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第二話 通知された裏切り

大阪のビジネスホテルの一室。

空調の低い駆動音だけが響く無機質な空間で、俺、高杉翔は、手の中にあるスマートフォンを凝視していた。

画面の向こうには、俺の東京の自宅、その寝室が映し出されている。

指先が微かに震えているのがわかった。怒りか、悲しみか、それとも現実を受け入れられない拒絶反応か。自分でも感情の整理がつかないまま、ただ呆然とその光景を見つめ続けるしかなかった。


『通知:主寝室にて高心拍数を検知しました』

『通知:ベッドセンサーが複数の生体反応を確認』

『通知:音声レベルが規定値を超えています』


無慈悲なほど正確に、俺が開発したシステム「Home OS」が現実を突きつけてくる。

俺が「住人の健康管理」と「快適な睡眠」のために実装した機能が、皮肉にも、最愛の恋人が他の男と情事に耽っている証拠をリアルタイムで収集するツールと化していた。


画面の中では、俺がこだわって選んだキングサイズのベッドが、汚らわしい行為の舞台となっていた。

シモンズの最高級マットレス。肌触りの良いエジプト綿のシーツ。

「これなら翔くん、毎日ぐっすり眠れそうだね」

そう言って微笑んでいた玲奈の顔が脳裏をよぎり、今の画面の中の、獣のように喘ぐ彼女の表情と重なる。

吐き気がした。

胃の奥から熱いものがこみ上げ、俺は洗面所に駆け込みそうになるのを必死で堪えた。

見るな。消せ。これ以上見たら、心が壊れる。

本能がそう警告している。だが、理性がそれを許さなかった。

「見届けろ」と、もう一人の自分が囁く。

これはバグではない。エラーでもない。直視すべき「事実」だ。エンジニアなら、事実から目を逸らすな。証拠を集めろ。再現性を確認しろ。そして、原因を特定して排除しろ。


俺は震える指でイヤホンを耳に押し込み、音声のボリュームを上げた。


『あはっ、ダイスケくん、すごい……っ! 翔くんと全然違う……!』

『当たり前だろ? あんなガリ勉のオタクと一緒にすんなよ』


ノイズキャンセリング機能が周囲の静寂を作り出し、その分、二人の会話が脳髄に直接響くようにクリアに聞こえてくる。


『でもさー、このベッドすげーな。めちゃくちゃ跳ねるじゃん』

『でしょ? 百万円以上するんだって。バカみたいだよね、寝るだけの家具にそんなお金かけて』

『マジ? 百万? うわ、俺ら今、百万の上でヤッてんの? 興奮するわー!』


男――ダイスケという名のヤリサー代表の下卑た笑い声。

それに呼応して、玲奈が甘ったるい声を上げる。


『翔くんね、こういうのこだわりの塊なの。「睡眠の質が仕事のパフォーマンスを決める」とか言って。意識高い系っていうか、ほんとつまんない』

『あー、いるいるそういう奴。金持ってるアピールが痛いんだよな』

『そうなの! ブランド物とかプレゼントしてくれるのはいいんだけど、いちいち講釈垂れるし。正直、話してて眠くなるんだよね』


言葉の刃が、無防備な俺の心を滅多刺しにしていく。

つまらない。痛い。眠くなる。

俺が彼女のために語った夢も、二人の将来のための健康管理も、彼女にとってはただの「退屈な説教」でしかなかったのか。

俺が必死に働いて得た金で買った家具も、彼女にとっては嘲笑の対象でしかないのか。


『じゃあさ、玲奈ちゃんはどうしてあいつと別れないの? 俺と付き合えばいいじゃん』

『えー、だってぇ……ダイスケくん、お金ないでしょ?』


玲奈のあっけらかんとした声に、ダイスケが一瞬言葉を詰まらせ、それから乾いた笑い声を上げた。


『うっわ、ハッキリ言うねえ』

『だって事実だもん。このタワマンの家賃、月八十万だよ? ダイスケくんに払える? 無理でしょ』

『ぐっ……痛いとこ突くねえ』

『だから、翔くんは必要なの。私にとっての便利な「お財布」兼「家主」さん。優しくて、文句も言わずに働いてくれて、私が欲しいものは何でも買ってくれる。こんな優良物件、手放すわけないじゃん』


お財布。家主。優良物件。

そこに「恋人」としての情愛は欠片もなかった。

俺は、ただの機能として評価されていたのだ。

ATMとしての機能。住居としての機能。

俺の人間性、俺の愛情、俺という存在そのものは、彼女にとってはどうでもいいノイズでしかなかった。


『なるほどねー。賢い生き方だわ。尊敬する』

『ふふっ、でしょ? だから、ダイスケくんは「刺激担当」ね。翔くんがいない間に、たっぷり私を楽しませて?』

『オーケー、任せとけよ。その代わり、この部屋の酒とか飲み放題な?』

『もちろん! 冷蔵庫にある高いシャンパン、全部開けちゃお! どうせ翔くん、味の違いなんて分かんないし、減ってても気づかないよ』


ブツン、と頭の中で何かが切れる音がした。

悲しみという感情が、急速に冷えて固まっていく。

ドロドロとした熱い感情が、鋭利で硬質な氷のような「殺意」へと変質していくのを感じた。


気づかない?

味の違いが分からない?

