知識がある。しかし、現代の彼の肉体は聖霊王ベル・ラシルの加護を持たない〝ただのヒト〟であり、魔法を行使できるのは、固有魔法を除けば、第五位階までに制限されている。
「第五位階止まりの魔法と、身体能力頼みの戦闘。……それだけじゃ、この先に出会う大罪のマオンたちには届かない場面が出てくると思うんだ」
マオンは第十位階、あるいはそれ以上の現象を引き起こす存在だ。今のままでは手札が足りない。
「だから……俺自身にも、聖霊の加護が必要だと思ってね」
そのためには、世界を守護する八柱の大聖霊に認められ、その証である【八大聖霊の宝球】を集めなければならない。それが、キュートが共有してくれた「ベル・ラシルに会うための試練」だった。
レオは顔を上げ、工房の奥にあるラックへと歩み寄る。
「試練……。行くことにはなるけど、その前に。俺だけが新しい装備ってわけにはいかないからな」
レオが覆い布を取り払う。そこに並んでいたのは、レオのコートと同様の意匠が凝らされた、八着の真新しい衣装だった。
いずれも聖獣アラネアの糸で織られた生地をベースに、真鍮の歯車の意匠や無骨なベルト、革紐があしらわれたスチームパンク様式の装備である。
ノイアーのための紫と漆黒のジャケット、赤髪のルジュのための深紅と漆黒の衣装、幼いマロンのための焦げ茶色と漆黒のジャケットなどが並ぶ中、レオは一際目を引く白と黒の衣装に手を触れた。
「それは……クラルテさんの分でございますね」
「ああ。あいつの動きに合わせて調整してある」
それは、白を基調としつつも、褐色の革ベルトやバックルが随所にあしらわれた活動的なコートだった。インナーには動きやすさを重視した黒の戦闘衣とショートパンツ、そして膝を守るプロテクター付きのブーツが合わせられている。男勝りな彼女が、格闘戦を行う際にも邪魔にならないよう計算され尽くしたデザインだ。
「わぁ……!これ、全部ボクの糸だッチュ!?」
キュートがラックの上を走り回り、興奮気味に声を上げる。
「ああ。キュートが頑張ってくれたおかげで、全員分の素材が確保できたよ」
レオは並んだ衣装を満足げに見渡した。
「これらは全て、ドレッサールームに移しておこう。みんなには、好きな時に持っていくように伝えておく」
レオはゴーグルを外し、コートを脱ぎながらノイアーに告げた。
「さて、着替えて家に帰るか。父さんたちに、これからのことを話さないとな」
アイゼン王都「エルンツ」、貴族街の外れ。
クロース侯爵邸のリビングルームは、夕食後の穏やかな空気に包まれ、芳醇なコーヒーの香りが漂う。
ゆったりとしたソファには、レオと両親、兄のマルクスに加え、祖父母であるマルセルとヘルガの姿もあった。
「――そうか。行くのか、レオ」
コーヒーを片手に、父オスヴァルト・クロースが静かに問う。その隣には、元第一王女である母エリーザが座り、レオを優しい眼差しで見つめていた。
「ああ。今の俺には、決定的に足りないものがあるからね」
レオはラフなシャツ姿で、真っ直ぐに家族を見据えた。
「八大罪のマオン……。あいつらと渡り合うには、俺自身が強くなって、対等な土俵に立つ必要がある。最初の目的地は、南のバーディア聖王国。光の大聖霊ゲレオール様の試練からだね」
レオの決意を聞き、場に沈黙が落ちる。口火を切ったのは、母エリーザだった。
「レオ」
彼女はカップをソーサーに置き、息子に向き直った。その瞳は、かつて「氷の美姫」と呼ばれた頃の鋭さを帯びているが、底には深い慈愛が揺らめいている。
「貴方がそう決めたのなら、私は止めないわ。……でもね、一つだけ約束してちょうだい」
エリーザがレオの手を取り、強く握りしめた。
「一人で全てを背負い込まないで」
レオが息を呑む。エリーザの言葉は、まるで彼の魂の奥底――かつて孤独に世界を救い、誰にも知られずに逝った英雄ショウの記憶――に語りかけているようだった。
「貴方は強いわ。誰よりも優しくて、責任感が強い。だからこそ、自分の運命を受け入れた。そしてレオ。貴方は貴方自身の命を天秤にかけて、平気で他人を救おうとする」
クーデターの際もそうだった。レオは家族を守るため、王国を守るため、自ら危険に飛び込んだ。
「でもね、レオ。貴方はもう『一人』じゃないのよ。ノワル様たち聖猫もいる。父さんも、マルクスも、お祖父様もお祖母様も……そして私だっているわ」
エリーザの手の温もりが、レオの心に染み渡る。
「英雄になんてならなくていい。ただ、生きて帰ってきなさい。……いいわね?」
