第一話 砂上の楼閣とスマートホーム
東京都港区。その一角にそびえ立つタワーマンションの最上階、四十五階にあるペントハウス。
眼下には、まるで宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。赤く連なるテールランプの川、ビル群の窓から漏れる無数の光、遠くに見える東京タワーの温かなオレンジ色。それらすべてを見下ろすこの場所は、誰もが羨む「成功者」の特等席だ。
俺、高杉翔は、リビングの大きな窓ガラスに手を突き、その景色をぼんやりと眺めていた。
二十一歳。本来なら就職活動に頭を悩ませる大学生であるはずの俺は、在学中に立ち上げたAIアルゴリズム開発のベンチャー企業が当たり、今や億単位の資産を動かす立場になっていた。
「翔くん、まだ起きてるの?」
背後から、甘い声が聞こえた。
振り返ると、シルクのパジャマに身を包んだ恋人、相原玲奈が寝室のドアに寄りかかっている。少し乱れた茶色のロングヘア、あどけなさが残る大きな瞳。彼女は俺の大学の同級生であり、会社が軌道に乗る前から付き合っている大切なパートナーだ。
「ごめん、起こしちゃったかな。明日の準備をしてたら、目が冴えちゃって」
「ううん、私が寂しくなって起きちゃっただけ。……明日から一週間もいないんでしょ? 翔くんがいなくなると、この部屋、広すぎて怖いんだもん」
玲奈はとてとてと歩み寄ると、俺の胸に顔を埋めてきた。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐる。
俺は彼女の細い肩を抱き寄せ、髪を優しく撫でた。
「悪いな。今回の大阪出張はどうしても外せないんだ。新規の大口クライアントとのシステム統合テストがあるから、俺が現場に行かないといけない」
「社長さんなのに、現場に出なきゃいけないなんて大変だね」
「まだ小さな会社だからな。それに、俺が作ったコードの最終確認は、やっぱり自分の目でしたいんだよ」
俺の言葉に、玲奈は「ふーん」と興味なさそうに相槌を打つと、上目遣いで俺を見つめた。
「でもぉ、一週間だよ? 私、干からびちゃうかも」
「大袈裟だなあ。……ああ、そうだ」
俺はサイドテーブルに置いてあった財布から、一枚のクレジットカードを取り出した。漆黒の券面にプラチナの文字が輝く、限度額無制限のブラックカードだ。
「これ、渡しておくよ。俺がいない間、美味しいものでも食べて、気晴らししててくれ。友達とショッピングに行ってもいいし」
「えっ、いいの!? でも、悪いよぉ……」
玲奈は口では遠慮しながらも、その視線はカードに釘付けになっていた。俺は苦笑しながら、そのカードを彼女の手に握らせる。
「いいんだよ。玲奈にはいつも迷惑かけてるし、感謝してるんだ。俺が仕事に集中できるのは、玲奈が家を守ってくれてるおかげだからさ」
「翔くん……大好き! ありがとう、大事に使うね!」
玲奈は弾けるような笑顔を見せ、俺の頬にキスをした。
その無邪気な笑顔を見ていると、仕事の疲れも吹き飛ぶような気がした。彼女は俺にとっての癒やしであり、守るべき存在だ。
学生時代、まだ何も持っていなかった俺の隣にいてくれた彼女。だからこそ、成功した今は、何不自由ない生活をさせてやりたいと思っている。
「じゃあ、もう寝ようか。明日は早いし」
「うんっ。おやすみなさい、翔くん」
玲奈はカードを大切そうにパジャマのポケットに入れ、俺の手を引いて寝室へと向かう。
その時の俺は、微塵も疑っていなかった。
彼女の笑顔の裏にある、底なしの空虚さと、どす黒い欲望の存在を。
翌朝、俺は早朝の澄んだ空気の中、身支度を整えた。
オーダーメイドのスーツに袖を通し、キャリーケースを引いて玄関に向かう。玲奈はまだ眠そうな目をこすりながら、玄関まで見送りに来てくれた。
「いってらっしゃい、翔くん。気をつけてね」
「ああ。行ってくる。何かあったらすぐに連絡してくれ」
「うん。仕事、頑張ってね」
玲奈に見送られ、俺はエレベーターホールへと向かった。
重厚な扉が閉まる瞬間まで、玲奈は手を振っていた。その姿が視界から消えると、俺はふぅと息を吐き、ビジネスモードへと意識を切り替える。
高速エレベーターで一階まで降りると、エントランス前の車寄せには既にハイヤーが待機していた。さらに、その後部座席のドアの横には、スーツ姿の女性が直立不動で待っている。
「おはようございます、高杉社長」
「おはよう、佐伯。そんなに堅苦しくしなくていいっていつも言ってるだろ」
