サイドストーリー 硝子の城を追い出されて
薄汚れた天井の角に、蜘蛛の巣が張っているのが見えた。
風が吹くたびにカタカタと鳴るアルミサッシの窓枠からは、冷たい隙間風が入り込んでくる。
東京都練馬区、駅から徒歩二十分。築四十年の木造アパート、二階の角部屋。家賃三万八千円。
それが、今の私の「お城」だった。
「……寒っ」
私は薄手の毛布にくるまりながら、身を縮めた。
暖房をつけたいけれど、電気代が惜しい。先月の支払いも滞納していて、いつ止められるか分からない状況なのだ。
床に散らばっているのは、コンビニの袋と、飲み干した缶チューハイの空き缶。
部屋の隅には、売るに売れなかった安物の服や雑貨が入った段ボールが積み上げられている。
「どうして……どうして私がこんなところにいるのよ……」
掠れた声で呟いても、誰も答えてくれない。
半年前までは、私の声一つで部屋の温度が変わり、好きな音楽が流れ、美味しい食事が運ばれてきたのに。
あの「ザ・タワー・ロイヤル東京」四十五階のペントハウス。
足元に広がる東京の夜景。ふかふかのソファ。高級ブランドの香り。
そして、私を何よりも大切にしてくれた、優しい翔くん。
全てが夢だったんじゃないかと思うほど、今の生活とかけ離れていた。
私は枕元に置いてあったスマートフォンを手に取った。
画面には無数のヒビが入っている。あの日、タワマンのロビーから追い出された後、パニックになって落とした時の傷だ。修理するお金なんてあるわけがない。
慣れた手つきでSNSアプリを開く。
別のアカウント名で作った「裏アカ」で、かつての友人たちのタイムラインを覗き見るのが、最近の日課になっていた。
『今日は彼氏と記念日ディナー♡』
『新作のバッグ買ってもらっちゃった!』
『女子会最高!』
流れてくるキラキラした写真たち。
かつては私も、その中心にいた。
「玲奈ちゃん、すごい!」「彼氏さん、またプレゼントくれたの?」「勝ち組すぎ!」
そんな称賛のコメントを浴びるのが当たり前だった。
でも今は、その輪の中に私の居場所はない。
あの日、ロビーで泣き叫ぶ私の姿は、誰かの手によって動画撮影され、瞬く間に拡散された。
『タワマンから追い出された勘違い女』
『彼氏のベッドで浮気して修羅場w』
そんなタイトルと共に、私の醜態がネットの海に晒されたのだ。
友人だと思っていた子たちは、蜘蛛の子を散らすように去っていった。それどころか、裏で私を笑い者にし、ブロックした。
唯一、実家に電話をかけた時も、母の反応は冷たかった。
『あんた、何したの? 親戚中から連絡が来て恥ずかしくて外も歩けないわよ! 勘当だなんて言いたくないけど、ほとぼりが冷めるまでは帰ってこないでちょうだい!』
ガチャリと切られた電話の音。
あれが、私が「家族」を失った瞬間だった。
「……全部、あいつのせいよ」
私はギリリと唇を噛んだ。
ダイスケ。あの軽薄なヤリサーの男。
あいつがしつこく誘ってこなければ。あいつが「バレなきゃいい」なんて言わなければ。
私は今でも翔くんの隣で、お姫様のように暮らしていたはずなのに。
それなのにあいつは、私が一番辛い時に「金のない女に用はない」と言って逃げた。
連絡先もブロックされ、サークルも辞めてどこかへ消えたらしい。
もし道端で会ったら、刺し違えてでも復讐してやりたい。そんな黒い感情だけが、今の私を支えるエネルギーだった。
お腹が鳴った。
昨日の夜から、水しか飲んでいない。
バイトに行かなければならないのは分かっている。でも、体が動かない。
先週まで働いていたキャバクラは、三日でクビになった。
「お前さ、プライド高すぎ。客を見下すような態度はやめろって言ったろ?」
店長にそう言われた時、私は言い返してしまった。
「だって、あんなおじさんたちの相手、気持ち悪いんだもん! 私、もっとレベルの高い男の人と付き合ってたのよ!?」
その結果が、「じゃあ帰れ」の一言だ。
日雇いの倉庫整理も、スーパーのレジ打ちも、どれも長続きしなかった。
かつてブラックカード一枚で何でも手に入れていた私が、時給千円のために頭を下げるなんて、耐えられるわけがなかったのだ。
私はまだ、自分が「特別な存在」だという幻想にしがみついていた。
「翔くん……会いたいよ……」
スマホの検索履歴には、「高杉翔」の名前がびっしりと並んでいる。
彼の会社が上場準備に入ったこと。経済誌の「次世代リーダー特集」に選ばれたこと。
彼の活躍を知るたびに、胸が張り裂けそうになる。
あれは「私の翔くん」なのに。
彼が成功したのは、私がそばで支えてあげたからなのに。
なんで私はここにいて、彼はあんな遠くにいるの?
