王宮の退屈な会議は、妻の中で切ない人間ドラマになる
ウォルター=ヘイルは疲れ切っていた。
馬車を降りると、大きくため息をつき、肩を落とす。
すでに日はとっぷりと暮れ、ガス灯が石畳の道を照らしていた。
我が家であるアパートを見上げると、カーテンの隙間から明かりがこぼれている。
少し足早に階段をのぼる。自分を待つ妻への、せめてもの罪滅ぼしに。
「ただいま、クララ」
扉を開けると、ろうそくのやわらかな光と、暖かな空気が頬に触れた。
「お帰りなさい、ウォルター」
微笑む妻の、薄茶色のふんわりとした髪が揺れる。
「今日もお疲れさま」
連日帰りが遅くとも、クララは少しも怒らない。
今日もやさしく労わりながら、夫の手から帽子とコートを受け取った。
「遅い時は、待っていなくていいと言ったのに」
「待っていたつもりはないのよ。本を読んでいたら、またこんな時間になってしまって」
食卓の上には、分厚い本が一冊。
クララは読書好きで、貸本屋から本を代わるがわる借りてくる。
「今、シチューを温めるわね」
「ああ。お腹がぺこぺこだ」
「今日はゴロゴロ野菜のシチューなの」
少しして、食卓には野菜たっぷりのブラウン・シチューが運ばれてきた。
(ゴロゴロ……?)
ウォルターはわずかに首をかしげた。
皿の上で堂々と存在を主張する具材たちは、ゴロゴロというより、ゴロンゴロンしている。
「煮崩れたらいけないと思って、大きめにしたわ」
大きめにもほどがある。こぶし大のじゃがいもは、こぶし大のまま皿に鎮座していた。
にんじんも、上下に切り分けられているだけだ。
「この間はお粥みたいになってしまったから」
「賢明な判断だと思うよ」
ウォルターはスプーンでじゃがいもを切り分けて、口に運んだ。
クララは掃除も裁縫も無難にこなすが、料理だけは少しばかり難があった。
(でもまあ、火は通っているし。味も問題ないし)
シチューをすすり、パンをちぎり、ワインを飲む。
半分ほど食べたところで、ようやく空腹も落ち着いた。
ふう、と息をつく。
「……ここのところ、お忙しいのね」
「いや、仕事自体はそんなに大変じゃないよ」
ウォルターは王宮に勤めている。所属は庶務局、職務は書記官だ。
「今は議事録係なんだけど、書くことより、会議が終わるのを待つほうが仕事になってる」
「議論が白熱して?」
「まあ……そうだね」
歯切れの悪い肯定に、クララが首を傾げた。
「会議が長引くのには、何かほかに理由がありそうね」
「うん……毎度、言い争う二人が決まっていてね」
ウォルターは苦笑した。
「お互い、相手の主張じゃなくて、相手そのものが気に食わないだけなんじゃないかと思ってるんだ」
「まあ」
「付き合わされる方は、たまったものじゃないよ」
ウォルターはまたシチューをひとすすりした。
彼としては、それで話を終えたつもりだった。
しかしクララは、さらに身を乗り出してきた。
「具体的には、どなた?」
「ん? お二人とも貴族だからね。名誉のために名前は伏せるよ」
「じゃあ、お花で例えるなら?」
「花で!?」
「ええ。薔薇? 百合? パンジー?」
「……スミレとヒマワリ、かな?」
「スミレの君と、ヒマワリの君ね……いいわ。対照的なお二人。だいぶイメージが湧いたわ」
クララはうっとりとまぶたを伏せた。
ウォルターは、しまった、と思った。
ただ単に、二人が身につけていたタイの色を思い浮かべて答えただけだったのだ。
実物は、花にたとえると花が気の毒なおじさん二人である。
「そのお二人、普段は? 仲が悪いの?」
「たぶんね。一度、二人が同じ色のタイをしてきたことがあったんだ。
そしたら二人とも、会議に遅れてまでタイの色を替えてきた」
ウォルターはくだらない、と嘆息したが。
クララは目を輝かせた。
「すごくいいわ」
「どこが!?」
「そんなささいなことを気にするなんて……互いが気になって仕方ない証拠ね。最高よ」
「全然よくないよ!?」
夫の突っ込みなど、妻の耳には入っていなかった。
両手を握り合わせ、さらにとんでもないことを言い出す。
「ねえ、ウォルター。スミレの君とヒマワリの君は、本当はお互い相手のことが好きなんじゃないかしら?」
「……は?」
