第三話 静寂の帰還と梱包作業
午前二時四十五分。
東京駅に滑り込んだ最終の新幹線から降り立った俺は、足早にタクシー乗り場へと向かった。
深夜の駅構内は静まり返り、清掃員のモップが床を擦る音だけが響いている。その無機質な音が、冷え切った俺の心と妙にリンクしていた。
「港区の……ザ・タワー・ロイヤル東京まで」
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。運転手はバックミラー越しに俺の顔を一度だけ見て、心得たようにアクセルを踏み込んだ。
車窓を流れる東京の街並みは、いつものように煌びやかだ。だが、今の俺にはその光がすべて、虚飾にまみれた偽物のように見えた。
ポケットの中のスマートフォンが短く震える。佐伯からのメッセージだ。
『業者の手配、完了しています。セキュリティチームと共に三時にエントランス待機とのこと。私も現地へ向かおうとしましたが……』
『いや、佐伯は来なくていい。これは俺のプライベートな不始末だ。お前を巻き込むわけにはいかない』
『……承知しました。ですが、何かあればすぐに。法的措置の書類は全てクラウドにアップしてあります』
本当に、彼女は優秀すぎる。
俺は短く礼を返し、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、あのモニター越しに見た光景。俺のベッドで、俺の知らない男と笑い合う玲奈の顔。
怒りはもう通り越していた。今、胸にあるのは、システムに混入したバグを処理する時のような、冷徹な義務感だけだ。
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で現実に引き戻される。
見上げれば、夜空を突き刺すような巨塔。俺が「成功の証」として手に入れたタワーマンションが、威圧的にそびえ立っていた。かつては誇らしく見えたその姿も、今は汚された城にしか見えない。
エントランスの自動ドアをくぐると、ロビーのソファから数人の男たちが立ち上がった。
全員、黒い作業着に身を包んでいる。引越し業者の「ナイト便・シークレットプラン」のスタッフたちだ。深夜の夜逃げや、訳ありの退去を専門に請け負うプロフェッショナル集団である。
そしてその横には、このマンションの警備責任者である大野さんが、厳しい表情で立っていた。
「高杉様、この度は……」
「夜分にすまない、大野さん。事情は佐伯から聞いていると思うが」
「ええ、概略は。……心中お察しします」
大野さんは言葉少なに、しかし深く同情するように頷いた。
彼は元警察官で、口が堅いことで有名な男だ。俺が提供した防犯カメラの映像データを見て、事態の深刻さを理解してくれたのだろう。
入居者のプライバシーは絶対だが、契約者本人である俺の要請となれば話は別だ。ましてや、不法侵入者が絡んでいるとなれば、管理側としても看過できない。
「作業の手順を確認します」
俺は業者たちに向き直り、冷静に指示を出した。
「ターゲットは寝室で就寝中です。決して起こさないように。作業は迅速かつ静粛に。リビング、およびクローゼットにある『女性物』を全て段ボールに詰めてください。化粧品、衣類、靴、バッグ、アクセサリー。一つ残らずです」
「了解しました。音を出さない梱包資材を用意しています」
リーダー格の男が短く答える。
俺は頷き、エレベーターの呼び出しボタンを押した。
四十五階への直通エレベーター。上昇するにつれて耳がツンとする気圧の変化を感じながら、俺は自分の感情のスイッチを完全にオフにした。
ここから先は、情など不要だ。ただの「排除作業」だ。
チン、という電子音と共にエレベーターの扉が開く。
最上階はワンフロア全てが俺の部屋だ。長い廊下を進み、重厚な玄関ドアの前に立つ。
俺はスマートフォンを取り出し、「Home OS」を起動した。
『Welcome Home, Master.』
画面に表示された文字が、皮肉めいて見える。
