緑色の羽根
「ほら、席に着きなさい。帰りの会始めますよ」
引き戸をガラガラと鳴らして入ってきたのは担任の青子だった。話し声が振動となって隣のクラスにまで響いていたであろう六年一組の喧騒が、一瞬で静まり返る。
「はい、じゃあこれから帰りの会を始めます。朝伝えたように、空調のリモコンが回収されたので、教室後ろのヒーターももう使いません。来週学校に来る時は各自体温管理に気を付けるように」
教室から示し合わせたようにええー、っと抗議の声が上がる。その後、周りのクラスメイトと愚痴を言い合う。水面に石を投げ込んだときの反応と形容できるそれは、青子にとっては慣れたことに違いなかった。彼女は教室のざわめきを諫めることなく、黙って教卓に両手を置く。そして、前のめりとなって教室中を見渡すのみだった。
すると生徒たちは徐々に担任が何も言わないことで違和感を覚えて徐々に静けさが広がっていく。それもまた、水面の反応と同じだった。
「私はいいですけど、あなたたちの放課後の自由時間が短くなるだけですからね」
わざとらしく息を吐き、青子は嫌味ったらしく口にする。
「はい、じゃあ来週月曜日は六年生を送る会で歌う歌の練習なので、楽譜を忘れずに持ってきてください。他のクラスの人から借りるのはダメですからね」
「なんで借りちゃいけないんですかー」
一人の生徒が声を上げる。
「決まりだからです。ああ、それと──」
担任が説明になっていない説明を述べた後、思い出したように机の上にそれを置いた。
「いつもは朝に集めてましたけど、今日の朝は時間がなかったので今から回収します。持ってきてる人は前に来てこの缶に入れてください」
担任が手に持っていた缶を教卓の上に置く。硬いもの同士がぶつかり合った、冷たく響く音が鳴った。
それは、募金を集めるための缶だった。元々は何かの土産物だったような、蓋つきの箱型。今週の頭に募金週間と担任に言われ、それから金曜日の今日までずっと朝の会で回収されたお金がその缶に入れられていた。募金に時間を取られるせいで一時間目の授業までの時間が短くなり、それに伴って友達と話す時間が減って不満に思っていた生徒もいたに違いない。
「はい」
「はい、武田さん。じゃあ、この缶に」
立ち上がって前に進む武田という女子生徒に向かって青子が缶を差し出す。指先から離されて缶の中に落ちた時の音は、硬貨同士がぶつかる澄んだ音ではなかった。金属の底に沈むように音が吸われる。募金額がどれほどかは想像に難くなかった。
「じゃあ羽根は昨日ここに置いたままにしてたから……って、あら?」
教卓から一度離れ、先生の机のところへ歩み寄ったところで、青子が声を上げた。教室中の注目が集まる。奥に立つ生徒は椅子から立ってまでして前方に視線を向けた。
担任が手に持っていたのは、緑色の羽根が留められていた用紙だった。
「少ない……昨日の朝はまだ結構あったのに」
緑の羽根は、募金をした時に額に関係なく一枚もらえるというものだった。画用紙にセロハンテープで留められていた羽根は、昨日までは五十枚ほどがあったはずだ。しかし、今では多く見積もっても十に色を添えた程度と思われた。
「持っていった人、誰ですか」
普段の声色からは考えられないくぐもった低い声で生徒たちが問いかけられる。答える人は誰もいなかった。
青子は誰かがくすねたことを第一に考えているようだった。そう考えるのは無理もなく、集金の時の人の集まり様からしてクラスの一人ひとりが募金をしてからもらっていくという正当な手順を踏んで持っていったとは考えにくい。誰かが募金をしていないのに羽根だけ持っていったことは確実だった。
すると、一人だけ声を上げた生徒がいた。それはクラスの中で理屈っぽいと囁かれている野口という生徒だった。
「先生、誰がやったかは分からないですけど、別にいいんじゃないですか。募金が十円とかなら、それくらいの価値ってことですよね? それに、どうせその羽余ってたでしょ?」
