第四話 ロビーへの追放宣告
午前五時三十分。
その瞬間は、まるで爆発のように訪れた。
「実行」
俺がエンターキーを叩くと同時に、静寂に包まれていた寝室がカオスへと変貌した。
まず、遮光等級一級の重厚なカーテンとブラインドが、モーター音を唸らせて一斉に巻き上がった。東の空から差し込む鋭利な朝日が、薄暗い部屋を暴力的に照らし出す。
同時に、天井に埋め込まれたダウンライトと間接照明が、最大光量である「全灯」モードで点灯した。手術室のような白く強烈な光が、網膜を灼く勢いで降り注ぐ。
そして、トドメの音響。
部屋の四隅に配置されたハイエンドスピーカーから、非常警報のような不協和音のアラームが、最大ボリュームで炸裂した。鼓膜が破れそうなほどの轟音だ。
「きゃああああああああ!」
「うわっ!? な、なんだ!?」
寝室から、悲鳴と怒号が聞こえてくる。
俺はリビングのソファに深く腰掛けたまま、その騒ぎを冷ややかに聞いていた。手元のタブレット端末には、パニック状態でベッドから転げ落ちる二人の姿が映し出されている。
裸のまま床を這いずり回り、何が起きたのか理解できずに狼狽える姿は、滑稽としか言いようがない。
「火事か!? おい、起きろ!」
「目が、目が痛い! 何これ、どうなってるの!?」
ダイスケがシーツを体に巻き付けながら、部屋を飛び出してくる。その後ろから、目を押さえた玲奈がよろめきながら続いてきた。
二人はリビングに飛び込むなり、ソファに座る人影――俺の存在に気づき、凍りついたように立ち止まった。
「……おはよう。随分と賑やかなお目覚めだな」
俺は手元の操作でアラームを停止させた。
突然訪れた静寂が、かえって耳鳴りを誘う。
二人は肩で息をしながら、呆然と俺を見つめていた。
「しょ、翔くん……?」
玲奈の声が震えている。
状況が飲み込めていないのだろう。なぜ大阪にいるはずの俺がここにいるのか。なぜ自分たちが裸同然で立ち尽くしているのか。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼らを見下ろした。
「一週間ぶり……いや、数時間ぶりと言うべきか。昨夜の配信、楽しませてもらったよ」
「は……?」
「誰だお前! 人の家で何してやがる!」
ダイスケが虚勢を張って怒鳴った。状況を理解できていない馬鹿な頭でも、とりあえず威嚇しなければという本能が働いたらしい。
俺は鼻で笑った。
「人の家? その言葉、そのままお返しするよ。ここは俺の家だ。そして君は、俺のベッドに土足で上がり込んだ泥棒猫だ」
「なっ……こいつが、彼氏……?」
ダイスケが玲奈の方を見る。玲奈は顔面蒼白になり、唇を震わせていた。
彼女の脳内で、ようやく事態が繋がり始めたようだ。
翔が帰ってきた。浮気がバレた。
「ち、違うの! 翔くん、これは……その、誤解で!」
「誤解?」
俺は眉をひそめてみせた。
まだそんな古典的な言い訳が通じると思っているのか。
「私の友達がね、泊まりに来てて……そう、飲みすぎて気分が悪くなっちゃって、介抱してただけなの!」
「介抱か。なるほど」
俺はテーブルの上のリモコンを手に取った。
壁一面に設置された八十インチの4Kモニターに向けて、ボタンを押す。
「じゃあ、この『介抱』について説明してもらえるか?」
画面に映し出されたのは、数時間前の映像だ。
高画質の4K映像が、二人の汚らわしい行為を鮮明に再生する。
音声もしっかりと流れる。
『あはっ、翔くんと全然違う!』『あんなガリ勉のオタクと一緒にすんなよ』『ATM』『つまんない男』。
二人が吐いた暴言の数々が、大音量でリビングに響き渡った。
「…………っ!」
玲奈の喉から、ひきつけのような音が漏れた。
彼女はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。言い逃れなどできるはずがない。あまりにも完璧な証拠だ。