ふと、画面に見慣れない通知が来た。
翔くんの個人アウスタグラムの更新通知だ。
私は震える指でそれをタップした。
表示されたのは、一枚の写真。
見覚えのある、あのリビング。
新しくなったシックなインテリア。
そして、ワイングラスを重ねる二人の手。
『今日は大切なパートナーと、自宅でささやかなお祝い。いつも支えてくれてありがとう。これからもよろしく』
息が止まった。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
写真の端に写り込んでいる、女性の横顔。
知的で、涼しげな目元。黒髪を美しくまとめたその姿。
佐伯沙織。
翔くんの会社の副社長であり、いつも私のことを冷ややかな目で見ていたあの女だ。
「嘘……でしょ……?」
スマホを持つ手が震え、画面が小刻みに揺れる。
大切なパートナー? 支えてくれてありがとう?
そんな言葉、私には一度もくれたことなかったじゃない。
いつも「仕事が忙しいから」って、プレゼントで誤魔化してたくせに。
なんであの女には、そんなに心を許してるの?
なんであの女が、私の座るはずだった席に座ってるの?
嫉妬。憎悪。悔恨。
それらがどろどろに混ざり合って、胃の奥からこみ上げてくる。
許せない。
私の場所を奪った泥棒猫。
翔くんは騙されているんだ。仕事ができるからって、あの女が翔くんを洗脳したに違いない。
翔くんは優しいから、断れなかったんだわ。本当は、私みたいに可愛くて、守ってあげたくなるような女の子が好きなはずだもの。
「私が……助けてあげなきゃ」
歪んだ思考回路が、カチリと音を立てて繋がった。
今すぐ会いに行こう。
直接会って、目を見て話せば、きっと分かってくれる。
あの日のことは謝ればいい。土下座でも何でもする。
「やっぱり玲奈が一番だ」って、きっと思い出してくれるはずだ。
だって私たちは、大学時代からずっと一緒だったんだから。あの女なんかより、絆は深いはずなんだから。
私は布団を跳ね除けた。
クローゼット代わりの段ボール箱をひっくり返す。
売れ残った服の中で、一番まともな白いワンピースを探し出す。少しシミがあるけれど、夜ならバレないだろう。
化粧ポーチを開ける。ファンデーションは底が見えているし、リップも残りわずかだ。
それでも、私は必死に顔を作った。
鏡に映る自分を見る。
痩せこけて、目がぎらついている。髪もパサパサだ。
でも、口角を無理やり上げれば、まだ「可愛い私」に見えなくもない。
「待っててね、翔くん。今行くから」
財布の中の小銭をかき集める。電車賃はギリギリ足りる。
サンダルを突っ掛け、私はアパートを飛び出した。
冷たい風がワンピースを通して肌を刺すが、興奮で熱くなった体には心地よかった。
電車に揺られながら、私は何度もシミュレーションを繰り返した。
翔くんに会ったら、まずは泣こう。
「怖かった」「寂しかった」って、弱々しく縋るの。
翔くんは女性の涙に弱い。昔、私が映画を見て泣いた時も、優しく抱きしめてくれた。
そして、「もう二度と裏切らない」って誓うの。
そうすれば、きっとあの部屋に入れてくれる。温かいお風呂に入れてくれて、美味しいご飯を食べさせてくれる。
そしたら、あの佐伯って女を追い出して、私がまたあの城の女王様になるんだ。
「完璧……完璧な計画よ」
電車の窓に映る自分の顔に向かって、ニヤリと笑いかけた。
乗客が怪訝な顔で私を見ていたけれど、気にならなかった。
どうせあんたたちは、私の人生の脇役にもなれない一般人なんだから。
港区の駅に着くと、私は小走りでタワーマンションへ向かった。
懐かしい街並み。高級車。着飾った人々。
ああ、ここだ。ここが私の帰る場所なんだ。
アパートの冷たい床も、カビ臭い空気も、全部ただの悪い夢。
これから私は、本来の人生を取り戻すの。
エントランスが見えてきた。
相変わらず威圧的で、美しいガラス張りの巨塔。
私は自動ドアを抜け、オートロックの操作盤の前に立った。
心臓が早鐘を打つ。
深呼吸をして、カメラに顔を向ける。
『……認証できません』
冷たい電子音声。
エラーランプの赤色が、私の網膜を焼き付ける。
「あっれぇ……?」
私は首を傾げた。おかしいな。メイクが崩れてるからかな?