手元のスプーンから、ゴロンとじゃがいもが転げ落ちた。
ウォルターは思わず笑う。
「ない、ない。絶対ない。今日なんて、白熱しすぎて『馬鹿野郎』とか『地獄に落ちろ』なんて言葉で罵り合って――」
「聞いて、ウォルター」
クララが、ひたとウォルターを見据えた。
こんなに真面目な妻の表情は、とても珍しい。
貸本屋で『落日の帝国』と『怪奇! 水曜日のスターゲイジパイ男』のどちらを借りるか迷っていた時以来である。
「好きの反対は嫌いじゃない。無関心よ」
厳かで確信に満ちた口調に、ウォルターの笑いが引っこむ。
気の優しい――悪く言えば少し気弱なところのある――彼は、断言されることに弱かった。
「きっと、スミレの君とヒマワリの君は、子供の頃から張り合っているのね」
「いや。お二人の領地は別々だから。ウィミアとケルダンだし」
「お隣同士だもの。少しくらい接点はあったはずよ」
クララは不満げに、薄い薔薇色の唇をとがらせる。
ウォルターは、にこにこと笑う顔もいいけれど、そういう表情もかわいいなあと、頬がゆるんだ。
「どうかなあ……ああ、でも、あの二人、うっすらと血縁ではあったような」
「それよ」
びしっと指を突きつけられ、ウォルターはぽかんとした。
「それ……?」
「血縁なら、親戚の集まりで会ったことがあるはずよ」
クララは勝ち誇った口調で断言する。
ウォルターは眉間を押さえた。
「……血縁といっても、スミレ様のいとこの嫁の甥が、ヒマワリ様のお姉君の嫁ぎ先の遠縁、くらいの薄い縁で」
「二人が初めて出会ったのは夏のこと……ウィミアにある、夏霧の降りる美しい湖のほとり。草葉は露に濡れ、湖畔では駒鳥がさえずっていた……」
「え? え?」
突然始まった妻の語りに、ウォルターはうろたえた。
「ヒマワリの君が落とした帽子を、スミレの君が拾ったのが最初」
「まるで見てきたかのように言っているけど、それ、想像だよね?」
「二人は束の間、言葉もなく見つめ合ったわ」
「根も葉もない妄想だよね?」
妙に自信満々に語られるので、ウォルターはだんだん不安になってきた。
「お二人の因縁は、この時から始まった……」
「不仲が初対面から始まっていそうなのは、僕も同意するけれども」
結婚して半年。
ウォルターは、初めて知った妻のたくましい想像力に、ただうろたえた。
「スミレの君は、ご自分の中に生まれた感情をどうしていいか分からなかったのね。
ヒマワリの君に、つい意地悪を言ってしまうの。
『返してほしかったら、追ってこいよ』って」
「スミレ様はそんなこと言わない」
「まあ。解釈違いね」
「僕の独自解釈ではなくて、これは公然の事実なんだ。
あの方は昔から体が弱くて、野を駆け回るような方じゃないから。
追ってこい、なんて言うわけがない」
「そうなの? ごめんなさい。想像が先走りすぎたわ」
「うん、かなり前から先走ってるね」
クララは席を立った。
紙とペンを持ってくる。
「ウォルター、お二人の外見を教えてくださる?」
「スミレの君は痩せていて、色白で神経質な感じで。
ヒマワリの君は色黒で、がっしりしていて豪快な感じ、かな」
「ふむふむ……こんな感じね?」
ウォルターは目を剥いた。
見せられた紙には、はかなげな少年と、元気そうな少年が描かれていた。
どちらもそれぞれスミレとヒマワリの花を背負った、とんでもない美少年である。
瞳には星が散り、まつげはムダに長い。
「誰これ!?」
「スミレの君とヒマワリの君よ」
「全然違うよ!?」
「在りし日のお姿だから……」
「こんな在りし日はない! 存在しない!」
実物を知るウォルターは、激しく首を横に振った。
二人とも、どうひいき目に見ても、花ではなく野菜寄り。
スミレ様はホワイトアスパラガス、ヒマワリ様はじゃがいもだ。
「っていうか、絵、うまっ! こんな才能あったんだね!?」
「うふふ、ありがとう。小さい頃からたしなんでいて」
「たしなみの域じゃないよ、これは」
結婚して半年目にして知る、妻の新たな一面。
ウォルターはどきどきしていた。いろんな意味で。
「じゃあ、貴重な基本情報をもとに、もう一度出会いをやり直すわね」
「まだやるんだ」
ウォルターは椅子に座り直した。
シチューとパンはもう平らげてある。空のグラスにワインを追加した。