ダイスケも口をパクパクとさせ、顔を赤くしたり青くしたりしている。
「おい……これ、盗撮じゃねーか! 訴えてやるぞ!」
ダイスケが震える指で俺を指差した。
窮地に陥った人間が出す、ありきたりな切り返しだ。
「盗撮? ここは俺の自宅だ。防犯カメラの設置は契約書にも明記してあるし、同居人の玲奈も同意済みだ。君が無断で侵入し、勝手に不貞行為を働いただけだろう」
「ふ、ふざけんな! 俺は招待されたんだよ!」
「そうか。だが、契約者の俺は許可していない」
俺は冷徹に言い放ち、一歩前に進み出た。
ダイスケがビクリと後ずさる。
「さて、状況確認はこれで十分だろう。本題に入ろうか」
俺は玲奈を見下ろした。
彼女は床を見つめたまま、小刻みに震えている。
「相原玲奈。ただいまをもって、君との同棲契約、および交際関係を破棄する。理由はもちろん、契約違反と背信行為だ」
「や……やだ……」
玲奈が顔を上げた。その目は涙で溢れていたが、俺の心はピクリとも動かなかった。
「翔くん、ごめんなさい! 魔が差したの! 本当に愛してるのは翔くんだけなの! お願い、捨てないで!」
「愛している? 俺をATMと呼び、つまらないと嘲笑っていた口でよく言えるな」
「あれはその場のノリで……本心じゃないの! お酒が入ってたから!」
「酒が入れば本音が出る、とはよく言ったものだ。君の本心は、あのビデオの中に全て記録されている」
俺は冷たく突き放した。
彼女が愛していたのは俺ではなく、俺が提供する「快適な生活」だ。それが失われる恐怖で泣いているに過ぎない。
「荷物はまとめておいた」
俺の言葉に、玲奈がハッとした表情を浮かべた。
彼女は周囲を見回し、ようやく部屋の異変に気づいたようだ。
リビングにあったはずの彼女の私物がない。ブランド物のバッグも、メイク道具も、読みかけの雑誌も。
「え……?」
「クローゼットの中も空だ。君の私物は全て、引越し業者が丁寧に梱包して搬出した」
「嘘……私のバーキンは? 新作の服は!?」
彼女は裸足のままクローゼットへ走った。
そしてすぐに、悲鳴のような声を上げて戻ってきた。
「ない! 何もない! どこにやったの!?」
「一階のロビーだ。エントランスのど真ん中に積み上げてあるよ。今頃、早起きの住人やコンシェルジュたちが、『何の騒ぎだ』と見物している頃だろうな」
玲奈の顔から血の気が引いていくのが分かった。
タワーマンションのロビー。そこは彼女にとって、マウントを取るための主戦場であり、自尊心を満たす場所だったはずだ。
そこに、自分の荷物がゴミのように積み上げられている。
それは彼女にとって、死刑宣告にも等しい恥辱だろう。
「ひどい……どうしてそんなことするの……」
「ひどい? 俺の家で別の男と寝て、俺を侮辱した君がそれを言うのか?」
俺はため息をつき、腕時計を見た。
「さて、そろそろ時間だ。出て行ってもらおう」
「待ってよ! 今すぐ出ていけって言われても、着る服もないじゃない!」
「シーツでも巻いていけばいい。それとも、その男の服でも借りるか?」
「そんな……お願い、翔くん! 反省するから! 何でもするから!」
玲奈が俺の足に縋り付こうとした。
その薄汚れた手が俺のズボンに触れる寸前、俺は一歩下がって避けた。
「触るな。汚らわしい」
その一言は、物理的な暴力以上に彼女を打ちのめしたようだった。
玲奈の手が空を切り、床に落ちる。
「おい、てめぇ! 女の子になんてこと言いやがる!」
ダイスケがここぞとばかりに男気を見せようと、俺に掴みかかろうとしてきた。
だが、その拳が届くことはなかった。
「確保!」
俺の後ろから、低い声が響いた。
大野さんを筆頭に、屈強な警備員四名がリビングになだれ込んでくる。
彼らは手慣れた動きでダイスケを取り押さえ、その腕を背後に捻り上げた。
「いっ……てええ! 何すんだ離せ!」
「暴れないでください。不法侵入および住居侵入の現行犯として警察に通報済みです」
大野さんが事務的に告げる。
