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第五話 金のない女に用はない

ザ・タワー・ロイヤル東京、一階ロビー。

天井高十メートルを超える開放的な空間には、イタリア製の大理石が敷き詰められ、壁面には著名なアーティストによる巨大なオブジェが飾られている。

ここは住人たちが優雅に出入りし、コンシェルジュが恭しく挨拶を交わす、選ばれし者たちの社交場だ。

だが、今のロビーの光景は、その優雅さとはかけ離れた異様なものとなっていた。


エントランスの中央付近。

積み上げられた数十個の段ボール箱の山。

そして、その横でへたり込んでいる、異様な出で立ちの男女。

一人はTシャツに短パン姿で、片方のサンダルが脱げている男。

もう一人は、高級ブランドのロゴが入ったバスタオルを頭から被り、その下からシーツを体に巻き付けただけの女。

どちらも髪はボサボサで、目は虚ろだ。


「……何よこれ。どうなってるのよ……」


玲奈は震える声で呟いた。

警備員たちに無理やりエレベーターに乗せられ、ここまで連れてこられた。

途中、何度か他の住人と鉢合わせた。スーツ姿のビジネスマンや、犬の散歩に向かうマダム。彼らが向ける、汚物を見るような目線。

「あら、まあ……」

「何事かしら?」

ひそひそ話と、好奇の視線。

それが玲奈のプライドを容赦なく削り取っていく。


「おい、どうすんだよこれ!」


ダイスケが苛立ちを隠さずに怒鳴った。

彼は警備員に腕を掴まれた痛みがまだ残っているのか、しきりに肩をさすっている。


「どうするって……私だって分かんないよ!」

「お前の彼氏だろ!? なんだよあいつ、マジでイカれてんのか!?」

「イカれてるのはあんたでしょ! 私をそそのかしたくせに!」


二人の罵り合いの声がロビーに響く。

コンシェルジュデスクの女性スタッフが、困り果てた表情でこちらを見ているが、助けに来る様子はない。

当然だ。高杉翔というこのマンションでも有数のVIP住人からの、「不退去の場合は警察を呼べ」という厳命が下っているのだから。


「……とりあえず、服。服着なきゃ」


玲奈は震える手で、積み上げられた段ボール箱の一つを開けた。

中には、彼女のクローゼットに入っていた服が乱雑に詰め込まれている。

シャネルのツイードジャケット、ヴィトンのワンピース、ディオールのニット。

どれも一着数十万円する高級品だ。

だが、今の彼女にはそれらがただの布切れにしか見えなかった。

着替える場所すらない。ロビーのトイレを使おうとしたら、警備員に「部外者の使用はお断りします」と冷たく遮られたのだ。


「くそっ、見てんじゃねーよ!」


ダイスケが通りがかりの住人を睨みつける。

だが、住人は冷ややかな視線を一瞬向けただけで、足早に去っていく。

ここでは、彼らは完全に異物だった。


「ねえ、ダイスケくん……どうしよう。私、家もお金もなくなっちゃった……」


玲奈は段ボールの山に寄りかかり、涙声で訴えた。

翔に渡されたブラックカードは没収された。財布は手元にあるが、中に入っているのは数千円の現金と、翔名義の家族カードだけ。

そのカードも、先ほど近くのコンビニで水を買いに行こうとしたダイスケが「使えねーぞこれ!」と投げつけてきたことで、利用停止されていることを知った。


「どうしようって、俺に聞くなよ」


ダイスケの声は冷たかった。

さっきまでベッドの中で「愛してる」だの「俺が守る」だの囁いていた男とは思えないほど、他人行儀な声色だ。


「だって……ダイスケくんが『俺と付き合えばいい』って言ったじゃない!」

「はあ? あんなのベッドトークに決まってんだろ。本気にしたのかよ、痛い女だな」


ダイスケは鼻で笑った。

その瞬間、玲奈の中で何かが音を立てて崩れた。


「……え?」

「お前さ、自分の立場わかってんの? お前自身には何の価値もないんだよ。タワマンに住んでて、金持ちの彼氏がいる。その『設定』があったから、俺は相手してやってたんだ」