彼女は佐伯沙織。俺の会社の共同創業者であり、チーフエンジニアを務める優秀なパートナーだ。黒髪を後ろで一つに束ね、理知的な瞳の奥に鋭い光を宿している。俺が技術のトップなら、彼女は実務と管理のトップだ。
「公私のけじめは重要です。特に、これから向かうのは重要な取引先ですから」
「はいはい、わかったよ。……で、システムの稼働状況は?」
「オールグリーンです。移動中に最終チェックを行いますが、昨夜のアップデートでバグフィックスは完了しています」
俺たちはハイヤーに乗り込み、新幹線の駅へと向かった。
車内でノートパソコンを開き、流れるような手つきでキーボードを叩く沙織。彼女の横顔を見ながら、俺はふと、先ほどの玲奈のことを思い出した。
沙織は以前から、玲奈との関係について少し懸念を示していたことがある。玲奈が俺の金や地位に依存しすぎているのではないか、と。
「……あのさ、佐伯」
「何でしょう」
「いや、今回の出張、急だったからさ。玲奈に変な心配させてないかなって」
沙織の手がピタリと止まった。彼女は一度だけ眼鏡の位置を直し、冷静な声で答える。
「相原さんのことですか。……社長がそう思うなら、連絡をまめに取ればいいのでは? ただ、彼女には十分すぎるほどの生活環境を提供しているはずです。これ以上、何を心配する必要があるのですか」
「そうなんだけどな。彼女、寂しがり屋だから」
「……寂しさを埋めるのが、ブランド品やタワーマンションだというのなら、随分と高価な寂しさですね」
沙織の言葉には棘があった。彼女は玲奈のようなタイプ――努力せずに他人の成果に便乗する人間――が苦手なのだ。
俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「まあ、そう言うなよ。彼女なりに俺を支えてくれてるんだ」
「……社長がそう仰るなら、何も言いません。ですが、セキュリティチェックは怠らないでくださいね。この前のアップデートで、自宅のスマートホームシステムも最新版になっていますから」
「ああ、わかってるよ。俺が自分で組んだシステムだ。誤作動なんてありえない」
俺たちの自宅であるタワマンの部屋は、俺が開発した最新鋭のスマートホームシステムで管理されている。
玄関の入退室記録はもちろん、各部屋の温度、湿度、照度、電力消費量、さらには音声認識や動体検知カメラまで、あらゆるデータがクラウド上で管理され、俺のスマホからリアルタイムで確認できるようになっていた。
本来は市場に出す前の実証実験を兼ねているのだが、防犯という意味でもこれ以上のものはない。
「社長がいない一週間、何事もなければいいですが」
佐伯がぽつりと呟いたその言葉が、妙に耳に残った。
だが、その時の俺は、まさか「何事か」が起きるとは思ってもいなかったのだ。
***
翔が出て行ってから数分後。
重厚な玄関ドアのロックが掛かる音を確認すると、玲奈の表情から「健気な彼女」の色が抜け落ちた。
肩の力を抜き、大きなあくびを一つ。
「あーあ、やっと行った。……長かったぁ」
彼女はだらしない足取りでリビングに戻ると、高級なイタリア製ソファに身を投げ出した。
広すぎるリビング。天井まで届くハイサッシの窓。そこから差し込む朝の光が、彼女の乱れたパジャマ姿を照らす。
「一週間かぁ。翔くん、真面目だから連絡とかウザそうだけど……ま、適当に返信しておけばいっか」
玲奈はポケットから、先ほど翔から受け取ったブラックカードを取り出した。
指先でその冷たい感触を楽しみながら、うっとりとした表情を浮かべる。
「限度額無制限……ふふっ、最高。これさえあれば、新作のバッグも、エステも、何でも思い通りだもんね」
彼女にとって、翔は「優しい彼氏」であると同時に、「魔法の杖」でもあった。
大学に入った頃は地味で目立たないオタク男子だった翔。それが起業して成功し、あれよあれよという間にタワマン住まいの社長になった。最初は戸惑ったが、今ではこの生活が当たり前になっている。
むしろ、翔が成功したのは、自分がそばにいて支えたからだという自負さえあった。だから、この富を享受するのは当然の権利なのだ。
「でもさぁ……お金があっても、翔くんてば忙しすぎなんだよね。全然相手してくれないし」
玲奈はスマホを取り出し、SNSアプリを開いた。
フォロワー数五万人を超える彼女のアカウントには、日々のきらびやかな生活が投稿されている。昨夜のディナーの写真、翔に買ってもらったジュエリー、タワマンからの夜景。
コメント欄には、「玲奈ちゃん羨ましい!」「彼氏さん素敵すぎ」「人生勝ち組だね」といった称賛の言葉が並ぶ。
それらを見て優越感に浸るのが、玲奈の日課だった。
だが、心のどこかにある空虚感は埋まらない。