俺は「静音モード」でスマートロックを解除した。
カチリ、という微かな音が響き、ロックが外れる。
俺は深く息を吸い込み、ドアノブを回した。
開けた瞬間、鼻をついたのは、甘ったるい香水と、鼻にツンとくるアルコールの臭いだった。
いつもは空調が行き届き、清潔な無臭に保たれているはずの玄関が、淀んだ空気で満たされている。
靴箱の前には、脱ぎ散らかされたハイヒールと、見知らぬ男の汚れたスニーカー。
揃えることすらされていないその惨状に、眉間の皺が深くなる。
「……入ってくれ」
背後のスタッフたちに手で合図を送り、俺は靴を脱がずに土足のままリビングへと踏み込んだ。
この部屋はもう、俺の聖域ではない。靴を脱ぐ敬意すら払う必要はない。
リビングの惨状は、カメラで見た以上だった。
イタリア製の白いレザーソファには、ワインのシミが赤黒く広がっている。床にはスナック菓子の袋が散乱し、テーブルの上には飲みかけのシャンパングラスと、ピザの空き箱。
壁に掛けてあった絵画――俺が投資用に買った現代アート――が少し傾いているのを見て、苛立ちが込み上げる。
「ひどいですね……」
後ろについてきた大野さんが、小声で呟いた。
俺は無言で頷き、寝室のドアを指差した。
「あの中だ。……まだ起きる気配はない」
手元のスマホでセンサー情報を確認する。
心拍数、呼吸数ともに安定。深いレム睡眠に入っている。泥酔して、さらに事後の疲労もあってか、二人は泥のように眠りこけているようだ。
好都合だ。
「始めてくれ」
俺の号令と共に、スタッフたちが動き出した。
彼らはまるで幽霊のように足音を立てず、手際よく作業を開始する。
一人が持参した特殊な緩衝材――プチプチと音の出ないタイプのもの――を広げ、別の二人が玲奈の私物を次々と回収していく。
まずはリビングに散乱している彼女の私物からだ。
ソファに脱ぎ捨てられたカーディガン。テーブルの上のポーチ。充電器。
それらが次々と段ボール箱という名の棺桶に放り込まれていく。
丁寧に畳む必要はない。詰め込むだけでいいと指示してある。
俺はその様子を横目に、寝室のドアをそっと開けた。
薄暗い部屋の中、キングサイズのベッドで二つの塊が蠢いている。
掛け布団から剥き出しになった男の足。その横で、男の腕に絡みつくようにして眠る玲奈。
その顔は、幸せそうに緩んでいる。
俺が汗水垂らして働いている間、こいつらはここで快楽を貪り、そして今は何の憂いもなく眠っている。
(……このまま叩き起こしてやりたい)
そんな衝動が頭をもたげる。怒鳴りつけ、水をぶっかけ、そのふざけた面を歪ませてやりたい。
だが、俺はそれをぐっと堪えた。
今起こせば、ただの痴話喧嘩になる。
「ごめんなさい、魔が差したの」「もう二度としないから」
そんな言い訳を聞かされるのは御免だ。
俺が望むのは、謝罪ではない。完全なる断絶と、社会的抹殺だ。
俺はスタッフの一人を手招きし、クローゼットを指差した。
そこは、玲奈が「私の宝物庫」と呼んでいた場所だ。
俺が買い与えたエルメスのバーキン、シャネルのマトラッセ、ルブタンのヒール。
総額にして数千万円は下らないコレクションが並んでいる。
「全部だ。ハンガーごといけ」
小声で指示を出すと、スタッフは心得たように頷き、次々とブランド品を箱に詰めていく。
普段なら指紋一つつけないように扱う高級品が、まるでリサイクルショップの処分品のように雑に扱われていく。
玲奈が見たら発狂するだろう光景だ。
だが、それらは全て俺の金で買ったものだ。所有権は俺にある。どう扱おうと俺の勝手だ。
「……社長、これもですか?」
スタッフが掲げたのは、二人の記念日に俺がプレゼントした、ダイヤのネックレスだった。ドレッサーの上に無造作に置かれていたものだ。
俺は一瞬だけ目を細め、それから冷たく言い放った。
「ああ。それはゴミだ。ゴミ袋に入れてくれ」
「……了解しました」
思い出の品など、裏切りという事実の前では何の価値もない。
