サイドストーリー 最適解へのアップデート
株式会社ネクスベーション、副社長室。
ガラス張りの壁の向こうには、活気に満ちたオフィスフロアが広がっている。
モニターに向かって真剣な表情でキーボードを叩くエンジニアたち。ホワイトボードを囲んで議論するマーケティングチーム。
その中心にある社長室で、一人の男性が電話対応をしている姿が見える。
高杉翔。私が人生を賭けて支えると決めた人であり、今は私の愛するパートナーでもある。
「……はい、承知いたしました。では、来週の取締役会で正式に提案させていただきます」
電話を切った彼が、ふとこちらを見て、目があった。
彼は柔らかく微笑み、軽く手を挙げる。私も自然と口元が緩むのを抑えきれずに、小さく会釈を返した。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
半年前までは、こんな風に穏やかな気持ちで彼を見つめることができるなんて、想像もしていなかった。
あの頃の彼は、いつも何かに追われているようで、そして隣には常に「バグ」のような存在がへばりついていたから。
私は手元のタブレットに視線を戻し、スケジュールの確認を続けた。
今夜は、彼と二人で過ごす大切な記念日だ。
仕事モードからプライベートモードへ。
私の心の中で、スイッチが静かに切り替わる音がした。
***
私と翔が出会ったのは、大学のプログラミングコンテストだった。
当時、私は自分の技術に絶対の自信を持っていた。コードの美しさ、処理速度、アルゴリズムの効率性。誰にも負けないと思っていた。
けれど、彼のコードを見た瞬間、頭を殴られたような衝撃を受けたのを覚えている。
それは単に技術的に優れているだけでなく、「人のために何ができるか」という温かい思想が根底に流れているような、独創的で優しいプログラムだった。
「すごい……こんな書き方があったなんて」
私が思わず声をかけると、彼は恥ずかしそうに頭をかいた。
『いや、まだ荒削りだよ。ここはもっと効率化できるはずなんだ』
そう言って目を輝かせながら、自分の夢を語り始めた彼。
「テクノロジーで、人の暮らしをもっと快適に、もっと安全にしたいんだ」
その純粋な情熱に、私は一瞬で惹きつけられた。
恋心というよりは、強烈な憧れと、同志としての共感。
私が持っているリソースの全てを使って、この人の夢を実現させたい。そう思った。
私たちはすぐに意気投合し、大学在学中に起業した。
狭いレンタルオフィスで、徹夜でコードを書き、カップラーメンをすする日々。
身体的にはきつかったけれど、精神的には充実していた。彼の隣で、同じ目標に向かって走る毎日が楽しかった。
けれど、会社が軌道に乗り始め、私たちが「学生起業家」として注目され始めた頃、彼女が現れた。
相原玲奈。
翔の大学の同級生だという彼女は、典型的な「守ってあげたくなる女の子」だった。
プログラミングのことなんて何も分からない。ビジネスの話も通じない。
ただ、ニコニコと笑って、翔の腕にぶら下がり、「すごーい!」と手を叩く。
翔は、そんな彼女に安らぎを感じたようだった。
『佐伯、彼女といるとホッとするんだ。仕事のことを忘れられるから』
彼が照れくさそうにそう言った時、私は胸が引き裂かれるような痛みを感じたけれど、笑顔で「よかったですね」と返した。
私には、彼を癒やすことはできない。私は彼の「戦友」であり、「仕事」の一部だから。
彼が安らぎを求めるなら、それを阻む権利は私にはない。そう自分に言い聞かせていた。
でも、彼女の本性はすぐに透けて見えた。
会社の経費でブランド品を買おうとしたり、翔が忙しい時に平気で「寂しい」と仕事を邪魔したり。
彼女にとって翔は、ただの「便利な金ヅル」であり「アクセサリー」でしかなかった。
私は何度も翔に忠告しようとした。
「社長、彼女の浪費癖は少し目に余ります」
「公私混同は避けるべきです」
でも、翔は苦笑いするだけだった。
『まあ、彼女なりに僕を支えてくれてるんだよ。売れない頃から付き合ってくれてたしね』
彼は優しすぎた。
そして、自分への評価が低すぎた。「つまらないオタクだった自分を愛してくれた」という事実に縛られ、彼女の搾取構造に気づかないふりをしていた。
私は歯痒かった。
あなたの価値はそんなものじゃない。
あなたはもっと尊敬されるべきだし、もっと誠実な愛を受けるべき人なのに。