ダイスケは残酷な真実を突きつけた。


「金のない、家もない、ただの寄生虫女なんて、誰が養うんだよ。重いだけだっつーの」

「そ、そんな……ひどい……」

「ひどいのはお前の頭の中身だろ。……あーあ、最悪だ。警察沙汰になる前にずらかるわ」


ダイスケはそう言うと、踵を返して出口へ向かおうとした。

玲奈は慌てて彼のTシャツの裾を掴んだ。


「待って! 行かないで! 一人にしないでよ!」

「離せよ! これ以上関わったら俺までヤバくなるだろ!」

「お願い! せめて、しばらく泊めて! 友達の家とかでもいいから!」

「無理に決まってんだろ! 俺のアパート、ワンルームだし。お前のその大量の荷物、どこに置くんだよ!」


ダイスケは玲奈の手を乱暴に振り払った。

玲奈はその勢いで段ボールの山にぶつかり、バランスを崩して床に倒れ込んだ。

頭から被っていたタオルが落ち、シーツがはだける。

下着姿があらわになり、ロビーにいた数人の視線が集まる。

羞恥心で顔が燃えるように熱い。


「きゃっ……!」

「へっ、ざまあみろ。じゃあな、二度と連絡してくんなよ!」


ダイスケは唾を吐き捨てるように言い残し、自動ドアの向こうへと走り去っていった。

一度も振り返ることなく。

玲奈は震える手でシーツをかき集め、うずくまった。


「うぅ……うぅぅ……」


嗚咽が漏れる。

広いロビーに、たった一人。

周りにあるのは、かつての栄華の残骸であるブランド品の山だけ。

それらは今や、彼女を慰めるものではなく、彼女の愚かさを嘲笑うガラクタでしかなかった。


「……お客様」


頭上から声が降ってきた。

顔を上げると、コンシェルジュの女性が立っていた。その表情は業務的で、氷のように冷たい。


「他のお客様のご迷惑になります。速やかにご退去ください。荷物につきましても、あと一時間以内に撤去されない場合、粗大ゴミとして処分させていただきます」

「処分……!? 待ってください、これ、全部で何千万円もするんです! 捨てないで!」

「でしたら、ご自身で移動の手配をお願いします。ここは倉庫ではありません」


コンシェルジュは淡々と告げ、元の持ち場へと戻っていった。

玲奈は途方に暮れた。

移動の手配?

トラックを呼ぶ金もない。運ぶ人手もない。

実家に電話しようかと思ったが、スマホを取り出して手が止まった。

実家は地方の田舎だ。

「東京で成功した彼氏とタワマン暮らし」と自慢して、親戚中に言いふらしていた。

今さら「浮気して追い出されました」なんて、口が裂けても言えない。親に勘当されるのがオチだ。


大学の友達は?

SNSを開く。キラキラした投稿ばかりが並ぶタイムライン。

彼女たちも、玲奈のことを「金持ちの彼女」としてチヤホヤしていただけだ。

「泊めて」なんて言ったら、どんな噂を流されるか分からない。

それに、この大量の荷物を持って転がり込めるような家なんて、学生の友達にはない。


八方塞がりだ。

完全なる詰み。


「翔くん……」


口をついて出たのは、裏切ったはずの男の名前だった。

優しかった翔。

何でも許してくれた翔。

いつも私のことを一番に考えてくれていた翔。

どうして、あんなに大切な存在を、あんな軽薄な男のために裏切ってしまったんだろう。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


