第六話 届かない最上階
季節は巡り、東京の街路樹が鮮やかな紅葉に染まる頃。
港区にある最新鋭のオフィスビルの一室で、俺、高杉翔は窓の外を眺めていた。
眼下に広がる景色は、かつてタワーマンションの自室から見ていたものと似ているが、ここから見える未来は以前よりも遥かに広く、そして明るい。
「社長、日経ビジネスの取材班がお見えになりました」
ノックの音と共に、秘書の女性が告げる。
俺は振り返り、軽くネクタイを締め直した。
「わかった。すぐに行く」
俺が率いる会社は、この数ヶ月で飛躍的な成長を遂げていた。
きっかけは、皮肉にもあの「事件」だった。
俺は自宅のスマートホームシステム「Home OS」の実証実験データを元に、セキュリティ機能とプライバシー保護機能を大幅に強化したパッケージ製品をリリースした。
キャッチコピーは、『あなたの家を守る、鉄壁の守護神』。
不審者の侵入検知アルゴリズムの精度は業界最高水準を誇り、特に「内部犯行」――つまり、合鍵を持つ者による不正な連れ込みや、異常行動の検知機能が高く評価されたのだ。
皮肉な話だが、玲奈とダイスケが残したあの屈辱的なログデータが、システムの完成度を極限まで高めるための教師データとなったわけだ。
取材は順調に進んだ。
若きIT長者としての成功譚。これからのビジョン。
記者は熱心にメモを取り、最後にこう尋ねてきた。
「高杉社長の成功の秘訣は何でしょうか? やはり、強靭なメンタルですか?」
「そうですね……」
俺は少し考えてから、隣に座っている女性に視線を向けた。
佐伯沙織。
かつては共同創業者として俺を支え、今は副社長として、そして公私にわたるパートナーとして俺の隣にいる女性。
彼女は今日、いつもより少し柔らかなメイクをして、控えめに微笑んでいる。
「一番の秘訣は、信頼できるパートナーの存在です。何があっても背中を預けられる、真に誠実な人間と仕事をすること。それが全てだと思います」
「なるほど。佐伯副社長とのコンビネーションですね。素晴らしいです」
記者が感心したように頷く。
俺と佐伯は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
そこには、言葉にしなくても通じ合う確かな絆があった。
かつて玲奈といた時に感じていた、一方的に与えるだけの空虚な関係とは違う。
互いに尊敬し、高め合い、支え合う対等な関係。
俺が本当に求めていた「安らぎ」は、豪華な家具やブランド品の中ではなく、こうした信頼関係の中にあったのだと、今ならはっきりと分かる。
「では、本日はありがとうございました」
取材が終わり、記者たちを見送った後、俺は大きく伸びをした。
「ふぅ……疲れたな。メディア対応も楽じゃない」
「お疲れ様です、社長。でも、良い宣伝になりましたね。株価もまた上がりそうです」
「ああ。……そうだ、佐伯。今夜、空いてるか?」
「ええ、特に予定はありませんが」
「久しぶりに、家でゆっくり飲まないか? 新作のワインが手に入ったんだ。それに、今日はちょうど『記念日』だしな」
「……ふふっ、そうですね。あれから半年ですか」
佐伯は悪戯っぽく微笑んだ。
そう、今日はあの「断罪の日」からちょうど半年。
そして、俺たちが正式に交際を始めてから三ヶ月の記念日でもあった。
***
一方その頃。
東京都練馬区にある、築四十年の木造アパート。
薄い壁の向こうから隣人の生活音が漏れてくる六畳一間の部屋で、相原玲奈は万年床に寝転がっていた。
「……うぅ、お腹すいた……」
彼女はコンビニの廃棄弁当の残りをかじりながら、ひび割れた画面のスマートフォンを操作していた。
半年前、あの日。
タワマンのロビーから追い出された後、彼女の人生は坂を転げ落ちるように崩壊していった。
実家には帰れず、友人たちにはSNSで「浮気して追い出された女」として拡散され、居場所を失った。
ダイスケには連絡をブロックされ、大学にも居づらくなって中退。
今は日雇いのバイトや、怪しげなチャットレディで食いつなぐ日々を送っている。
かつての輝きは見る影もない。
手入れされなくなった髪はパサパサで、プリン状態になっている。肌は荒れ、爪も伸び放題。
ブランド服は全て質屋に売ったが、二束三文にしかならなかった。
今の彼女の全財産は、財布に入っている千円札数枚と、小銭だけだ。
「どうして……どうして私がこんな目に……」
玲奈はスマホの画面をスクロールする。
彼女が今、唯一の楽しみにしているのは、他人の不幸を探すことではない。
皮肉にも、自分を捨てた元彼・高杉翔の動向をチェックすることだった。
未練ではない。執着だ。
