サイドストーリー 道化の末路と請求書
コンクリートの上を走る自分の足音が、やけに大きく響いていた。
片方のサンダルはどこかで脱げ、裸足の裏に小石が食い込む痛みが走る。
息は切れ、肺が焼け付くように熱い。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。背後から、あのタワーマンションの威圧的な影が覆いかぶさってくるような気がしたからだ。
「はぁ、はぁ……クソッ、なんだよアレ……!」
俺、ダイスケは、港区の裏路地の自動販売機の前で膝をついた。
喉が渇いているのに、飲み物を買う小銭すらない。ポケットに入っているのはスマホだけ。
つい数時間前まで、俺は東京の頂点にいたはずだった。
成功者の証であるタワマンの最上階。最高級のベッド。高いワイン。そして、俺に媚びる女。
俺は選ばれた人間で、あそこで王様のように振る舞っていたはずだった。
それなのに、今はなんだ?
薄汚れたTシャツに短パン。裸足同然の姿で、深夜の街を逃げ回っている。
まるで野良犬だ。
「ふざけんなよ……全部あの女のせいだ」
相原玲奈。
「バレないから大丈夫」「彼氏はチョロいから」
そう言って俺を唆した女の顔が浮かぶ。
俺は悪くない。俺はただ、誘われたから乗ってやっただけだ。男なら当然だろ?
だいたい、あんなセキュリティの厳しいマンションに、俺みたいな部外者が簡単に入れるわけがない。玲奈が招き入れたんだ。
責任は全部あいつにある。
「あー、マジで最悪。関わるんじゃなかった」
俺は震える手でスマホを取り出した。
画面には、サークルのグループMINEからの通知が溜まっている。
『ダイスケ、今どこ?』
『なんかネットで変な噂流れてるけど』
『お前、マジでやったの?』
嫌な予感が背筋を走る。
俺はMINEを開かず、SNSアプリを立ち上げた。
トレンドワードに「タワマン」「浮気」「追い出し」の文字が並んでいる。
恐る恐るタップすると、そこには数枚の写真と動画がアップされていた。
ロビーに積み上げられたブランド品の山。
シーツ一枚を体に巻き付け、泣き叫ぶ玲奈の姿。
そして――警備員に引きずられながら、「俺は関係ねえ!」と喚き散らす、無様な俺の姿。
『うわ、この男ダサすぎwww』
『女捨てて逃げるとかクズの極み』
『こいつ○○大のイベントサークルの代表じゃん。ダイスケって奴』
『特定した。本名〇〇ダイスケ。住所は……』
「ひっ……!?」
俺は悲鳴を上げてスマホを落としそうになった。
特定されている。
名前も、大学も、サークルも。
俺が必死に築き上げてきた「イケてる俺」「人脈のある俺」「カリスマ代表」というブランドが、音を立てて崩れ落ちていく音が聞こえた気がした。
「嘘だろ……なんでだよ……」
俺は頭を抱えてうずくまった。
俺はただ、少しスリルを楽しみたかっただけだ。
金持ちの彼氏がいる女を寝取るという背徳感と、優越感に浸りたかっただけなんだ。
それが、なんでこんなことになる?