手で髪を整え、もう一度カメラを見る。
笑顔を作ってみる。
『認証できません。登録されていないユーザーです』
「なんでよ……」
焦りが込み上げてくる。
パスコードだ。そうだ、パスコードなら。
私は震える指で、二人の記念日を入力した。
『パスコードが違います』
エラー音がロビーに響く。
「嘘……嘘よ!」
翔くんの誕生日。会社の設立日。私の誕生日。
思いつく数字を全部入れた。
でも、扉は開かない。
分厚いガラスの向こうには、暖かそうなロビーと、ふかふかのソファが見えているのに。
そこは、物理的には数メートルしか離れていないのに、まるで別世界のように遠かった。
「開けて! 開けてよぉ!」
私はガラス戸を叩いた。
通りがかる住人たちが、私を避けるように歩いていく。
その中に、以前挨拶を交わしたことのある奥様の顔があった。
「あ、あの! 鈴木さん! 私です、四十五階の相原です!」
声をかけたけれど、彼女は私を一瞥しただけで、さっと目を逸らし、足早に去っていった。
その目は、汚いものを見る目だった。
「なんで……なんでみんな私を無視するの!?」
パニックになりかけたその時、奥から警備員が歩いてきた。
大野さんだ。
彼なら知っているはずだ。私がここの住人だったことを。
「大野さん! よかった、私よ! 鍵が反応しなくて……」
「お客様。何か御用でしょうか」
大野さんの声は、氷のように冷たかった。
知っている顔なのに、知らない人のような対応。
その事務的な態度が、私をさらに追い詰めた。
「御用って……家に帰りたいだけよ! 翔くんに会わせて!」
「高杉様のお連れ様というお名前には、該当する方は登録されておりません」
「そんなわけないでしょ! 半年前まで住んでたじゃない! 私、玲奈よ!?」
「過去のことは存じ上げませんが、現在は登録がございません。お引き取りください」
「過去のこと」?
たった半年が、もう「過去」なの?
私の二十数年の人生の中で、一番輝いていたあの日々が、もうなかったことにされているの?
「嫌ぁぁぁぁぁ!」
私は絶叫した。
理性が弾け飛んだ。
「翔くん! 翔くん、いるんでしょ!?」
「私よ! 玲奈よ! 帰ってきたよ! お願い、中に入れて! 謝るから! もう浮気なんてしないから!」
ガラス戸をバンバンと叩く。拳が痛いけれど、そんなことどうでもいい。
この扉が開かなければ、私はまたあのアパートに戻らなきゃいけない。
あの寒くて、惨めで、孤独な地獄に。
それだけは嫌だ。絶対に嫌だ。
「会わせてよ! あの女じゃなくて、私を見てよ! 私の方が可愛いじゃない! 私の方が翔くんのこと知ってるじゃない!」
喉が裂けそうになるほど叫んだ。
ロビーの天井に私の声が反響する。
住人たちが眉をひそめ、スマホで私を撮影し始めるのが見えた。
また晒される。また笑われる。
でも、翔くんにさえ届けばいい。
翔くんがモニターを見て、「玲奈が来てる」って気づいてくれれば、きっと飛んできてくれるはず。
「翔くぅぅぅん! 愛してるのぉぉぉ!」
その時だった。
背後から強い力で腕を掴まれた。
大野さんの合図で現れた、別の警備員たちだ。
「離して! 私はここの住人なの!」
「暴れないでください! 警察を呼びますよ!」
「呼べばいいじゃない! 私が被害者なんだから!」
私は手足をばたつかせて抵抗した。
サンダルが脱げ、裸足になる。
ワンピースの裾がめくれ上がるのも構わず、私はガラス戸にしがみつこうとした。
「翔くん、助けて! 悪い奴らに捕まってるの! お願い、助けてぇぇぇ!」
私の叫びは、虚しく空を切った。
警備員たちの圧倒的な力で、私はエントランスから引き剥がされていく。
アスファルトの上に転がされ、取り押さえられる。