「そういうことじゃないの」
担任の声には震えが滲んでいた。
「いい? 募金したら羽根がもらえる、っていうのはルールなの。破っちゃいけないの。私はそのことに対して怒ってる。いい?」
はあ、と野口が間の抜けた返事をする。担任の怒りに薪をくべる言動に、他の生徒たちは内心冷や冷やしていた。これ以上彼女が怒り心頭となったら手が付けられない。誰もがそう思っていた。
彼女は普段から薄っすらと嫌われている教師だった。言葉尻を捕らえるような物言いは当たり前。すでにそれで完成している料理に調味料をかけるように、嫌味を織り交ぜる言い草。そして、さらにひどいのは彼女が怒って手を付けられなくなった時だ。
高学年に足を掛けた五年生の時、青子が担任を受け持つクラスで言い合いが始まった。当人の間では手を出した喧嘩には発展しない単なる言い争いの認識のようで、どんなに言葉が粗暴で侮蔑であっても、手を伸ばしたり足を踏みだしたりといったことはなかった。しかし、青子は一目その様子を見ると、血相を変えて叫んだのだった。
ただし、それは喧嘩を諫めることを目的にした言葉ではなかった。
「やめてやめて! そんな大きな声出さないで!」
二人の間に割って入るわけでもなく、他の教師に助けを求めるでもない。
ただ自分の耳に入らなければそれでいいというように、青子は声を荒げて耳を抑えたのだった。
暴言を交わしていた二人は、もちろん本気の喧嘩などするつもりもなかったので注意されたこと自体驚きなのだが、それ以上に担任の対応の酷さに呆れかえってしまった。周りもお遊びとは理解した上でヤジを飛ばすなど楽しんでいたので一気に場が白けてしまった。
その様子を見ていた他クラスの生徒は、青子が担任となったクラスをお守りクラスと裏で呼ぶようになっていた。
そのような出来事があったことで、生徒たちは彼女の怒りが爆発して手に追えなくなってしまう危険性を理解していた。そこに一歩近づかせた野口が白い目で見られるというのも無理ない話だった。
「あの」
次に発言したのは、さらに畳みかけるように言葉を並べようとした野口ではなかった。さすがに担任の剣幕に押し負かされたのか、不機嫌な顔をして黙りこくっている。また、担任の青子でもない。彼女は呼吸を整えるのに必死のようだ。
その声は、川島だった。学級委員というものがここの小学校には存在しないが、あったらまず間違いなく男女一組のうち女子側を川島が担当すると思われる生徒だった。運動神経もよく、勉強もそつなくこなす。他の先生からも何かと頼られている場面を見てきた生徒も多くいた。それと同時に、彼女なら担任の暴走も止められるのではないか。そう期待する人もいるだろう。
「募金箱に入ってる硬貨から逆算して、皆が募金したから持っていったっていうことはないですか?」
凛とした声で川島が言う。
彼女もそれほど募金に熱心な人がこのクラスに多くいるとは思っていないだろう。ただ、そう理由付けすることで、とりあえずこの場を収められると考えていたに違いない。周りの生徒は思っていた。
「あのね、川島さん」
面倒くさそうに担任が画用紙を上から覗き込むようにして俯けていた頭をもたげて応じる。川島はぞくっと体温がクロス引きのように下がるのを感じた。怒られる前兆のような、嫌な予感だった。
「私も日々の業務に追われてるから暇じゃないの。だから、いちいち誰がどの金額を募金したかは覚えてないわけ。それに、募金するなら絶対に硬貨一枚っていう決まりがあるわけじゃないの」
「でも、金額見てみれば何か分かるかも──」
「いいから」
担任がぴしゃりと一言冷たく突き放す。川島はすっかり縮んでしまって、後ろの席の女子生徒に肩を握られて着席した。普段真面目な生徒が怒られる様子はとてもいたたまれない。クラスがさらに重い空気となったのは間違いなかった。