社会的な死刑宣告を受けたような恐怖が、全身を震わせた。
***
翌日からの日々は、地獄という言葉ですら生温いものだった。
まず、大学に行けなくなった。
キャンパスに足を踏み入れた瞬間、四方八方から視線が突き刺さる。
「あ、あれ例の……」「タワマンから逃げた奴」「ダサっ」
ヒソヒソ話と嘲笑。
俺が代表を務めていたイベントサークルに行くと、部室の鍵が変えられていた。
副代表に電話をかけると、冷たい声で告げられた。
『ダイスケ、お前除名になったから』
「はあ!? ふざけんな、俺が作ったサークルだぞ!」
『お前のせいでサークルの評判ガタ落ちなんだよ。「ヤリサー」「犯罪者予備軍」って叩かれまくって、女子メンバー全員辞めたわ。大学側からも呼び出し食らってるし、これ以上迷惑かけないでくれる?』
「待てよ! 俺はハメられたんだよ! 被害者なんだよ!」
『被害者が裸で逃げ出すかよ。動画見たけど、最高にカッコ悪かったぜ。じゃあな』
通話が切れた。
かけ直しても着信拒否。
俺の王国は、あっけなく消滅した。
住んでいるアパートにもいられなくなった。
ネットで住所が晒されたせいで、ポストにはゴミが詰め込まれ、ドアには「不潔」「氏ね」という落書きがされた。
大家からは「他の住人から苦情が来ている。即刻退去してくれ」と怒鳴られた。
実家に逃げ帰ろうかと思ったが、母親から泣きながら電話がかかってきた。
「あんた、何したの!? 親戚中から電話がかかってきて……お父さん激怒してるわよ! 勘当だってお酒飲んで暴れてるから、絶対帰ってこないで!」
帰る場所もない。金もない。
俺に残されたのは、僅かな貯金と、プライドの残骸だけだった。
「……誰か、泊めてくれよ」
俺はスマホのアドレス帳をスクロールした。
今まで遊んできた女たち。
「ダイスケくん大好き」「一生ついていく」なんて言っていた女たち。
片っ端からメッセージを送った。
『久しぶり! ちょっと相談があるんだけど』
『今夜、空いてる?』
返信は残酷なほど早かった。
『無理』
『ニュース見たよ。関わらないで』
『金ない男とか興味ないし』
『ブロックします』
全滅だった。
俺がモテていたのは、俺自身に魅力があったからじゃない。
「イベントサークルの代表」という肩書きと、派手に遊んでいる「雰囲気」に、あいつらは群がっていただけだったんだ。
そのメッキが剥がれた今、俺はただの「みっともない浮気男」でしかない。
「クソッ……クソッ! どいつもこいつも!」
俺は漫画喫茶の狭い個室で、壁を蹴りつけた。
隣のブースから「うるせえぞ!」と怒号が飛んでくる。
俺は小さくなって、シートに身を沈めた。
薄暗い個室のモニターの光だけが、俺の惨めな顔を照らしている。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。
全部、あの高杉って男のせいだ。
あいつがいきなり帰ってこなければ。あいつが動画なんて流さなければ。
金持ちだからって調子に乗りやがって。いつか絶対に見返してやる。
そう思っていた俺の元に、本当の絶望が届いたのは、それから一週間後のことだった。
***
実家から転送されてきた一通の封筒。
差出人は、都内でも有名な大手法律事務所だった。
震える手で封を切る。中から出てきたのは、「損害賠償請求書」と書かれた書類だった。
『通知書』
『前略、当職は高杉翔氏の代理人として、貴殿に対し以下の通り通知致します』
堅苦しい文章が並んでいるが、要約すると内容はこうだった。
貴殿は高杉氏の自宅に不法に侵入し、著しい精神的苦痛を与えた。
また、所有物であるベッド、寝具、カーペット、ソファ等を汚損し、使用不能にした。
さらに、プライバシーを侵害する暴言を吐き、名誉を毀損した。
ついては、以下の金額を請求する。
・慰謝料:三百万円
・器物損害賠償(ベッド、家具等の買い替え費用):五百万円
・特殊清掃費用および現状回復費用:五十万円
・合計:八百五十万円
「は……?」
俺は目を疑った。
八百五十万円?
桁が違うだろ、桁が。
たかがベッドだろ? シーツが汚れたくらいで、なんで買い替えなんだよ!
しかも慰謝料三百万? 俺たちが寝ただけで?
「ふざけんな! 払えるわけねーだろ!」
俺は書類を握りつぶした。
こんなの脅しだ。払わなくていいに決まってる。
俺はネットで「浮気 慰謝料 相場」と検索した。
数十万から三百万程度と書いてある。
ほら見ろ、やっぱり吹っかけられてるんだ。
俺は少し強気になって、書類に書かれた弁護士事務所に電話をかけた。
『はい、〇〇法律事務所です』
「あー、そちらから手紙もらった〇〇だけど。この請求額、おかしいだろ! 脅迫かよ!」
『……ダイスケ様ですね。担当に代わります』
保留音が流れる。数秒後、冷徹そうな男の声が聞こえた。
『代理人の弁護士です。通知書は届きましたか』
「届いたけどさ! 八百五十万ってなんだよ! ぼったくりだろ!」
『全て根拠のある数字です。領収書も提示できますよ。高杉様が使用されていたベッドはシモンズの特注品、ラグはペルシャ絨毯のヴィンテージ、ソファはカッシーナです。貴殿がワインをこぼし、不貞行為によって汚損されたため、全て廃棄処分となりました』
「は……?」
特注品? ヴィンテージ?
