「虐待は連鎖する」という言葉で、すべては説明できない
児童虐待の話題になると、必ずと言っていいほど聞かされる言葉がある。
「その親も、かつて虐待を受けてきたのだ」。
確かに、虐待が世代を超えて連鎖するケースは存在する。否定はできない。しかし、そこで思考を止めてしまっていいのだろうか。すべての虐待は、本当にそれだけで説明がつくのだろうか。
世の中には、厳しい家庭環境や暴力の中で育ちながらも、「自分は同じことをしない」と必死に踏みとどまって生きている人間がいる。苦しみを知っているからこそ、子どもに同じ痛みを与えまいとする人もいる。もし「虐待されたから虐待する」が絶対の因果関係であるなら、彼らの存在はどう説明されるのか。
虐待を「過去の被害」の一言で包み込み、理解という名の免罪符を与えてしまうことは、あまりにも安易だ。虐待は選択の結果でもある。怒りをぶつけるか、助けを求めるか、距離を取るか――どこかで人は選んでいる。その責任まで過去に押し付けてしまえば、被害を受けた子どもの痛みは、いったいどこに置かれるのだろう。
子どもにとって重要なのは、親の過去ではない。今、目の前で起きている暴力と恐怖だ。説明や同情が、子どもを守る盾になることはない。必要なのは原因探しよりも、まず止めること、引き離すこと、守ることだ。
「連鎖」という言葉は、理解の入口にはなっても、結論であってはならない。虐待は理解されるべき問題であると同時に、断ち切られるべき行為だ。過去を理由に、現在の加害を正当化してはならない。その線だけは、決して曖昧にしてはいけない。
「事情があった」「追い詰められていた」「助けがなかった」。
虐待した親を語るとき、必ず並べられる言葉だ。しかし、それらは子どもにとって一度でも救いになっただろうか。答えは、明確に否だ。
虐待はしつけではない。教育でもない。
それは力のない存在に向けられた一方的な暴力であり、犯罪である。にもかかわらず、「親だから」「血がつながっているから」という理由で、社会はどこか処罰をためらってきた。その甘さが、どれほど多くの子どもを見殺しにしてきたかを、私たちはもう知っているはずだ。
厳罰化が必要な理由の第一は、子どもの人生が一生壊されるからだ。
殴られた記憶、怒鳴られた声、怯えて眠った夜は、成長しても消えない。人を信じられない、自己肯定感が持てない、愛し方がわからない――虐待は、未来そのものを奪う行為だ。その代償が「反省しています」「カウンセリングを受けます」で済むとしたら、あまりにも釣り合わない。
第二に、厳罰は社会の明確な意思表示だからだ。
「子どもに手を上げることは、絶対に許されない」。
この線を曖昧にしてきた結果、虐待は家庭の中の“私事”として隠されてきた。重い罰を科すことは、復讐ではない。社会全体が、子どもの命と尊厳を最優先にするという宣言である。
第三に、再発を防ぐためだ。
「理解」と「更生」だけで、本当に止まるのか。現実は違う。虐待は繰り返されやすい。だからこそ、物理的にも心理的にも距離を置かせ、強制的な矯正と責任を負わせる必要がある。厳罰は、子どもを守るための防壁だ。
忘れてはならない。
虐待された子どもには「逃げる選択肢」がない。
通報できない。抵抗できない。家を出られない。
その圧倒的な不均衡の中で起きる行為だからこそ、社会が代わりに強く介入し、強く裁かなければならない。
親の事情を汲む前に、子どもの人生を見よ。
同情より先に、守るべきものがある。
厳罰化とは、冷酷さではない。
それは、子どもを人として扱うために必要な最低限の覚悟なのだ。