ただの炭素の塊だ。
作業は一時間ほどで大詰めを迎えた。
リビングの一角に、山のような段ボール箱が積み上げられていく。
部屋からは「相原玲奈」という人間の色彩が急速に失われ、無機質なモデルルームのような状態に戻りつつあった。
残っているのは、寝室のベッドで眠る彼女自身と、その着ている服だけ。
「高杉様、荷物の搬出準備、整いました。これらを全て、一階のロビーへ?」
「ああ。エレベーターを占有して構わない。全てロビーの真ん中に積み上げてくれ。……住民の皆さんの邪魔にならない程度に、しかし、誰の目にも留まるようにな」
「承知しました。少々悪趣味ですが……ご依頼通りに」
リーダーが苦笑いを浮かべながら、部下たちに搬出の指示を出す。
箱が一つ、また一つと運び出されていく。
俺はその背中を見送りながら、ソファに深く腰掛けた。
ここからが、仕上げだ。
俺はノートパソコンを開き、Home OSの管理者コンソールにアクセスした。
画面には、複雑なコードと設定項目が並んでいる。
俺はキーボードを叩き、最終的な設定変更を実行していく。
『ユーザーID:RENA_AIHARA を削除しますか? [YES/NO]』
指が迷うことなくエンターキーを叩く。
『削除完了。これより、当該IDによる生体認証、スマートキー操作は全て無効化されます』
次に、Wi-Fiの接続制限リストに彼女のデバイスMACアドレスを追加。
これで彼女のスマホは、この部屋のネットワークに繋がらない。
さらに、クレジットカード会社のマイページを開く。
家族カードとして渡していたブラックカードの利用停止手続き。
理由を選択する項目で、俺は無表情のまま「紛失・盗難」を選んだ。
嘘ではない。俺の信頼という財産が盗まれたのだから。
最後に、スマートホームの「環境設定」をいじる。
現在時刻は午前四時過ぎ。
東の空が白み始めるまで、あと少し。
「照明設定……『覚醒モード』。照度最大。色温度六千ケルビン」
「ブラインド設定……『全開』」
「オーディオ設定……『アラーム』。音量最大」
すべてのトリガーを「午前五時三十分」にセットする。
それは、彼女たちが強制的に現実へ引き戻される時刻だ。
パソコンを閉じ、俺はワインセラーから一本のミネラルウォーターを取り出した。
喉が渇いていた。
冷たい水で喉を潤しながら、俺は静かに寝室の方を見やる。
中からは、まだ微かな寝息が聞こえてくる。
(幸せそうだな、本当)
あと一時間もしないうちに、お前たちは全てを失う。
住む場所も、着る服も、金も、そして俺という後ろ盾も。
裸の王様ならぬ、裸の寄生虫として、朝の光の中に晒されるのだ。
「……大野さん」
「はい」
入り口で待機していた大野さんが近づいてくる。
「五時半になったら、警察に通報する準備をお願いします。名目は『不法侵入者および、退去に応じない居座り』だ」
「……そこまでやりますか」
「慈悲は捨てました。彼らは私の尊厳を踏みにじった。これくらいの報いは受けてもらわないと、割に合わない」
「わかりました。我々も、万全の体制でサポートします」
大野さんは敬礼のような仕草を見せ、無線で部下たちに配置につくよう指示を出した。
屈強な警備員たちが、廊下とエレベーターホールを固める。
これで、逃げ場はない。
俺はソファに足を組み、窓の外を見つめた。
空の色が、群青色から徐々に紫色へと変わり始めている。
美しい夜明けだ。
これから始まる断罪劇の幕開けに相応しい、清々しい朝焼け。
俺は静かに目を閉じ、その時を待った。
心臓の鼓動は、驚くほど穏やかだった。
怒りはもう燃え尽き、後に残っているのは、氷のように冷たく、鋭利な決意だけ。
「さようなら、玲奈」
その呟きは、誰に届くこともなく、広いリビングの空気に溶けて消えた。
そして、運命の五時三十分へと、時計の針は無情に進んでいく。
カチッ、カチッ、カチッ。
壁掛け時計の秒針の音が、まるで時限爆弾のカウントダウンのように部屋に響き渡っていた。