俺がどれだけ苦労して、あのヴィンテージワインを手に入れたと思っている。

二人の記念日に開けようと思って、大切に保管していたものを。

それを、お前たちは……。


画面の中で、ダイスケがサイドテーブルに置いてあったワインボトルを手に取り、ラッパ飲みをする。

赤い液体が口元から溢れ、純白のシーツに染みを作った。


『うわ、こぼしちゃった』

『あーあ。まあいっか、後でクリーニング出せばいいし。それより続きしよ?』

『だな。この部屋の主に見せつけるように汚してやろうぜ』


二人は再び重なり合い、シーツのシミを広げていく。

俺はもう、目を逸らさなかった。

瞬き一つせず、その光景を網膜に焼き付けた。

記録しろ。記憶しろ。

これが「相原玲奈」という人間の本性だ。

俺が愛し、信じ、守ろうとした女の正体だ。

美化された思い出など捨てろ。

「売れない頃から支えてくれた」? 違う。

あいつは俺が成功する可能性に賭けていただけだ。投資対象として見ていただけだ。

そして今、そのリターンを搾取しながら、背後で舌を出して嘲笑っている。


「……上等だ」


口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど低く、冷たい響きを持っていた。

俺の中で、スイッチが切り替わった。

「高杉翔」という一人の人間としての感情スイッチを切り、「システム管理者」としての冷徹な執行スイッチを入れる。

バグは修正しなければならない。

悪質なウイルスは、駆除しなければならない。

システム(俺の人生)の健全性を保つために。


その時、スマホの上部に通知バナーが表示された。

『データ保全完了:クラウドストレージ[SECURE_BOX]にアップロードしました』

佐伯からのメッセージだ。


俺はカメラアプリをバックグラウンドに回し、佐伯とのチャット画面を開いた。


『佐伯、確認した』

『……ご覧になりましたか』

『ああ。全部な。音声もクリアに聞かせてもらったよ』


数秒の間が空き、佐伯から返信が来る。

その文字の向こうに、彼女の沈痛な面持ちが透けて見えるようだった。


『心中お察しします。……それで、どうされますか? 明日の会議はキャンセルしますか? 精神的に辛いようでしたら……』

『いや、会議は予定通り行う』


俺は迷わず入力した。

ここで俺が崩れれば、それこそあいつらの思う壺だ。「つまらない男」のままで終わってしまう。


『仕事には穴を開けない。それが俺のプライドだ。……だが、会議が終わり次第、俺は東京に戻る』

『東京に? 出張はあと五日残っていますが』

『残りの工程はリモートで十分対応できる。それに、緊急の「害虫駆除」が必要になったからな』


画面の向こうで、佐伯が小さく息を呑むのが分かった気がした。

彼女は優秀だ。俺が何をしようとしているのか、正確に理解しているはずだ。


『……承知いたしました。帰りの新幹線の手配をしておきますか?』

『頼む。最短で帰れるやつを。それと、佐伯にお願いがある』

『何なりと』

『俺のマンションの管理会社と、契約しているセキュリティ会社。それから、いつも頼んでいる引越し業者の「緊急対応プラン」の枠を押さえてくれ』

『引越し業者……ですか?』

『ああ。荷物を運び出す必要がある。……「産業廃棄物」をな』


短い沈黙の後、佐伯から力強い返信が届いた。


『かしこまりました。全て手配いたします。……社長、一つだけよろしいですか』

『何だ?』

『情けは無用です。徹底的にやってください。私が法的なリスク管理も含めて、全力でサポートします』


その言葉に、俺の口元が自然と歪んだ。

皮肉なものだ。

恋人だと思っていた女が俺を裏切り、ビジネスパートナーだと思っていた女性が、俺の心の傷を一番理解し、支えてくれている。

俺は今まで、何を見ていたんだろうな。


『ありがとう、佐伯。頼りにしてる』


チャットを閉じ、再びカメラ映像に切り替える。

二人は行為を終えたのか、だらしなく手足を投げ出して眠りに落ちていた。

高いシャンパンの空き瓶が床に転がり、高価なラグを濡らしている。

平和な寝顔だ。

自分たちがこれから迎える地獄など、微塵も想像していない顔だ。


俺はスマホの操作パネルを開き、「Home OS」の設定画面に入った。

「管理者権限」の項目をタップする。

そこには、「サブユーザー:相原玲奈」の名前がある。

俺は迷うことなく、その横にある設定ボタンを押した。


『生体認証データの削除』

『スマートロック権限の剥奪』

『ゲスト招待権限の無効化』


一つずつ、確実に、彼女がこのタワマンで享受していた特権を剥ぎ取っていく。

だが、まだ「反映」ボタンは押さない。

今締め出しても、中で眠っているあいつらを追い出すのに手間取るだけだ。

警察を呼べば不法侵入で捕まえることはできるが、それでは生温い。

それでは、俺の気が済まない。


最高のタイミングで、最大の絶望を与えてやる。

天国から地獄へ叩き落とすには、演出が必要だ。


「精々いい夢を見ておけよ」


画面の中の二人に語りかける。

時刻は深夜二時を回っていた。

二人が泥のように眠っている間に、俺は帰還する。

そして、目が覚めた時、そこはもう彼女が知っている「甘いお城」ではない。


俺はベッドから立ち上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干した。

冷たい水が、火照った体に染み渡る。

頭はかつてないほど冴えていた。

プログラムのバグを見つけた時の、あの感覚に似ている。

原因は特定された。あとは修正パッチを当てるだけだ。


俺はノートパソコンを開き、引越しの段取りと、これからの行動フローを書き出し始めた。

感情に任せて暴れるのは三流だ。

一流のエンジニアなら、スマートに、ロジカルに、そして完膚なきまでに叩き潰す。


窓の外では、大阪の街が眠りについていた。

だが俺の夜は、まだ終わらない。

復讐という名のプロジェクトは、今、キックオフされたばかりなのだから。


パソコンのキーボードを叩く音が、静かな部屋に響き渡る。

タカタカ、ッターン。

そのリズムは、あいつらへのカウントダウンのように、正確に時を刻んでいった。

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