彼が失敗すればいい。株価が暴落すればいい。新しい女と破局すればいい。
そんな暗い欲望を抱きながら、毎日何時間も彼のアカウントを監視していた。
だが、表示されるのは彼女の願いとは正反対の情報ばかりだ。
『Home OS、契約者数十万人突破』
『高杉翔氏、経済誌の表紙に抜擢』
『時価総額、過去最高を更新』
キラキラとした成功のニュースが、玲奈の惨めな心を容赦なくえぐる。
そして、今日。
翔の個人SNSアカウントに、一枚の写真が投稿された。
『今日は大切なパートナーと、自宅でささやかなお祝い。いつも支えてくれてありがとう。これからもよろしく』
写真には、かつて玲奈が住んでいたあのタワーマンションのリビングが写っている。
だが、家具は全て一新されていた。
シックで洗練されたインテリア。窓の外には変わらない東京の夜景。
そして、二つのワイングラスを重ね合わせる、男と女の手。
女の手には、華奢だが品のあるプラチナのブレスレットが輝いている。
「……は?」
玲奈の手が震えた。
そのブレスレットは、かつて玲奈が「ダサい、もっとゴツいのがいい」とねだって買わせなかった、高級ブランドの限定品によく似ていた。
そして、その奥に微かに写り込んでいる女性の横顔。
佐伯沙織。
あの、堅物で可愛げのない秘書女だ。
「嘘……嘘でしょ……?」
玲奈は画面を拡大し、食い入るように見つめた。
翔のコメント。
『大切なパートナー』
『いつも支えてくれて』
『これからもよろしく』
それは、かつて翔が玲奈に向けていた言葉だ。
いや、玲奈には「支えてくれて」なんて言ったことはなかったかもしれない。
いつも「好きだよ」「可愛いよ」と甘やかすだけだった。
でも、この投稿からは、もっと深い、大人の信頼関係と愛情が滲み出ている。
「なんで……なんであの女なのよ!?」
玲奈は叫び、スマホを布団に叩きつけた。
あの場所は私のものだった。
あの夜景も、あのワインも、翔の隣という特等席も。
全部、私が持っていたものなのに。
それを、あの地味な女が奪い取って、涼しい顔で座っている。
「許せない……許せない!」
怒りと嫉妬で頭がどうにかなりそうだった。
自分がこんな底辺で這いつくばっているのに、自分を捨てた男と、自分を見下した女が、あんな高みで幸せそうに笑っているなんて。
「私が……私が戻らなきゃ」
歪んだ思考が、玲奈の体を突き動かした。
翔くんは騙されているんだ。あんな女、仕事ができるだけの冷血女だ。
私が会いに行って、ちゃんと謝れば、きっと分かってくれる。
だって、翔くんは私に弱かったもの。
泣いて縋れば、きっとまた「仕方ないな」って頭を撫でてくれるはずだ。
そうに決まってる。
玲奈は飛び起きた。
クローゼット代わりの段ボール箱を漁り、売れ残った最後の一着――少しシミがついた白いワンピースを引っ張り出す。
化粧ポーチに残っていた乾きかけのマスカラと、安物の口紅を塗りたくる。
鏡に映った自分は、かつての美貌の残骸を無理やり取り繕った、痛々しい姿だったが、玲奈の目には「まだイケる」と映った。
「待っててね、翔くん。今すぐ行くから」
彼女は裸足にサンダルを突っ掛け、アパートを飛び出した。
財布の中身を確かめることもせず、電車賃ギリギリの小銭を握りしめて。
***
夜の帳が下りた港区。
ザ・タワー・ロイヤル東京のエントランス前には、相変わらず高級車が行き交い、選ばれた住人たちが優雅に出入りしている。
その煌びやかな空間に、異質な存在が現れた。
ヨレヨレのワンピースを着て、髪を振り乱した女。相原玲奈だ。
彼女は自動ドアを抜けようとしたが、センサーが反応して開くものの、その先のオートロックで行く手を阻まれた。
以前は顔パスで入れた場所だ。
だが今は、何度カメラに顔を向けても、赤いエラーランプが点滅するだけ。
『認証できません。登録されていないユーザーです』
無機質な電子音声が、彼女を拒絶する。
「なんでよ……開けてよ!」
玲奈は操作盤のタッチパネルを連打した。
パスコード入力画面が出る。かつて翔と二人で決めた「二人の記念日」の数字を打ち込む。
『パスコードが違います』
「嘘……変えたの? 私たちの記念日を?」
玲奈は焦りで呼吸を荒くしながら、思いつく限りの数字を打ち込んだ。
翔の誕生日。会社の設立日。自分の誕生日。
だが、すべて弾かれる。
「お願いします、開けてください! 私はここの四十五階の住人なんです!」
通りがかった住人に声をかけるが、皆、不審者を見る目で彼女を避け、足早に去っていく。
そこに、コンシェルジュデスクから警備員が近づいてきた。
半年前、彼女を追い出したあの大野さんだ。
「お客様、困ります。何か御用でしょうか」
