赤い段ボール。
不在票に続いて、赤いシリーズとして投稿してみました。
軽バンのフロントガラス越しに、夜の湿った空気が張り付いている。
20時53分
ダッシュボードのデジタル時計が刻む数字は、配達員にとっての「死線」だ。
21時までの指定枠、その最後の一つが助手席に鎮座している。
朝から200個近くの荷物を捌いてきた。
空の荷台は、加速するたびに背後で虚しい鉄板の振動音が響く。
身体は鉛のように重く、安全靴の中の足はふやけ、指先は段ボールの脂に水分を奪われてカサカサに乾ききっている。
「……あと一件」
自分に言い聞かせるように呟いた。これが終われば、営業所に立ち寄って日報を出し、自販機で温かい缶コーヒーを買って帰る、あとはそれだけだ。
最後の一つ、それは、縦横二十センチほどの段ボール箱だ。
品名は「贈り物」送り主は個人名。
見慣れた段ボール箱。
住宅街の戸建て一軒家だ。
到着して、エンジンを切ると、不自然なほどの静寂が車内を支配した。
助手席から最後の荷物を抱え上げ、ドアを開けて車外に出る。
◯◯、表札を確認し、宛名と照らし合わせる、ここで間違いない。
門扉横のインターホンを押す。
ピンポーン、という電子音が、湿った夜の空気に吸い込まれていく。
数秒の後、インターホン越しに「はーい」という、女性の細い声した。
その数秒の待ち時間だった。
僕は手持ち無沙汰に、抱えた箱の天面に目を落とした。
「……ん?」
汚れなんか無かったはずの箱の角に、小さな赤い点がついていた。
大きさは、ペン先で突いたほど。針の穴のように鋭い赤。
(ボールペンのインクでも飛ばしたかな)
そう思った。
いまさっき宛名を確認したときには、確かに赤い点なんかなかった。
そうしている玄関ポーチの灯が点いた。
ふと視線を手元に戻すと、赤い点は五百円玉ほどの大きさに広がっていた。
背筋に、冷たいものが走った。
見間違いなんかじゃない。さっきまでは確かに「点」だった。
それが、インターホンを押し、待っているその数秒ほどの間に、まるで吸い取り紙が水を吸うような勢いで、箱の繊維を侵食している。
じわり。
じわり。
「赤」は止まらない。
生き物のように箱の表面を這い、段ボールの紙肌を無惨に塗りつぶしていく。
そして、鼻をついたのは、インクの匂いとは明らかに違う、これは、、、。
「カチャリ」内鍵が開く音がした。
「お待たせしました」
女性の声とともにドアが、ゆっくりと開いた。
「あ、夜分にすみません、お荷物です……」
職業的な笑顔を作ろうとしたが、顔が引き攣るのが分かった。
箱の赤は、もう僕の掌の大きさを超えていた。
段ボールの層を突き抜けて、液体の温度が僕の指先に伝わってきた。
(待て。おかしい)
その「赤色」には、強烈な既視感があった。
ただの赤じゃない。
もっと深い、艶のある、僕がよく知っている色。
今も制服の内ポケットに入れてある、二十歳の誕生日に奮発して買った、イタリア製の赤い革財布。その色と、全く同じだったのだ。
「あら、汚れちゃってるわね」
女性は無表情に言った。
僕は謝ろうとした。
「すみません、汚損しているみたいで。一度持ち帰って確認を……」
だが、言葉が出るより先に、女の細い指が箱の縁に掛けられた。
女性は、僕が抵抗する間もなく、驚くべき力でその箱を奪い取った。
「中身、見てみましょうか?」
顔は笑っていなかった。
目が、僕の背後にある闇だけを見つめている。
彼女はそのまま、僕の目の前で真っ赤に湿った段ボールの蓋を、素手で引き裂いた。
箱が開いた瞬間。
ドロリとした「赤」が、女性の足元に滴り落ちた。
視線を移すと無惨に引き裂かれ、液体に浸かって原型を留めていない、赤い革の残骸が目に映る。
ヒビ割れた液晶の、見慣れたカバーに包まれたスマートフォン。
そして、僕がいつも車のキーにつけている、お気に入りのキーホルダー。
全て僕の物だ。
それらが、汚泥のような「赤」の中で、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。
「これ、配達員さんの?」
女性が、真っ赤に汚れたスマホの残骸をつまみ上げ、僕の目の前に突き出した。
僕は呼吸を忘れ、震える手で自分の胸の内ポケットと、ズボンのポケットを確認した。
ない。
財布もスマホも、鍵もない。
虚しく立ち尽くす僕の正面から声がした。
「お疲れ様。ご苦労様でした」
女が、静かにドアを閉めようとしたその隙間。
玄関の床に、「赤色」をした何かが、無造作に、かつ大量に転がっているのが見えたような気がした。
カチャ、、、という乾いた音が、廊下に響き渡る。
我に帰り、足元を見ると、点、点、と赤い跡が続いている。
それは箱から漏れたのではない。
車を降り、ここまで歩いてきた僕の足跡に沿って、ずっと続いていた。
――あぁ、だからさっきから僕の体は、こんなに軽いのか。
反射的に腕時計を見るとデジタル表示は、
20:53だった。
「……え?」
さっきまでなかったはずの胸のポケットには財布の角が、ズボンの右側にはスマホの重みが、左側にはキーホルダーの感触が、確かにそこにある。
手には目の前で引き裂かれたはずの段ボール。
――僕の「一日」は、まだ終わらないのか、、、
(了)




