第9話 旅の流儀と鏡の回廊
ベル歴995年、火の月34日。午前7時00分。
外の世界――『光の回廊』には陽の光も夜の闇も存在しない。あるのは、永遠に降り注ぐ純白の輝きのみである。
だが、ここ【クロノ・ヴィラ】のリビングに設置されたアンティーク調の置時計は、正確に「朝」の訪れを告げていた。
「よく眠れましたわ」
寝室から戻ったシルビアが、軽く伸びをしながらリビングのソファに身を沈める。
昨夜の入浴と、空調によって最適化された室温、そして高級ホテルにも引けを取らない寝具のおかげで、昨日の疲労は完全に払拭されているようだった。
「それは何よりです」
レオは対面のソファで、淹れたばかりのモーニングティーを手に微笑む。その背後には、燕尾服を完璧に着こなした黒髪の執事――ヒト化した姿のノイアーが、音もなく控えていた。
足首まで埋まりそうな毛足の長い絨毯、柔らかな間接照明。過酷な試練の最中にあるとは到底思えない、優雅な空気がそこには流れていた。
「それにしても、見事なものだね」
アーヴィンもまた、身支度を整えてリラックスした様子で、ノイアーから受け取ったカップを傾ける。
「空間拡張に環境維持、それにこの内装の設え……。単なる避難所としてなら、もっと簡素でも機能は足りるはずだ。それをここまで徹底するとは、そういうのが趣味なのかい?」
アーヴィンの感嘆の声に、レオはカップをソーサーに置き、少し照れくさそうに首を横に振った。
「いえ、陛下。これは趣味というより……私の、旅に対するささやかな拘りのようなものです」
「拘り?」
「ええ。――旅とは、優雅でありたい」
レオは、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。
一見すれば、金持ちの道楽、あるいは貴族の坊ちゃんの世迷い言に聞こえるかもしれない。だが、レオの瞳に宿るのは、享楽的な光ではなく、ある種の覚悟に似た静かな理知だった。
「以前、ここへ来る列車でもノワルに話しましたが、いつ何が起こるかわからない明日だからこそ、今日という時間を最大限に尊重すべきだと考えています」
レオの脳裏には、かつて世界を救うために走り抜け、その過程を楽しむ余裕などなかった「ショウ」の記憶と、3年前に日常を奪われた経験が微かに過る。
「良い宿に泊まり、良い食事をし、最高の移動手段を使う。一見無駄な贅沢に見えるかもしれませんが、今日を悔いなく過ごすことが、明日へ立ち向かう活力になると、私は信じているのです」
レオの言葉に、アーヴィンは少しの間きょとんとした後、破顔した。
「ははは。なるほど、一本取られたな。王として国の未来を案じるあまり、私自身が『今日』を疎かにしていたかもしれない」
アーヴィンは楽しげにカップを掲げる。
「たしかに。不確かな明日に怯えて今日を粗末にするのは、それこそ敗北だ。……良い流儀だね、レオ君」
「恐縮です」
レオが頭を下げると、シルビアも「ふふっ」と上品に笑った。
「さて、英気も養えました。そろそろ次へ向かいましょうか」
レオがカップを置くと、ノイアーが流れるような所作で空いた食器を回収し始めた。
「次は回廊の形状から察するに、おそらく第2層。……どんな試練が来るかは分かりませんが、第1層が『屈折』と『分光』でした。ならば次も、光の性質を利用した何かである可能性が高い」
レオは気を引き締めるように告げる。
「陛下、シルビアさん。何が起きても対応できるよう、周囲の違和感には敏感でいてください。ここは常識が通用しない場所です」
「承知した」
「はい、お任せください!」
「では、ノワル」
レオが名を呼ぶと、執事は恭しく一礼し、左耳に揺れる紫色のピアスに指先で触れた。
瞬間、淡い光が彼の体を包み込む。光が晴れた時、そこにいたのは燕尾服の執事ではない。漆黒のジャケットに機能的なタクティカルパンツ、そして腰には複数のポーチを備えた、洗練された戦闘スタイルの青年だった。