でも、パートナーとしての境界線を越えることはできず、私はただ黙って仕事に没頭することで、彼を守ろうとしていた。
***
転機が訪れたのは、あの大阪出張の夜だった。
ホテルの自室で翌日の会議資料をまとめていた私のスマホに、翔からの着信があった。
時間は深夜一時過ぎ。緊急事態なのは明らかだった。
『佐伯……』
受話器の向こうから聞こえた彼の声は、今まで聞いたことがないほど冷たく、そして乾いていた。
まるで感情という回路が焼き切れてしまったかのような声。
「社長? どうされました? トラブルですか?」
『ああ。トラブルだ。……システムじゃなくて、俺の人生のな』
彼が淡々と語った事実は、私の想像を絶するものだった。
自宅のスマートホームシステムが検知した、恋人の裏切り。
しかも、自分のベッドで、他の男と。
その様子を、彼が開発したシステムが克明に記録し、通知してきたという皮肉。
私は怒りで震えた。
翔がどれだけ彼女を大切にしていたか。どれだけ彼女のために働いていたか。
それを知っているからこそ、彼女の行為が許せなかった。
彼の尊厳を踏みにじり、心を殺した女。
もし今すぐ東京に帰れるなら、私がその部屋に乗り込んで彼女を張り倒してやりたいくらいだった。
でも、次の瞬間、翔の言葉が私を冷静にさせた。
『佐伯。今から、家のセキュリティログとカメラ映像の全データを、外部サーバーにバックアップしてくれ』
『明日の会議は予定通り行う。……だが、終わり次第、俺は東京に戻る。「害虫駆除」が必要になったからな』
その声には、もう迷いはなかった。
「優しい翔くん」は死に、冷徹な「システム管理者」としての高杉翔が覚醒していた。
私はその変化に、恐怖ではなく、ある種の「安堵」と、そして不謹慎ながら「高揚」を覚えた。
彼はようやく、自分を蝕むバグを認識し、それを排除する決断をしたのだ。
最適解を導き出し、実行に移す。それはエンジニアとしての彼の真骨頂であり、私が最も尊敬する姿だった。
「承知いたしました。全て手配します」
私は即座にモードを切り替えた。
感情的な同情は後回しだ。今は彼の手足となり、完璧な「断罪」をサポートすることが私の役目だ。
弁護士への連絡。セキュリティ会社との連携。引越し業者の手配。
すべてのタスクを最速で処理しながら、私は心の中で誓った。
もう二度と、彼をあんな女たちの食い物にさせない。
この一件が終わったら、私が彼を守る。
戦友としてだけでなく、一人のパートナーとして。
***
翌日の夕方、私たちは東京に戻った。
翔が一人でマンションに戻り、私はオフィスで法的措置の準備を進めた。
数時間後、翔から『処理完了』のメッセージが届いた時、私は深く息を吐き、オフィスの椅子に背を預けた。
終わった。
毒は取り除かれた。
その夜、私は翔のマンションへ向かった。
彼からの呼び出しではなかったけれど、一人にしておくのが怖かったのだ。
強がってはいても、彼の心は傷だらけのはずだ。
「……入るよ」
合鍵で入った部屋は、恐ろしく静かだった。
リビングのソファで、翔は膝を抱えるようにして座っていた。
部屋の中はガランとしていて、彼女の痕跡は完全に消え失せていた。
広い部屋に一人きり。その背中が、あまりにも小さく見えた。
「佐伯……」
「お疲れ様でした、社長。……いえ、翔さん」
私は彼に歩み寄り、隣に座った。
彼は力なく笑った。
「笑えるよな。自分が作ったシステムで、自分の彼女の浮気を見つけるなんて。……俺は、今まで何を見てたんだろうな」
「あなたは、人の善意を信じすぎただけです。それは欠点ではなく、あなたの美点です」
「でも、その結果がこれだ。……俺は、つまらない男だったんだよ。金だけの」
「違います!」
私は思わず声を荒らげていた。
彼が驚いたように私を見る。
「あなたはつまらなくなんかない。あなたは世界を変える才能を持っていて、誰よりも優しくて、誠実な人です。あの女が愚かだっただけ。宝石の価値が分からない人間に、宝石を持つ資格はなかった。それだけのことです」
一気にまくし立ててしまい、私はハッとして口をつぐんだ。
翔は目を丸くして私を見つめ、それからふっと表情を緩めた。
「……厳しいな、佐伯は。でも、ありがとう」
彼は窓の外の夜景に目を向けた。
「俺さ、これからは本当に大切なものだけを大切にしようと思うんだ。見栄とか、世間体とか、そういうノイズは全部捨てて。……俺のことを本当に理解してくれて、背中を預けられる人と、この景色を見たい」
その言葉が、私に向けられているような気がした。