すると、その空気感をまるで理解していないのか、担任は間の抜けた声を上げた。
「そうだ、それじゃあこれから荷物確認をしていきます」
クラスからどよめきが上がる。非難、抗議、文句。その声をものともせず、担任は教卓をドアの付近まで運んだ。喧騒は十秒と経たずに鎮火した。何を言っても無意味と子どもながら理解しているようだった。
「はい。では、荷物検査をして、羽根を持っていないと分かった人から帰っていいです。皆さんさようなら」
椅子まで持ってきて座り込んでしまった。その上、今日授業で生徒に解かせたテストを机から持ってきて採点まで始めた。
こうなれば彼女は譲歩することはない。そう思った生徒がランドセルを背負って続々と席を立ち始めた。
担任は生徒が来ると一度作業を止め、ランドセルを広げた。筆箱を開け、ファイルを取り出し、ノートをぱらぱらとめくった。それをじろじろと目玉を動かして羽根を探す。
「よし。はい、さようなら」
そして荷物の確認が終わると面白くなさそうに送り出す。
一人、また一人と席を立ち、教卓にランドセルを置いて中身を調べられていく。ある男子生徒はこれからクラブがあるから、その女子生徒はこれから通院で、と各々の事情で帰路についていった。
窓ガラスから差し込む日差しが冬の終わりを感じさせる。時計は十六時を指していた。
帰りの会が終わったのが十五時ほどなので、一時間ほどが経過した。
教室の中は一時間前と変わらず、静かな空間だった。もちろん犯人探しという重い空気の中だという理由もあるが、すでにクラスの半数以上が帰宅しているのだ。残りは十人足らずという具合で、内訳は男子六人、女子四人という比較的性別で二分された割合となった。
だが、そこには共通点があった。それは、全員がやんちゃなグループということだ。
沈黙した中ではあったが、青子が答案に顔を向けている時は身振り手振りで仲間内で犯人探しをしていた。
だが、いつも一緒につるむ彼ら彼女らは常に誰かの目に晒されており、羽根を取ったらすぐに分かる。それだけに、男女間でボディランゲージを駆使して犯人探しをしていた。
すると、徐に担任が顔を上げた。それに伴って生徒たちが向き直る。青子が答案用紙をトントンと教卓に立てて揃えた。特段怒っているようではないようで、その音はいたって静かだった。
すると、担任が口を開いた。
「小林君、来なさい」
「えっ?」
いきなり名を呼ばれ、驚いた声を小林という男子生徒が上げた。
「荷物検査。ほら」
「でも──」
「いいから。来なさい。先生もこれから職員室に戻ってやらなくちゃいけないことがいっぱいあるの。こんなことに時間を使うわけにはいかないから。ほら、早くしなさい」
担任が命令口調で言う。読み取れない表情に、催促の言葉。先ほどまでようやくほとぼりが冷めたかと仲間内で共有していたが、熱を絶やしてはいないようだった。
小林は残念そうに表情を歪ませ、ランドセルを肩にかけて重い足取りで教卓へ向かって行った。
担任は置かれたランドセルに手を伸ばし、中から教科書やノートを引きずり出した。
「あら? これ──」
青子が何かを見つけたようだった。小林がしまった、と言いたげに天井を仰いだ。残された生徒たちは腰を浮かせたり、椅子から立ったりして何があったかを確認しようとした。
「これ、なんで持ってきてるの?」
担任が胡乱気な視線を小林に向ける。手に持っていたのはゲーム機だった。
「学校に持ってきてもいいと思ってるの? ねえ」
「……はい」
小林は目線こそ担任に向けていたが、反抗的な態度は言葉に現れていた。
「いい? さっきも言ったけど、社会のルールは縛るためじゃなくて、あなたたちを守るためにあるの。これから中学、高校、大学まで行くってなった時に、最低限守っていれば何もありませんよ、っていうのがルールなの。そして、どんどん大きくなっていけばそのルールを守らない人は爪弾きに遭うの。分かる?」
「……」