翔は優しいけれど、どこか理屈っぽくて、刺激が足りない。もっとこう、男として強引に求められたい。チヤホヤされたい。
そんな欲求が、ふつふつと湧き上がってくる。
「……あ、そうだ」
玲奈はふと思いつき、メッセージアプリの連絡先リストをスクロールした。
指が止まったのは、「ダイスケ」という名前のところだ。
彼は他大学のイベントサークルの代表をしている男で、以前クラブで知り合った。長身で、モデルのように整った顔立ち。少し危険な香りがするタイプだ。
翔とは正反対の、遊び慣れた男。
何度か誘われたことがあるが、これまでは「彼氏がいるから」と断っていた。
でも、今は翔がいない。一週間も。
広いタワマンに一人きり。
寂しさを埋めるくらいいいじゃない。翔くんだって、仕事で私の相手ができないんだから、お互い様だよね。
そう自分に言い訳をすると、玲奈の指は軽やかにメッセージを打ち込み始めた。
『ねえ、今ひま?』
送信して数秒も経たないうちに、既読がつく。
『おっ、玲奈ちゃんじゃん。珍しいね。暇だよ』
『彼氏、出張で一週間いないんだー。寂しくてさ』
『マジ? それって、俺にチャンス到来ってこと?』
『ふふ、どうかなー。でも、タワマンからの景色、すっごく綺麗だよ? 見に来ない?』
挑発的なメッセージを送ると、すぐに返信が来た。
『行く。絶対行く。場所送って』
『わかった。エントランスに着いたら連絡してね』
玲奈はスマホを胸に抱き、高揚感に震えた。
背徳感とスリル。それが彼女の体を熱くさせる。
翔には悪いけど、減るもんじゃないし。バレなきゃいいのよ、バレなきゃ。
彼女は弾むような足取りでバスルームへと向かった。
ジャグジーにお湯を張り、最高級のバスオイルを垂らす。これから来る「刺激的な時間」のために、自分を磨き上げなければならない。
クローゼットの奥にしまってある、翔の前では着ないような大胆なランジェリーを選びながら、玲奈は鼻歌を歌った。
この部屋の主が、遠く離れた場所からでも全てを見通せる目を持っていることなど、知る由もなく。
***
新大阪駅に到着した俺と佐伯は、そのままタクシーでクライアントの本社へと向かった。
初日のミーティングは、システムの導入スケジュールの最終確認と、現場担当者へのヒアリングだ。
張り詰めた空気の中、数時間に及ぶ会議を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「お疲れ様でした、高杉社長。初日にしては上々の滑り出しですね」
「ああ、先方の反応も悪くなかった。佐伯の資料のおかげだよ」
ホテルにチェックインし、それぞれの部屋に入った後、俺はネクタイを緩めてベッドに腰を下ろした。
心地よい疲労感がある。
ふと、スマホを手に取る。玲奈からメッセージが来ていた。
『翔くん、お仕事お疲れ様! 大阪はどう? ご飯ちゃんと食べてね♡ 私は今日は早めにお風呂入って、もう寝ちゃうね。寂しいけど我慢する!』
可愛らしいスタンプと共に送られてきたメッセージ。
俺は自然と頬が緩むのを感じた。健気だな、あいつ。
俺も返信を打とうとする。
『ありがとう。こっちも無事に終わったよ。玲奈もゆっくり休んでな』
送信ボタンを押した後、俺は習慣のように「Home OS」――俺が開発したスマートホーム管理アプリのアイコンをタップした。
これはもはや癖のようなものだ。サーバーのログを確認するのと同じ感覚で、家の状態をチェックする。
画面には、リビング、寝室、キッチンの現在のステータスが表示される。
温度二十四度、湿度五十パーセント。快適な環境だ。
電力消費グラフを見る。一時間ほど前にバスルームの給湯器が稼働し、その後ドライヤーが使われた形跡がある。
「早めにお風呂入って」という玲奈の言葉通りだ。
「……ん?」
俺は画面の一部に違和感を覚えた。
玄関の「ゲスト入館予定」のログ。
本来、俺か玲奈の承認がなければ、コンシェルジュデスク経由でもゲストは入れない。
だが、そこには一時間前に「ゲスト一名、入館許可」のログが残っていた。
許可を出したのは、玲奈のスマートフォンID。
「宅配便か何かか……? いや、この時間はフロント預かりになるはずだ」
胸の奥で、小さな黒い染みが広がるような感覚があった。
俺は「カメラ」のタブを開こうとして、指を止めた。
プライバシーの侵害だ。いくら自分が作ったシステムとはいえ、彼女を監視するような真似はしたくない。信じると決めたじゃないか。
だが、技術者としての直感が警鐘を鳴らしている。
ログは嘘をつかない。
もし、ただの友達なら、なぜ「もう寝る」と嘘をついた?