「帽子を拾ったスミレの君は、ヒマワリの君に無言で帽子を突き出すの」
「うん、スミレ様らしいね」
ウォルターは深々とうなずいた。
実際、そういう光景を目にしたことがある。
「ヒマワリの君は『お……おう。悪いな』って感じで受け取るの」
「うん。ヒマワリ様っぽい」
安物の赤ワインをグラスの中で揺らしながら、ウォルターは思う。
自分はなぜ、妻の妄想の審査役のようなことをしているのだろう、と。
だが、その疑問はひとまず胸の奥に押しこんだ。
「そのまま、ふいっと立ち去るスミレの君」
「いいね。すごくスミレ様らしいよ」
「そんなスミレの君に、ヒマワリの君が言うの。
『この帽子……おまえが被っとけよ。今日は、日差しが強いからさ』」
「絶対言わないっっっ!」
ウォルターは、ダン、と卓にグラスを置いた。
「スミレの君はどきっとするんだけど、照れくささから、その好意を無視して立ち去るの」
「うん、無視しそうなのは合ってるけどね!?」
「ヒマワリの君は、自分の好意を無為にされたことに腹を立てて――
『くそっ、なんなんだ、あいつは! 嫌な奴だな!』」
「会議終わりのヒマワリ様の台詞を、君が完全再現していて怖い!」
拳を握り、相手をにらみつけるしぐさまでそっくりだった。
「最初に素直になれなかったから、今も素直になれない……なんて切ないの」
「あのさ。夢を壊して悪いけど、二人は五十を過ぎたおじさんだから。
その絵みたいな美少年じゃ、全然! ないから」
絵を見てため息をもらす妻に、ウォルターは力いっぱい主張した。
「現実はね、もっと乾いてるんだ。ただ会議室で、禿げたおじさんと太ったおじさんが、机を叩いて唾を飛ばし合っているだけだよ」
「お二人はどんな会話をなさるの?」
「無味乾燥としているよ。たとえば――」
ウォルターは会議の様子を思い返し、とりわけ難解で事務的な部分を抜き出した。
「『現下の大陸情勢を鑑みれば、拙速な相互防衛条約の締結は、むしろ我が国の戦略的自律性を毀損する危険があります。抑止均衡は、単純な軍事的相互依存ではなく、可塑性ある外交手段によって維持されるべきでしょう』。
『理屈は立派ですが、そんな消極的な姿勢で国境が守れるわけがない』
――こんな感じだよ。君の感傷を壊すようで悪いけど」
「いえ、全然。むしろ今ので確信を得たわ」
「へ?」
「小難しいことを言っているけれど、要するに、お二人はこう言っているのよ。
『そんなに簡単に、お前を頼れるわけないだろ』『馬鹿! 俺を信じろ!』――って」
ウォルターは、今日言い争っていた二人の姿を思い浮かべた。
そこに、今のセリフを充ててみた。
――ぞわっと、肌が粟立った。
「他にはどんなことを?」
「え……ええと……『現行憲章は制定から百年以上が経過している。社会構造も国家機構も変容している以上、条文の解釈だけで乗り切るのは限界だ。統治機構の再設計を含めた包括的改訂を検討すべき時期です』――とか?」
「つまり『今の関係じゃ嫌なんだ!』と。これはヒマワリの君かしら」
「『軽率な改訂は統治秩序そのものを損なう!』」
「『そんなの……怖いに決まっているだろ』――あっ、スミレの君の弱気な表情が浮かんだわ。すごくきゅんとしちゃう」
クララは少しもへこたれず、次々と愛の言葉に変換していく。
ウォルターはついに言葉が続かなくなった。
しん、と食卓が静まり返る。
「……どう、ウォルター。会話にお二人の奥ゆかしい愛を感じて、微笑ましくならない?」
「微笑ましさより先に、殺意が湧いたよ。まじめに会議しろよって」
真剣に腹を立てているあたり、ウォルターの思考は妻の妄想にだいぶ浸食されていた。
自分でもそれに気づき、頭を振る。
残っているワインを一息に飲み干した。
「ごちそうさま、クララ。おいしかったよ」
視界の端に、読みかけのクララの本が目に入った。
タイトルは『意地っ張りトニーと素直になれないウィル』。
ウォルターは本とクララを見比べた。
(……今日の話の出どころは、これかあ)
潮が引くように、頭の中の妄想が冷めていった。
「クララ、君は本当に物語が好きなんだね」
「ええ。何かの本に書いてあったわ。――想像力は、現実に対する戦いにおける唯一の武器だって」