いや、自惚れかもしれない。
でも、今なら踏み込めるかもしれない。
私は勇気を出して、彼の手の上に自分の手を重ねた。
「それなら……私がいます。今までも、これからも。あなたが望むなら、ずっと隣にいます」
翔の手が、私の手を握り返してくれた。
その温かさが、私の迷いを全て溶かしてくれた。
「頼むよ、沙織。……俺には、君が必要だ」
初めて名前で呼ばれた瞬間、私の世界は色鮮やかに塗り替えられた。
バグだらけだった彼の人生のコードが、ようやく修正され、美しい最適解へと導かれた瞬間だった。
***
そして、半年後。
私たちは正式にパートナーとなり、公私共に充実した日々を送っていた。
今日は二人の記念日。
私は早めに仕事を切り上げ、翔と一緒にマンションへ帰ってきた。
リビングのインテリアは一新した。
あの女が好んでいた派手で安っぽい家具は全て処分し、翔と二人で選んだシックで落ち着いたデザインのものに変えた。
ここにはもう、彼女の影など一ミリも残っていない。ここは私たち二人の城だ。
「乾杯しようか」
翔がヴィンテージワインをグラスに注いでくれる。
私たちは夜景をバックにグラスを合わせた。
芳醇な香りと、心地よい静寂。
幸せとはこういうことなのだと、しみじみと感じる。
その時、壁のセキュリティモニターが点滅した。
エントランスで何かが起きているアラートだ。
私はタブレットを手に取り、映像を確認した。
「……あら」
思わず声が出た。
そこに映っていたのは、半年前のあの日、ここを追い出されたはずの相原玲奈だった。
髪はボサボサで、服装もヨレヨレ。かつての「タワマンの姫」の面影はどこにもない。
彼女は狂ったようにオートロックのガラス戸を叩き、叫んでいた。
『翔くん! 翔くん、いるんでしょ!?』
『私よ! 玲奈よ! 帰ってきたよ!』
マイク越しに聞こえる悲痛な叫び声。
翔も私の手元を覗き込んだ。
私は一瞬、彼が動揺するのではないかと心配した。
昔の情にほだされて、心が揺らぐのではないかと。
でも、それは杞憂だった。
翔の瞳は、凪いだ海のように静かだった。
そこには怒りも軽蔑もなく、ただ「無関係な他人」を見るような透明な無関心だけがあった。
「……警察に通報しますか?」
私が尋ねると、彼は肩をすくめた。
「必要ないさ。ここのセキュリティは優秀だからな」
その言葉通り、画面の中では警備員たちが彼女を取り押さえ始めていた。
彼女は『あの女じゃなくて、私を見てよ!』と叫びながら、ズルズルと引きずられていく。
無様で、滑稽で、そして哀れな末路。
かつて私が彼女に対して抱いていた嫉妬や憎悪は、もう跡形もなかった。
今の彼女に対して抱くのは、ただの「データ処理済みのゴミ」に対する感想だけだ。
「終わったわね」
私が画面を消すと、翔は穏やかに微笑んだ。
「ああ。終わったな」
彼は私に向き直り、愛おしそうに私の手を取った。
「沙織。ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
その言葉だけで十分だった。
私は彼の首に腕を回し、そっと身を寄せた。
「私もです、翔さん。……これからも、あなたのシステムは私が守ります。バグなんて一つも入れさせませんから」
「頼もしいな。最強のセキュリティだ」
私たちは笑い合い、キスをした。
窓の外では、パトカーの赤い光が遠ざかっていくのが見えたけれど、それはもう私たちには関係のない世界の出来事だった。
彼女は気づいていなかったのだ。
翔が求めていたのは、「守ってあげる対象」ではなく、「共に歩んでくれるパートナー」だったということに。
そして、彼女自身のOSが古すぎて、翔という最新鋭のシステムとは互換性がなかったということに。
私はグラスに残ったワインを飲み干した。
口の中に広がる深い味わい。
これは勝利の美酒ではない。私たちが選び取った、確かな未来の味だ。
「さて、翔さん。明日の取締役会の資料、最終チェックしましょっか」
「えっ、今から? 記念日なのに?」
「ふふ、公私混同はしませんよ。それに、もっと上を目指すんでしょ?」
翔は「敵わないなぁ」と苦笑いしながらも、嬉しそうにパソコンを開いた。
二人のキーボードを叩く音が、心地よいリズムで重なり合う。
タカタカ、ッターン。
それは、私たちが共に紡ぐ未来へのコード。
この城の最上階から、私たちはどこまでも高く、遠くへ行ける。
誰にも邪魔されることなく、二人で。