「……確認だけ、な」
自分に言い訳をするように呟き、俺は「リビング」のカメラ映像にアクセスした。
回線が繋がり、スマホの画面に高精細な映像が映し出される。
そこには、見慣れたリビングが広がっていた。
間接照明だけが灯された、ムーディーな空間。
ローテーブルの上には、俺がコレクションしていた高級ワインが開けられ、二つのグラスが置かれている。
そして、ソファの上。
バスローブ姿の玲奈が、見知らぬ男の膝の上に乗り、妖艶な笑みを浮かべていた。
「嘘だろ……」
男は茶髪で、チャラついた格好をしている。俺が最も苦手とするタイプの手合いだ。
男の手が玲奈の腰を這い、玲奈はそれを拒むどころか、自ら男の首に腕を回している。
『へぇ、これが若手社長サマの部屋? すっげー、マジで成功者って感じ』
高性能な集音マイクが、男の声をクリアに拾った。
『でしょー? 翔くん、こういうのこだわってるからさ。でも、本人はダサいしつまんない男なんだよねー』
玲奈の声だ。
俺に向けられる甘い声とは違う、どこか嘲るような響き。
『いいの? そんなこと言って。このワインとか高そうじゃん』
『いいのいいの! どうせ翔くんの金だもん。あいつ、私がいないとダメだから、何しても怒らないのよ。チョロいもんだわ』
ケラケラと笑う玲奈。
俺の頭の中が真っ白になった。
信じていた言葉、笑顔、温もり。それら全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
チョロい? つまんない男? 金だけ?
俺は、お前にとってその程度の存在だったのか。
『じゃあさ、そのチョロい彼氏のベッドで、俺とイイことしちゃう?』
『んふふ、ダイスケくん、いじわるぅ。……しちゃう』
二人は口づけを交わし、もつれ合うようにして寝室の方へと消えていった。
画面には、誰もいないリビングと、飲みかけのワインだけが残された。
俺は震える手で、録画ボタンを停止……いや、継続させた。
怒りでスマホを握り潰しそうになるのを、必死で堪える。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
熱いものがこみ上げてくるが、それ以上に、冷たく鋭い「何か」が脳内を支配していくのを感じた。
「……佐伯」
俺は震える指で、佐伯に電話をかけた。
深夜にも関わらず、ワンコールで繋がる。
『はい、高杉です。どうされました? 緊急のトラブルですか?』
冷静沈着な彼女の声を聞いて、少しだけ理性が戻ってくる。
俺は深呼吸をして、できるだけ平坦な声で告げた。
「トラブルだ。……システムじゃなくて、俺の人生のな」
『……はい?』
「今から、家のセキュリティログとカメラ映像の全データを、外部サーバーにバックアップしてくれ。最高レベルの暗号化をかけて、誰にも削除できないように」
電話の向こうで、佐伯が息を呑む気配がした。彼女は聡明だ。俺が何を言わんとしているか、瞬時に察したのだろう。
『……承知いたしました。相原さん、ですね?』
『ああ。……クロだったよ。真っ黒だ』
俺は吐き捨てるように言った。
「佐伯、悪いが明日のスケジュール、午前中は空けておいてくれ。少し……整理しなきゃいけないことができた」
『わかりました。データ保全は直ちに実行します。……社長、大丈夫ですか?』
「大丈夫じゃないさ。でも……」
俺はスマホの画面に映る、無人のリビングを見つめた。
そこは俺の城だ。俺が汗水垂らして築き上げた場所だ。
それを土足で踏み荒らす寄生虫どもを、このまま野放しにしておくわけにはいかない。
「泣き寝入りはしない。徹底的にやる。……俺の家で何をしたか、骨の髄まで後悔させてやる」
俺の声は、自分でも驚くほど冷え切っていた。
大阪の夜景が、妙に冷たく、そして鋭く光って見えた。
復讐のアルゴリズムが、俺の中で静かに起動した瞬間だった。