後悔の念が押し寄せてくる。

だが、もう遅い。

翔はもう、彼女のことなど見ていない。

四十五階のあの部屋から、ゴミを見るような目で見下ろしているだけだ。


その時、自動ドアが開いて、数人の男たちが入ってきた。

カメラを持った男と、レポーター風の女性。

週刊誌の記者か、それともゴシップ系のYourTuberか。


「あ、いた! あれじゃない? タワマンから追い出されたっていう」

「うわ、マジで荷物山積みじゃん。映えそう」

「すみませーん! あなたが噂の浮気彼女さんですかー?」


彼らは遠慮なくカメラを向けてきた。

どこから情報が漏れたのか。

もしかしたら、住人の誰かがSNSに投稿したのかもしれない。

『タワマンロビーで修羅場なう』と。


「やめて! 撮らないで!」


玲奈はシーツで顔を隠し、段ボールの陰に隠れようとした。

だが、容赦ないフラッシュが彼女を襲う。


「彼氏さんのベッドで浮気したって本当ですか?」

「相手の男に逃げられたんですか?」

「今の気持ちは?」


矢継ぎ早に浴びせられる質問。

それは、彼女がかつてSNSで他人を見下し、マウントを取っていたことへの、強烈なしっぺ返しだった。

プライバシーも尊厳も、何もかもが剥ぎ取られていく。


「やめてぇぇぇぇぇ!」


玲奈の絶叫がロビーに響き渡る。

しかし、誰も助けてはくれない。

コンシェルジュも、警備員も、遠巻きに見ている住人たちも。

誰もが「自業自得だ」という顔で、彼女の転落劇を眺めているだけだった。


その騒ぎの中、一台の黒塗りのハイヤーがエントランスの車寄せに滑り込んできた。

後部座席から降りてきたのは、ビシッとスーツを着こなした高杉翔だ。

その隣には、彼を支えるように並ぶ佐伯沙織の姿もある。


記者たちが色めき立つ。

「あ、彼氏さんだ!」

「高杉社長!」


翔は一瞬だけ、ロビーの惨状に目をやった。

段ボールの陰で震える玲奈と目が合う。


「翔くん……!」


玲奈は縋るような目で彼を見つめた。

助けて。この悪夢から救い出して。

まだ間に合うよね? まだやり直せるよね?


だが、翔の瞳には、憐れみすら浮かんでいなかった。

彼は無表情のまま視線を外し、佐伯に何かを囁いた。

佐伯が頷き、記者たちに向かって手を挙げる。


「申し訳ありませんが、取材はお断りしております。また、当マンション敷地内での無許可の撮影はご遠慮ください。これ以上続ける場合は、法的措置を取らせていただきます」


凛とした声が響く。

記者たちが怯んだ隙に、翔と佐伯は颯爽とエレベーターホールへと向かっていく。

玲奈の前を通り過ぎるその瞬間、翔は立ち止まることも、声をかけることもなかった。

まるで、そこに誰もいないかのように。

ただの風景の一部として、彼女を無視して通り過ぎた。


「待って……翔くん……!」


玲奈が伸ばした手は、空を切った。

エレベーターの扉が閉まる直前、佐伯がこちらを振り返った。

その目は、かつて玲奈に向けられていた軽蔑よりも、もっと残酷な「無関心」の色をしていた。


チン、という音がして、エレベーターが上昇を始める。

彼らは再び、天空の城へと戻っていく。

玲奈の手の届かない、遥か彼方の場所へ。


「ああ……あぁ……」


玲奈はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

もう二度と、あの場所には戻れない。

あの温かいベッドも、美味しい食事も、優しい笑顔も。

すべて、自分の手で壊してしまったのだ。


「誰か……助けて……」


ロビーの冷たい大理石の上で、彼女の嗚咽だけが虚しく響き続けていた。

やがて、管理会社が手配した廃品回収業者のトラックが到着する。

「これ、全部処分でいいんですね?」

作業員の声が無慈悲に響く。

玲奈は何も答えられなかった。

彼女の「幸せ」だった残骸が、次々とトラックの荷台に放り込まれていくのを、ただ呆然と見送るしかなかった。


空は皮肉なほどに青く晴れ渡り、タワーマンションのガラス壁面がキラキラと輝いている。

それは、成功者たちだけが見ることのできる輝き。

今の彼女には、あまりにも眩しすぎて、目を焼かれるような光だった。


玲奈は裸足のまま、東京の冷たいアスファルトの上へと、よろめきながら歩き出した。

行くあてなど、どこにもないのに。

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