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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第1章 光輝ヲ往ク

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第10話 鏡像座の真実

 重厚な扉が音もなく開かれると、一行は迷うことなく次なる空間へと足を踏み入れた。


 その瞬間、異様な浮遊感が彼らを襲う。


 そこは、上下左右の概念が消失した空間だった。


 床も天井も、壁という壁もすべてが鏡。合わせ鏡の無限回廊だ。だが、ただの鏡ではない。


 映り込んだ自分たちの像が、ほんの僅かだが遅れて動く。あるいは、勝手に笑う。


 無数の虚像が、実像である彼らの精神に「お前が偽物だ」と囁きかけてくるような、強烈な圧迫感があった。


「これは……」


 アーヴィンが呻き、こめかみを押さえる。光の加護を持つ王でさえ、この空間の異常性には顔をしかめた。


「精神干渉系の結界ですね。この鏡、映した対象のマナ情報を複製しようとしています。長居すれば、魂ごと鏡の中に吸い込まれかねないかも」


 レオはゴーグル越しに空間を解析し、冷や汗を流す。


 ただの迷路ではない。ここは「自己の確立」を試す精神汚染の壺だ。


 視界の至る所に、自分と、シルビアと、アーヴィンと、ノイアーの虚像が無数に並んでいる。一歩動けば、数千の自分が同時に動き、視覚情報が脳の処理能力を焼き切ろうと雪崩れ込んでくる。


「出口を探せ、というわけでしょうが……これだけ偽物の情報ノイズを見せられれば、脳が処理落ちして本物を見失う。単純ですが、人間の視覚情報処理のバグを突いた、凶悪な構造ですね」


 アーヴィンが優雅に指先を動かし、指揮者のように空間を探る。光魔法で「本物の出口」からのマナの風を探知しようとしたのだ。


 だが、王はすぐに首を横に振った。


「駄目だね。光のマナが乱反射しすぎていて、私の探知能力も使い物にならない。『木を隠すなら森の中』と言うが、これほどの『光の暴風』の中では、羅針盤も狂うというものだ」


 時間経過と共に、鏡の中の虚像たちが実体感を増していく。


 シルビアが小さく息を呑んだ。彼女の目の前の鏡に映るシルビアが、本体とは違う方向を向き、手招きをしていたからだ。


「……レオさん。急ぎましょう。わたくしの中の聖霊が、この空間のマナを『精神を蝕む猛毒』だと警告しています。このままでは、自我が鏡に溶かされてしまいます」

「ええ。悠長に謎解きをしている時間はなさそうだ」


 レオは背後の影に声をかける。


「ノワル。この部屋の輝きを、闇で塗りつぶしてくれるか?」

「承知いたしました」


 黒衣の従者は主の意図を瞬時に理解し、一歩前へ出た。


 第四位階闇属性防御魔法――≪シャードブル≫。


 本来は敵の攻撃を防ぐために展開する「闇の霧」を、ノイアーは部屋全体へと爆発的に拡散させた。


 充満した漆黒の粒子が、鏡という鏡に張り付き、乱反射していた光のマナを次々と飲み込み、遮断していく。


 だが、聖域の鏡も抵抗する。闇に塗りつぶされまいと、鏡面が激しく発光し、ノイアーの闇を灼き払おうと抗う。


 空間が軋むような音が響く。光と闇、二つの属性の衝突による余波が、ビリビリと肌を刺す。


「なかなかに、小賢しいですね」


 ノイアーの瞳が冷徹に細められる。彼はさらに出力を上げ、聖域の輝きを強引にねじ伏せにかかった。


 闇の大聖霊の眷属としての力量が試されているのを感じ、ノイアーはこの場のギミックを力尽くで黙らせていく。


 数秒の拮抗の末、光が折れた。


 無限にあった虚像が闇に塗りつぶされ、視界が整理されていく中で――たった一点だけ、闇に呑まれず、しかし鏡のような反射もせず、確かな実存を持って鎮座する場所があった。


「ありがとう、ノワル。……見つけました。あそこだけ、空間の歪みが違います」


 レオが指差す。ノイアーの闇が道を作るように開け、その先にある「本物の扉」へのルートを示した。


「強引だが、最適解だ。光を消せば、影も消える。理に適っているね」


 アーヴィンが感心したように頷き、荒い息を吐くノイアーを労うように視線を送る。この規模の聖域結界を、個人のマナで塗りつぶすなど、並の術者では即座にマナ枯渇を起こしていただろう。


「行きます」


 レオは迷いなく歩き出す。鏡の呪縛が解けた今、そこはただの暗い部屋だ。


 一行が本物の扉に到達し、ノブに手をかける。重い音と共に扉が開くと同時に、レオは肌を刺していた魔力的な圧力が、潮が引くように霧散していくのを感じた。

 

 振り返れば、あれほど狂おしく乱反射していた光が落ち着き、ただの静謐な鏡の部屋へと戻っている。


「……第1層の時と同じですね。攻撃的なマナの波長が消失しました」


 レオはゴーグル越しに室内のマナ残滓を確認し、息を吐く。


「どうやら、ギミックを解いたことで『待機状態』に移行したようです。ここなら安全でしょう」


 だが、開いた扉の隙間からは、次なる第3層の気配が微かに漏れ出していた。


 レオは懐中時計を取り出し、時刻を確認すると、パタンと蓋を閉じて振り返った。


「今日はこれくらいにしておきますか。精神の摩耗は、肉体の疲労よりも自覚しにくい。特に今の部屋の精神汚染は、毒のように後から効いてくる類のものだ」


 そう言うと、レオは慣れた手つきで空間に手を差し伸べ、≪クロノ・ボックス≫から掌サイズの白い立方体を取り出した。


 鏡の床に置き、指先でマナを流し込む。表面に刻まれたルーン文字が淡く輝き、複雑な駆動音と共に急速に展開・膨張していく。


 数秒後。鏡の部屋の中央に、見慣れた無機質な物体――一辺3メートルほどの巨大な白い立方体が鎮座した。


「やれやれ。まさか、この無骨な『白い箱』を見て、こうも安心するとはね」


 アーヴィンが苦笑しながらも、どこか嬉しそうに肩の力を抜く。


 外見はただの巨大な豆腐のような箱だが、その中身が極上の安息空間であることを彼らは知っている。


「ええ。最高のパフォーマンスには、最高の休息がセットですから」


 レオが懐中時計を認証キーとしてかざすと、立方体の壁面がスライドし、入り口が現れた 中から漂ってくるのは、空調の効いた快適な空気と、ほのかな紅茶の香り。  それに続いて入ったシルビアが、玄関でブーツを脱ぎながら、ふぅ、と深い溜息をついた。


「助かりましたわ……。もう鏡はこりごりです。自分の顔ばかり見せられて、気が狂うかと思いました」

「同感ですね。今夜は鏡のない部屋で、ゆっくりお茶でも飲みましょう」


 外見の狭さとは裏腹に広大に拡張されたリビングへ通じると、すでに先回りしていたノイアーが、人数分のカップを用意して待っていた。


 何も言わずとも、主とゲストが何を求めているかを察する完璧な給仕。


「お疲れ様でございます、皆様」

「ああ、ありがとうノワル」


 レオに続き、アーヴィンもソファに身を沈め、出された紅茶の香りを深く吸い込む。


 第1層は屈折、第2層は反射。光の聖域が次に見せる顔が何であれ、この安息があれば万全で挑める。


 鏡の迷宮の中に置かれた、異質な白い箱。その内側にだけ許された安息が、再び彼らを包み込んでいた。

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