「武器って。大げさだなあ」
「想像力があれば、なんだって楽しくなるのよ」
妻がいつもにこにこしている理由が、少し分かった気がした。
「ね、あなた。ぜひお二人の出会いを調べてみて」
「君の落胆する結果になるよ、絶対」
半笑いで答えると、クララがまた真剣な表情になった。
「ウォルター。あなたは神の不在を証明できる?」
「え? か、神?」
「神がいるかどうかは、誰にも証明できないわよね」
「う……うん……」
「それと同じよ。お二人の間に愛がないなんて、否定はできないはずよ」
重ねて言うが、ウォルターは断言に弱い。
ついでに権威にも弱い。
格言めいたことを言われると、自分の確信がぐらりと揺らいだ。
クララの理屈はだいぶ飛躍しているのだが、ウォルターはもごもごと反論を引っ込め、寝間着に着替えた。
「それじゃあ、お休みなさい、ウォルター」
「お休み、クララ」
妻と並んでベッドに入り、ウォルターは目を閉じた。
最初は片付いていない仕事場の机のことが頭に浮かんだが、すぐにそれは別のものに取って代わった。
先ほどクララが語った妄想だ。
霧で霞む湖のほとり。
俳優のように美しい少年二人が、言葉もなく見つめ合う――
白黒の書類より、退屈な会議より、鮮烈で瑞々しい光景だ。
ウォルターはつい、その先を考えた。
帽子の一件のあとにも、二人はきっと素直になれない場面をいくつも重ねたことだろう。
一枚だけ残ったクッキーを挟んで、お互い相手の出方をうかがったり。
同じ本に手を伸ばし、同時に手を引っ込めたり。
その様子を思い浮かべると、思わず口の端に笑みが浮かんだ。
翌朝。
ウォルターは、いつになくすっきりと目覚めて出勤した。
議事録は手早くまとまり、一度で通った。
他の書類も次々と片づき、机の上がまたたくまに広くなっていく。
良い気分だ。足取り軽く他部署へ文書を届けに行く。
「ウォルター。昨日の会議、明後日にまた延長戦だってさ」
同僚の一言に、ウォルターはたちまちげんなりした。
「きっと僕が議事録係だな」
「また帰りが遅くなるな」
「勘弁してほしいよ」
ウォルターは回覧を渡しながら、大きくため息をついた。
「……そういえばさ、あの二人の出会いって、知ってる?」
「あの二人って?」
「会議を長引かせる原因のお二人だよ」
「ああ。あの二人」
同僚は苦笑した。
「伝え聞いた話だと、子供の頃から知り合いらしいよ。
十四の時、親戚の葬儀で顔を合わせたのが最初だってさ」
「本当に?」
ウォルターは目を見開いた。
妻の妄想が一部とはいえ当たっていて、驚いた。
「まさか湖のほとりで帽子を落としていたりしないよね……?」
「帽子? さあ。それは知らないけど。
葬儀の献花の置き方で議論したらしいぜ。
その頃からそりが合わないんだろうな」
「……へえ」
なんとも、しょうもない話だ。
やはり妄想は妄想。
現実とは違う。
廊下へ出ると、怒鳴り声が聞こえてきた。
「民意を削ってまで安定を取るのか!」
「混乱を制度化する方がよほど危険だ!」
言い争っているのは例の二人。
スミレの君とヒマワリの君だ。
二人の議論は至極まじめで、実に真っ当。
昨夜クララが語っていた妄想など、入り込む余地はみじんもない。
(何を本気で期待していたんだ、僕は)
ウォルターは自分を恥じた。
(――でも)
持ち場に戻って、机を見下ろす。
いつになく綺麗に片付いている。
今日は仕事がはかどっていた。
(昨晩は、よく眠れたもんなあ)
ウォルターはここしばらく、夜があまり眠れていなかった。
会議が長引くせいで仕事が片付かず、それが気になって寝つきが悪かったのだ。
(クララの話で、現実なんて吹き飛んだもんな)
思わず笑いが漏れる。
ウォルターは椅子を引いた。
(根も葉もない想像も、悪くないか)
ウォルターは楽しげにペンを取り、また現実の中へ戻っていった。
なおクララは、初対面のウォルターに「昨日読んだサスペンス小説の連続猟奇殺人犯にそっくりだわ」とワクワクしたり、帰りが遅いと「夜の職場、二人きりの残業、何も起こらない訳がなく……」などと妄想したりしており、そのことは一人墓の下まで持って行く所存。
お読みいただき、ありがとうございました!