レオが作成した次元収納ピアスによる、瞬時の武装換装。
「準備は万端でございます」
レオたちは【クロノ・ヴィラ】を収納し、重厚な扉を押し開けて次なる回廊へと足を踏み入れた。
第2層。
そこは、目が眩むほどの鏡の世界だった。
床も壁も天井も、すべてが磨き上げられた鏡面で構成されており、踏み出した自分たちの姿が無限に映し出されている。
「……鏡、ですか。落ち着かない場所ですね」
レオがゴーグルの位置を直しつつ周囲を警戒する。無限に続く合わせ鏡の虚像が、平衡感覚を狂わせてくる。
その時、鏡の壁面が波打ち、ぬらりと銀色の人影が姿を現した。
全身を鏡面の鎧で覆い、巨大な鏡の盾を構えた騎士のような姿。
「守護者です」
レオの警告と同時、鏡の騎士が盾を構えて突進してくる。
アーヴィンが反射的に手をかざし、迎撃の光魔法を練り上げる。
「陛下、待ってください」
レオが短く制止した。
「あの盾……魔力を帯びています」
直感的な危機感。あの鏡面は、光だけでなく魔法そのものを跳ね返す類のものではないか。確証はない。だが、ここで強力な魔法を放ち、もし反射されれば、この狭い回廊では自滅を意味する。
「……試します」
レオは指先を騎士に向けると、体内のマナ循環を切り替えた。
自身の時空属性マナを、第五位階時空属性変換魔法≪アトリオス≫によって火属性へと変換する。選択したのは、軌道が目視しやすく、万が一跳ね返ってきても対処が容易な初歩の魔法。
レオの指先に、小さな赤い魔法陣が一瞬だけ灯る。第一位階火属性攻撃魔法≪イグニス≫。
音もなく放たれた赤い火球は、照明代わりの淡い光を撒き散らしながら直進し、騎士が構えた盾へと吸い込まれる。
着弾の瞬間、火球は砕けることも消滅することもなく、入射角と同じ角度で鋭く跳ね返された。
反射した火球は天井の鏡に当たり、焦げ跡を残しながらさらに壁へと跳ね返り、不規則な軌道を描いてレオたちの頭上を掠め、後方の壁でようやく霧散した。
「……やはり」
レオは冷ややかな目で分析結果を口にする。
「魔法に対する『反射』特性です。撃てば、自分たちが焼かれそうです」
アーヴィンが練り上げていたマナを霧散させ、杖を下ろす。魔法が使えないとなれば、攻め手は限られる。
「――失礼します」
涼やかな声と共に、純白の影が前に出た。
シルビアだ。
彼女は言葉少なにアーヴィンの前に立つと、躊躇なく踏み込んだ。
体内で練り上げたチャクラと、癒しの聖霊の加護による身体強化を、一瞬で拳の一点に集中させるだけ。
鏡の騎士が、反射のために盾を構える。だが、シルビアが放ったのは魔法ではない。
ごう、と風を切る音と共に、シルビアの右拳が盾の中央へ突き刺さる。
轟音。
魔法を無効化する絶対の鏡面が、純粋な物理的質量の前に悲鳴を上げ、蜘蛛の巣状に亀裂が走る。
次の瞬間、盾は粉々に砕け散った。
衝撃は盾を貫通し、その背後の守護者をも吹き飛ばす。鏡の壁に叩きつけられた銀色の騎士は、ガラス細工のように砕け、光の粒子となって霧散した。
あとに残ったのは、静寂と、床に散らばる鏡の破片のみ。
シルビアは何事もなかったかのように拳を払い、振り返って優雅に微笑んだ。
「物理なら、反射されませんね」
その姿に、アーヴィン王は目を丸くし、数秒の沈黙の後、苦笑を漏らした。
「……なるほど。噂に聞く1級ハンター『シルフィー』の実力、しかと見せてもらったよ」
アーヴィンは優雅な所作で腰の剣を抜き放つ。刀身が細く、鋭い輝きを放つレイピアのような形状の騎士剣。式典用の飾りではない、実戦で鍛え上げられた業物だ。
「魔法が使えぬとなれば、これに頼る他あるまい」
「ですね。では、行きますよ」
レオが短く合図を送ると同時に、四人は散開した。