押し黙ったままの小林に、担任は大きく溜め息を吐いた。
「このことは親御さんに連絡するから。はい、さようなら」
「はあっ?」
小林は数度言い返したが、担任はどこ吹く風と気にも留めなかった。ついに小林は諦め、ランドセルを背負って教室を後にした。彼の去り際、勢いに任せてドアを閉めた音が響いた。
「それじゃあ、ここに残ってる人たちも羽根を隠し持ってるってわけじゃなくて何か後ろめたいものがあるから来ないのかな」
教卓の上に肘を立て、指を組む担任。残りの生徒たちは次に誰が呼ばれるのかを宣告のように待ち受けていた。
次に呼ばれるのは誰か。担任の目線が揺れ動く。
「あのう──」
その時、申し訳なさげな声が聞こえた。それは、小林が八つ当たりで開けたドアが跳ね返ってきたことで空いた隙間からのものだった。
「何かあったんですか?」
声の主は、一つ下の学年のクラスを受け持っている阿部先生だった。決して若くはない男の先生だが、話のノリなんかも小学生の生徒と合うところが多く、人気の先生だ。
「いえ、私のクラスの生徒の誰かが募金した時にもらえる羽根を無断で持っていったらしくて。だからこうして誰なのかを今探してるところです」
青子がまくし立てる口調で説明をする。
「えっ、羽根ですか?」
阿部先生が聞き返した。
「はい。何か知ってるんですか?」
「ええ。だってそれ、あそこの六年生を送る会の装飾に使ってもいいものの山の上に重ねて置いてあったので、てっきり使っていいものかと」
え、と担任が言葉を漏らす。担任の目がぐいと見開かれたのが、横から見ても分かる生徒がいたほどだった。
「でも、先生たちのところで募金はなかったんですか? 募金の羽根だって気付きませんでしたか?」
食い入るように迫り、質問をもって責め立てる。だが、阿部先生は言葉に詰まるでもなく、淡々と言った。
「募金って本来先週までですよ。でも、先生のところだけ忙しかったみたいで来週まで、ってことになってたじゃないですか。職員会議で話してませんでしたか?」
青子は口を開けたはいいものの、何を言うかは前もって決めていなかったようだった。決められなかったのかもしれない。
すると、息を口から細く吐き出して阿部先生が言った。
「それに先生、募金は朝に集めないと、っていう決まりですよ。お金はトラブルのもとですから」
「は、い……」
力無く青子が応じる。
「まあでも、そういうことなら羽根のところだけ外して元に戻しますか? でも、先方へは集まったお金だけ送ればいいはずですし、このままでもいい気がしますけど。それに、今週で募金が終わりならもう羽根たちも使い道がなくなっちゃいますし」
「ああ、はい……羽根は装飾に使っても大丈夫ですので……」
阿部先生はそれじゃあ失礼しますね、と一言残して去っていった。
教室には様々な怒りが渦巻いていた。時間の浪費による怒り、担任の管理の甘さが招いた怒り、荷物確認の必要性に対する怒り。それらを口にはせずとも生徒たちは不満を顔に示し、担任からのその一言を待った。
「……ほら、あなたたちも帰りなさい。持ってきちゃいけない物の件は不問にしておくから」
誰かがはあっ、と大きく息を吐いた。
なによ、と言葉では強く出たようだが、態度がどこか弱々しい担任をそのままにして、後ろ側のドアから生徒たちは下駄箱に歩いて行った。
次の週。
六年生を送る会では、下級生お手製のバッジが一人ひとり渡された。円型に切り取った段ボールに、校章をあしらったバッジ。そこには、飛び出すように上に跳ねた緑の羽根が付いていた。
これを胸に着け、予め練習した歌を歌い、下級生からのメッセージを受け取る。
卒業式はまだ一か月は先で、中学校への入学も日数で換算すると遠く感じる。だが、先週の一件を通じて、六年一組の生徒たちは大人というものの内面を見た気がしていた。それを戒めとするか、未来像と捉えるかは大人となる最初の一羽ばたきだった。