冷たい地面の感触が頬に当たる。
視線の先には、高くそびえ立つタワーマンション。
その最上階、四十五階の窓に、小さく明かりが灯っているのが見えた。
「あ……」
あそこに、翔くんがいる。
あの女と一緒に。
暖かい部屋で、美味しいワインを飲んで、私のことなんて忘れて笑っているんだ。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
パトカーの赤い光が、夜の闇を切り裂いて近づいてくる。
私は地面に顔を押し付けられたまま、涙を流した。
悔しい。悲しい。寂しい。
でも、何よりも「惨め」だった。
警察官に両脇を抱えられ、パトカーに乗せられる時、私はもう一度だけ上を見上げた。
四十五階の明かりは、変わらず優しく輝いていた。
まるで、地上の泥沼でもがく私など、最初から存在しなかったかのように。
***
警察署での取り調べは、屈辱の連続だった。
「ストーカー行為」「住居侵入未遂」「威力業務妨害」。
そんな物々しい言葉を並べ立てられ、私はただ「元カレに会いたかっただけなんです」と泣きながら繰り返すしかなかった。
身元引受人もいない私は、結局、一晩留置所で過ごすことになった。
翌朝、釈放された私は、フラフラとした足取りで街に出た。
朝日が眩しい。
昨日の騒ぎでボロボロになったワンピース。化粧は落ちて、目の周りは真っ黒。髪は鳥の巣のようになっている。
道行く人々が、私を避けて歩いていく。
その目は、昨日タワマンの住人たちに向けられたものと同じだった。
「関わりたくない」「異物」。
私はとぼとぼと歩きながら、駅前の大型ビジョンの前で足を止めた。
そこには、朝のニュース番組が流れていた。
『注目の若手経営者、高杉翔氏率いる株式会社ネクスベーションが、来月マザーズへの上場を承認されました』
画面いっぱいに映し出されたのは、自信に満ちた笑顔の翔くん。
そして、その隣で凛と微笑む佐伯沙織。
二人は並んで記者会見のフラッシュを浴びている。
『高杉社長は、「この成功は、信頼できるパートナーと、支えてくれた社員たちのおかげです」と語り……』
画面の中の翔くんが、佐伯と見つめ合い、小さく頷き合うのが見えた。
そこにあるのは、完璧な信頼と、揺るぎない絆。
私が入る隙間なんて、一ミリもなかった。
いや、最初からなかったのかもしれない。
私はただ、彼の成功という果実を貪るだけの寄生虫で、彼はそれに気づいていながら、優しさで飼っていてくれただけだったのかもしれない。
それに気づいた時、私の中で何かが完全に砕け散った。
「あは……あはは……」
乾いた笑いが漏れた。
私、何やってたんだろう。
自分は特別だなんて思い上がって、大切なものを自ら踏みにじって、最後はストーカー扱いされて。
画面の中の二人は、あまりにも眩しくて、遠い。
もう、手を伸ばす気力さえ起きなかった。
私は視線を落とし、自分の薄汚れた足元を見た。
脱げかけたサンダル。泥のついた足。
これが私の現実。これが私の選んだ結末。
「……帰ろう」
帰る場所なんて、あの寒くて暗いボロアパートしかないけれど。
そこがお似合いなのだ。今の私には。
私は人混みに背を向け、影のように歩き出した。
背後のビジョンからは、まだ翔くんの成功を称える明るいニュース音声が流れている。
それが遠ざかるにつれて、私の心は冷たく、静かな絶望へと沈んでいった。
季節はもう冬になろうとしていた。
木枯らしが吹き抜け、私の薄いワンピースを容赦なく揺らす。
私は両腕を抱きしめ、誰にも見向きもされない路地の奥へと、小さくなって消えていった。
かつて硝子の城に住んでいたお姫様の物語は、こうして誰にも知られることなく、静かに幕を閉じたのだった。