その言葉は、母としての切実な願いであり、絶対的な命令でもあった。
レオは母の瞳を見つめ返し、力強く頷いた。
「ああ……約束するよ、母さん」
レオの答えを聞き、エリーザはようやく安堵の笑みを浮かべた。その表情は、いつもの優しい母のものに戻っていた。
「カッカッカッ、湿っぽい話はそこまでだ」
空気を変えるように笑い声をあげたのは、祖父のマルセルだ。元王宮魔道具開発局局長であり、国王の悪友でもある彼は、楽しげにグラスを傾けた。
「若い時分の旅は金貨を積んででもしろと言うからな。……ワシらも、お前を見習ってそろそろ腰を上げる頃合いか」
「え?じいちゃんたち、もう戻るのか?北のディアマン領へ?」
レオが驚いて尋ねると、マルセルはニヤリと笑い、首を横に振った。
「いや。北ではない。ワシらが向かうのは西だ」
「西……?」
「ああ。先のクーデター騒ぎで、宰相だったクプファー公爵家がお取り潰しになってな」
マルセルが声を低め、事の顛末を語り始めた。
「当主アルブレヒトは、フリッツ伯爵の背後にいた『虚飾』に加担し、反逆の一端を担った。……だが、嫡男のヨハネスは立派だったよ。『父を止められなかったのは私にも責がある』とし、自ら爵位の放棄を申し出たのだ」
ヨハネス・クプファー。魔法師団第二部隊隊長を務める、実直な男だ。
「彼の実績と人柄を考慮し、魔法師団への在籍は認められた。長女エルザは既に他家へ降嫁しており、罪に問われることはない。そして妻のイネスは……」
マルセルが一瞬、目を伏せる。
「アルブレヒトの単独犯だったゆえ罪には問われなかったが、自ら悔悛を望み、ドンクルハイツ大聖堂へ修道入りすることになった」
数百年もの長きにわたり、王国の影として支えてきた「影の王族」。その歴史に、終止符が打たれたのだ。
「結果として、西の国境都市は空白地帯となった。そこが手薄になるわけにはいかん。そこで、ニック(国王)からの頼みでな。クロース侯爵家が、その地を譲り受けることになった」
「え?そうだったの?」
レオが目を見開いた。すると、オスヴァルトが頭をかきながら苦笑する。
「あれ?云ってなかったか?」
「訊いてないよ。ったく、そういうことはもっと早く伝えてもらいたいもんだよ」
「すまんすまん。まあ、そういうこった。まあ、実質西の領は親父の采配でこれからやっていくから、俺としてはそこまで気にしてなかったってのもある」
「責任感持ってくれよ。兄貴がクロース家を継げば、いずれ、自分で納める日も来るんだろうからさ。っていうか、まあ、そういうことだったのね」
「カッカッカッ。代官として街を治めるだけじゃないぞ。広大な土地を使って、新たな工房や大規模な実験施設を建設中でな!王都では手狭だったあんな実験やこんな実験も、あそこなら思う存分試せるわい!」
マルセルは少年のように目を輝かせ、身振り手振りで語り始めた。
「ほどほどにな、親父」
暴走しそうな父親に、オスヴァルトが呆れたように釘を刺す。だが、その表情はどこか誇らしげでもあった。
「それで、レオ。お前自身の準備の方は万全なのか?」
オスヴァルトが話題を戻し、身を乗り出した。
「ああ。準備はほぼ整ってるよ」
「それで、バーディアへはどうやって行くつもりだ?箱庭か?」
「いや、中央駅から寝台マナトレインで行こうと思ってる」
その言葉に、オスヴァルトと兄マルクスが顔を見合わせ、苦笑した。
「〝オーレバード〟か……。相変わらずだな、お前は。箱庭の転移という便利なものがあるのに、わざわざ列車とは」
オスヴァルトが呆れたように言うが、レオは真剣な眼差しで父を見つめた。
「父さん。八英雄の国々を繋ぐ誘導マナレールを主導して敷設したのは、クロース家だろ」
レオの言葉に、オスヴァルトが無精髭を撫でながら深く頷く。
「そうだな。頑迷なエルフが治めるセルバンを除き、八英雄の国のうち七か国を結ぶ大動脈を作り上げたのは、俺たちクロース家の誇りだ」
オスヴァルトの瞳に、職人としての矜持が宿る。
「なら、その誇りを肌で感じながら旅をしたいんだ。ご先祖たちが心血を注いだ技術と、父さんの新たな改良による結晶に乗ってね」
レオの言葉を聞き、オスヴァルトは破顔した。
「……フッ、言うようになったじゃねえか。良いだろう、その乗り心地を存分に評価してくれ」
「ああ、楽しみにしてる」
レオは深く頷いた。翌日には祖父母が西へ発ち、レオの出発はその一週間後。新たな試練へ向かうための準備期間が、静かに始まった。