大野さんは玲奈の顔を見ても、眉一つ動かさなかった。
まるで初めて見る不審者のように扱う。
「大野さん! 私よ、相原です! 翔くん……高杉翔の彼女の!」
「……高杉様のお連れ様というお名前には、該当する方は登録されておりません」
「そんなわけないでしょ! 半年前まで住んでたじゃない!」
「過去のことは存じ上げませんが、現在は登録がございません。お引き取りください」
大野さんは冷徹に告げた。
その態度に、玲奈の理性が切れた。
「翔くん! 翔くん、いるんでしょ!?」
彼女はオートロックのガラス戸をバンバンと叩き、叫び始めた。
「私よ! 玲奈よ! 帰ってきたよ! お願い、中に入れて! 謝るから! もう浮気なんてしないから!」
ロビーに響き渡る絶叫。
優雅なBGMがかき消され、住人たちが眉をひそめて遠巻きに見ている。
「会わせてよ! あの女じゃなくて、私を見てよ! 私の方が可愛いじゃない! 私の方が翔くんのこと知ってるじゃない!」
狂ったように叫ぶ玲奈。
その姿は、かつてこのロビーをヒールの音を響かせて歩いていた「タワマンの姫」とはかけ離れた、哀れな亡霊のようだった。
***
四十五階、ペントハウス。
静かなジャズが流れるリビングで、俺と佐伯はワイングラスを傾けていた。
芳醇な香りが鼻をくすぐる。
間接照明に照らされた部屋は、以前のような派手さはなく、落ち着いた大人の空間に生まれ変わっていた。
ふと、壁に設置されたセキュリティモニターが小さく点滅した。
エントランスからの呼び出しではない。
「異常検知」のアラートだ。
「……ん? 何かあったのかしら」
佐伯がグラスを置き、手元のタブレットを操作する。
画面にエントランスの映像が映し出された。
そこには、ガラス戸に張り付き、鬼のような形相で何かを叫んでいる女の姿があった。
「……あら」
佐伯が短く声を漏らす。
俺も覗き込んだ。
解像度の高いカメラは、その女の荒れた肌や、充血した目、そしてヨレヨレの服を残酷なまでに鮮明に捉えていた。
「相原さん……ですね」
佐伯が静かに言った。
俺は数秒間、その画面を見つめた。
かつて愛した女。裏切られた女。そして追放した女。
だが、不思議なことに、胸には何の痛みも走らなかった。
怒りも、悲しみも、憐れみさえもない。
ただ、見知らぬ他人が騒いでいるのを見ているような、完全な「無関心」だけがあった。
「翔くん、どうしますか? 警察に通報しますか?」
佐伯が俺の顔色を窺うように尋ねる。
俺はワインを一口飲み、肩をすくめた。
「必要ないさ。ここのセキュリティは優秀だからな」
画面の中では、大野さんが無線で何かを指示している。
すぐに数名の警備員が現れ、暴れる玲奈を取り押さえにかかった。
『離して! 私はここの住人なの! 翔くんに会わせて!』
『翔くぅぅぅん!』
マイクが拾った音声が、小さく部屋に響く。
だが、その声は俺の心には届かない。
分厚い防音ガラスと、四十五階という物理的な高さ、そして何より「心の距離」が、彼女をあまりにも遠い存在にしていた。
警備員たちによって、玲奈はズルズルと引きずられていく。
やがてパトカーの赤色灯がガラス越しに見え、二人の警察官が彼女を引き取っていった。
彼女は最後までタワマンの最上階を見上げ、何かを叫んでいたが、パトカーの中に押し込まれると、その姿は見えなくなった。
「……終わったわね」
佐伯がタブレットの画面を消した。
部屋に再び静寂と、ジャズの音色が戻ってくる。
「ああ。終わったな」
俺は佐伯に向き直った。
彼女の瞳には、俺への真っ直ぐな信頼と、深い愛情が宿っている。
過去の亡霊は消え去り、ここには確かな未来だけがある。
「沙織」
「はい」
「ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
俺は素直な言葉を伝えた。
佐伯は少し照れくさそうに頬を染め、微笑んだ。
「私もです、翔さん。……これからも、公私共によろしくお願いしますね」
「ああ。こちらこそ」
俺たちは再びグラスを合わせた。
チン、という澄んだ音が、新しい人生の始まりを告げる鐘のように響いた。
窓の外には、東京の夜景が宝石のように煌めいている。
その光の一つ一つが、俺たちの前途を祝福しているように見えた。
遥か眼下の路上で、一台のパトカーが闇に消えていくのが見えたが、俺はもう、それを目で追うことすらしなかった。
彼女の泣き声も、後悔も、もうこの最上階には届かない。
俺は佐伯の手を握り、温かな温もりを感じながら、未来へと続く光の海を見つめ続けた。
ここが、俺の本当の居場所だ。
そして、二度と誰にも侵させない、俺たちの城なのだ。