「警察」という単語が出た瞬間、ダイスケの威勢の良さは消し飛んだ。
「け、警察!? 待ってくれ、俺はただ誘われただけで……!」
「詳しい話は署で聞いてもらいます。ここでは他の住人の迷惑になりますので」
ダイスケは情けなく喚きながら、警備員二人に引きずられていった。
残されたのは、へたり込んだ玲奈だけだ。
彼女は呆然と連行される男を見送り、そして俺を見上げた。
「翔くん……嘘だよね? ドッキリだよね?」
「現実だ、玲奈。君が選んだ現実だ」
俺は彼女に向かって、最後通告を行った。
「今すぐこの部屋から出ていけ。カードキーも生体認証も全て無効化した。二度とこのフロアに足を踏み入れることはできない」
「嫌だ……嫌だよぉ! 私、行くところなんてない! 実家にも帰れないし、お金だって……」
「知ったことか。君には『刺激的な』新しい彼氏がいるじゃないか。彼に頼ればいい」
「あんなの彼氏じゃない! ただの遊び相手よ!」
「そうか。じゃあ、遊びの代償を払う時が来たってことだ」
俺が大野さんに目配せをすると、残りの警備員が玲奈に近づいた。
「相原様、退去をお願いします」
「嫌! 離して! 翔くん、助けて! 許してよぉ!」
警備員に両脇を抱えられ、玲奈は無理やり立ち上がらされた。
彼女は半狂乱になって暴れるが、鍛え上げられたプロには敵わない。
シーツを体に巻き付けただけの惨めな姿で、彼女はズルズルと廊下へ引きずられていく。
「翔くん! 愛してるの! お願い、捨てないでぇぇぇ!」
その叫び声は、廊下の奥へと遠ざかっていった。
俺は一歩も動かず、その背中を見送った。
かつては愛おしいと思っていたその後ろ姿に、今は何の感情も湧かない。
ただ、処理が完了したという安堵感だけがあった。
「高杉様、お怪我はありませんか?」
最後に残った大野さんが、気遣わしげに声をかけてくれた。
「ええ、大丈夫です。……汚いものをお見せして申し訳ありませんでした」
「いいえ。仕事ですから」
大野さんは一礼し、静かに部屋を出て行った。
重厚な玄関ドアが閉まる音が、静寂の帰還を告げる。
俺は一人、広くなったリビングに残された。
朝日が部屋の隅々まで照らし出している。
ゴミのような人間たちと、その痕跡が消え去った部屋は、驚くほど清々しかった。
「……さて」
俺はスマホを取り出し、クリーニング業者を手配した。
ソファも、ラグも、ベッドも、全て処分して買い換える必要がある。
金はかかるが、構わない。新しい人生を始めるための必要経費だ。
それから、佐伯にメッセージを送った。
『処理完了。害虫は駆除された』
すぐに既読がつき、短い返信が来る。
『お疲れ様でした。弁護士チームを待機させています。彼らが接触してきた場合、即座に対応します』
俺は小さく息を吐き、窓際に立った。
四十五階からの景色は、昨日までとは違って見えた。
眼下に広がる東京の街並み。そのどこかの路上に、今まさに二人が放り出されようとしている。
エレベーターが降下する音が、壁越しに微かに響いた気がした。
それは、彼らが「成功者の世界」から「底辺」へと叩き落とされる音だ。
俺は冷蔵庫から新しいミネラルウォーターを取り出し、一口飲んだ。
味は変わらないはずなのに、今までで一番美味く感じた。
しかし、物語はここで終わりではない。
物理的に追い出しただけでは、まだ足りない。
彼らが味わうべき「地獄」は、ここからが本番なのだ。
一階のロビーで待ち受ける現実。そして、金と信用を失った彼らが辿る末路。
それを見届けるまでは、俺の復讐は終わらない。
俺はクローゼットの奥から、出張用の予備のスーツを取り出した。
シャワーを浴びて、着替えよう。
今日はこれから、大事な会議がある。
つまらない男と言われた俺が、どれだけの力を持っているか、社会というフィールドで証明し続けなければならない。
俺は背筋を伸ばし、朝日の中へと歩き出した。
その顔にはもう、迷いも悲しみもなかった。