残る守護者たちが、鏡の盾を構えて殺到する。魔法を反射する絶対の盾。だが、物理的な質量に対しては、ただの硬い鏡に過ぎない。
シルビアが動く。強化された脚力が床の鏡を踏み砕き、瞬時に間合いを詰める。 繰り出された回し蹴りが、風切り音よりも早く守護者の盾を側面から捉えた。
轟音と共に盾がひしゃげ、体勢を崩した守護者の胸甲へ、流れるような掌底が叩き込まれる。硝子の砕ける甲高い音と共に、一体が霧散した。
一方、アーヴィンに襲いかかった守護者は、盾を構えて突進を仕掛けていた。
アーヴィンは正面から受けることをせず、水が流れるようなステップで半身になり、盾の縁を滑るように剣を走らせる。
狙うは、鏡の鎧の継ぎ目――関節部。
鋭い風切り音だけを残し、正確無比な突きが守護者の膝裏を貫く。
ガクリと体勢を崩した守護者の首元へ、返す刀で一閃。マナで強化された剣撃は、物理的な装甲を紙のように断ち切った。
そして、影が走る。
ノイアーだ。
彼は背負った漆黒の大剣を軽々と抜き放つと、音もなく守護者の懐へ滑り込んだ。
鏡の騎士が反応し、盾を突き出す。だが、ノイアーは表情一つ変えない。
横薙ぎに振るわれた巨大な剣身が、盾ごと騎士の胴を捉える。技巧も小細工もない。純粋な質量と身体能力による暴力的な一撃。
風圧と共に、鏡の盾と鎧が粉々に粉砕され、騎士の上半身が吹き飛んだ。
ノイアーは残心を残さず、流れるような動作で大剣を背に戻す。主の安全を確保する、ただそれだけの「作業」として。
レオもまた、無言で剣を振るっていた。
自身のチャクラを剣に纏わせ、対峙した守護者の大剣を受け流す。
13歳で武闘大会を制した剣技は、無駄な動きを極限まで削ぎ落としている。盾による防御をフェイントで誘い、空いた胴へ踏み込む。斬り上げられた刃が、鏡の騎士を両断した。
カシャン、と涼やかな音を立てて、最後の鏡片が床に落ちる。
「なんとかなりそうですね」
レオが剣を振り、残心を解く。回廊に満ちていた殺気が霧散し、砕け散った鏡の破片だけが、静かに光を反射していた。
「魔法が使えないというのは不便だが……良い運動にはなるよ」
アーヴィンが剣を鞘に納め、額の汗を拭う。シルビアも、ノイアーも、息一つ乱さず、涼しい顔で主の元へ戻ってくる。
「物理で押し通る。……脳筋な解決法ですが、この層においてはそれが正解のようですね」
レオは苦笑しつつ、回廊の奥を見据えた。
「基本は私とシルビアさんで道を切り開きます。ノイアー、背後は任せた」
「御意」
短く言葉を交わし、一行は進行を再開した。
鏡面から湧き出すように現れる守護者たちが、盾を構えて殺到する。魔法を反射する絶対の盾。
しかし、一行は物理で守護者を、斬る。突く。砕く。硬質な破壊音と足音だけが、無限の回廊にリズムを刻む。
一時間、二時間。
景色は変わらず、己の姿だけが無限に増殖し続ける。精神を蝕むような単調さと、絶え間ない襲撃。
常人であれば発狂しそうな環境下で、四人の足並みは乱れない。最適化された動作。無駄のないマナとチャクラの循環。彼らは「歩くように」戦い続けていた。
そして、五時間が経過した頃。
「……あそこです」
レオが指差した先。規則的な鏡の乱反射が途切れ、吸い込まれるような闇をたたえた巨大な扉が鎮座していた。
五時間に及ぶ鏡地獄と、数百に及ぶ守護者の残骸を背後に残し、一行は扉の前へ到達する。
「鏡が途切れました。……第1層の構成と同じなら、この先は単純な戦闘エリアではないはずです」
レオは慎重に扉を見据え、予測を口にする。ノイアーが音もなく大剣を背に戻し、乱れた服の裾を直す。シルビアもアーヴィンも、息一つ乱れていない。
「おそらくですが、また厄介なパズルか、仕掛けが待っているかもしれません」
物理と精神、双方の試練を「作業」として完遂した一行は、重い足取りを見せることなく、次なる扉へと手をかけた。