あの時、玲奈が「高いワイン」とか「百万円のベッド」とか言っていたのを思い出した。
あれ、マジだったのか。
『また、不法侵入の刑事告訴については、現在警察と調整中です。もし、こちらの示談に応じていただけるのであれば、被害届の取り下げも検討いたしますが……いかがなされますか?』
弁護士の声は淡々としていたが、逃げ道を完全に塞いでくる響きがあった。
刑事告訴。
逮捕。前科。
その言葉が頭をよぎり、俺の膝がガクガクと震え出した。
「か、金がないんです……学生だし、そんな大金……」
『それはこちらの関知することではありません。ご両親にご相談されるか、ご自身でローンを組むなりして工面してください。支払い期限は二週間後です。それまでに入金が確認できない場合、直ちに訴訟手続きに移行し、給与や財産の差し押さえを行います』
「ま、待ってくれ! 分割で……!」
『高杉様のご意向により、一括払いのみとさせていただきます。「慈悲は必要ない」とのことですので』
プツン。
通話が切れた。
俺はスマホを握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
慈悲は必要ない。
あの時、俺を見下ろしていた高杉の冷たい目を思い出した。
あいつは本気だ。
金と権力と法律を使って、俺を社会的に抹殺しようとしている。
「あぁ……ああぁ……」
俺の人生、終わった。
たった一晩の、他人の女との火遊びの代償が、八百五十万円。
これからどうすればいい?
大学は? 就職は?
いや、そんなことより、どうやって金を……。
***
それから半年後。
俺は、関東近郊の工事現場にいた。
朝の五時に起き、満員電車に揺られ、泥と埃にまみれて鉄材を運ぶ。
日給一万二千円。
そのほとんどが、借金の返済に消えていく。
弁護士との交渉の末、親に泣きついて一部を肩代わりしてもらい、残りは消費者金融と、闇に近い金融業者から借りて支払った。
親からは完全に縁を切られ、「二度と敷居をまたぐな」と言い渡された。
大学はもちろん除籍。
今は、日払いの肉体労働で食いつなぐしかない。
「おいダイスケ! 手ェ休めてんじゃねえ! さっさと運べ!」
「は、はい……すみません!」
現場監督の怒号が飛ぶ。
かつてサークルの代表として、下級生に偉そうに指示を出していた俺が、今は一番の下っ端として怒鳴られている。
重い鉄骨が肩に食い込み、皮が剥けて血が滲む。
腰は悲鳴を上げ、足は棒のようだ。
休憩時間、泥だらけの地面に座り込み、コンビニのおにぎりを水で流し込む。
これが、俺の現実だ。
ふと、現場の休憩所に置いてあるテレビが目に入った。
昼のニュース番組が流れている。
『注目のIT企業、本日上場。高杉社長が語る未来とは』
画面に映し出されたのは、仕立ての良いスーツを着て、自信に満ちた笑顔を見せる高杉翔だった。
その隣には、知的で美しい女性が寄り添っている。
フラッシュの光を浴び、彼はまるで光の国の住人のようだ。
『過去の困難も、今となっては良い教訓です。不要なものを切り捨て、本物だけを選ぶことの大切さを学びましたから』
インタビューで彼がそう答えた瞬間、カメラに向かって微かに笑ったように見えた。
その視線が、テレビ画面を通して、泥まみれの俺を射抜いた気がした。
不要なもの。
切り捨てられたもの。
それが俺だ。
「……くそっ」
俺は目を逸らしたかったが、逸らせなかった。
あいつは眩しすぎる。
俺が「つまらない男」「ATM」と馬鹿にしていた男は、最初から俺なんかが見上げることもできないほどの高みにいたんだ。
俺は、ライオンの縄張りに迷い込んだただのネズミだった。
そして、尻尾を踏まれて叩き潰された。それだけの話だ。
「おい、休憩終わりだ! 午後の作業入るぞ!」
「……はい」
俺はよろめきながら立ち上がった。
体中が痛い。未来が見えない。
この借金を返し終わる頃には、俺は何歳になっているんだろう。
青春も、希望も、プライドも、全てあのタワマンのロビーに置いてきた。
空を見上げると、遠くに東京のビル群が見えた。
その中に、あのマンションもあるはずだ。
かつて一瞬だけ味わった、天国のような甘い夢。
だが今は、それが毎晩のように俺を苦しめる悪夢となっていた。
「戻りたい……」
思わず漏れた呟きは、工事現場の騒音にかき消された。
俺は鉄骨を担ぎ上げ、泥濘んだ地面を一歩ずつ歩き出す。
二度と戻れない輝きに背を向けて、果てしない闇の中へと続く道を、ただ黙々と。




