朝雨、昼晴れ、夜曇り〜リリスの1日〜
朝、雨が降っていた。
寮の窓の外で、霧混じりの雨が塔の屋根を濡らしていた。灰色の雲が低く垂れ込め、魔法塔の尖端が霞んでいる。屋根の石畳に落ちる水音が、まるで眠気そのもののように、リリスの身体にじわじわとまとわりついてきた。
ベッドのなかで丸くなりながら、リリスは小さく息を吐いた。
(今日も行かなきゃいけないんだよね……)
時計魔具がカチカチと音を立てていた。七時を回ったばかり。起きる時間はとっくに過ぎているのに、体はちっとも動かなかった。
魔法学院での生活は、リリスにとって楽なものではなかった。
同じ寮の女の子たちは、貴族の娘か、名のある魔導師の家の子ばかりで、田舎の薬師の娘であるリリスには、ただ存在しているだけで浮いているように感じられた。みんなが当たり前のように使う高位魔法。何気なく交わされる古代語の詠唱。精霊と気軽に交わす会話。そんな中で、自分だけが取り残されているようで。
(私は、ここにいてもいいのかな……)
それでも、休むわけにはいかない。落第すれば、故郷に帰らなければならない。それだけは絶対に避けたかった。
「リリス、朝食よ。食堂に来なさい」
寮母の声が扉越しに聞こえた。魔法で通話することもできるのに、あえて声をかけてくれるのが、どこか温かい。
「……はーい」
リリスは重たい身体を起こして、ゆっくりとカーテンを引いた。
空は、灰色のままだった。
◇
校舎に向かう頃には、雨はほとんど止んでいた。
石畳の道は濡れていて、風はまだ少し冷たかったが、空の隅からほんのりと光が差し込みはじめていた。魔導塔の尖端がようやく見えはじめ、天の環と呼ばれる浮遊環が、淡い銀色に輝いている。
同じ寮の子たちは、虹のような傘魔具を開いて笑い合いながら歩いていた。リリスは、使い古された防水マントを羽織って、少し離れて後ろを歩いていた。
すれ違った下級生たちが、魔法で空に絵を描いていた。空に浮かぶ猫の幻影が、しっぽを揺らして踊っている。
リリスはふと、それを見て微笑んだ。
(ああいうの、私にもできたらな……)
猫はいい。自由で、魔力も持たず、好きなときに眠って、好きなときにどこかへ行く。
(猫に生まれてたら、楽だったかも)
けれど、そう思った自分を、すぐに否定する。
(猫にはなれないし……私には、私の魔法がある)
小さく息を吐いて、リリスは学院の門をくぐった。
◇
昼。
空はすっかり晴れていた。
中庭には、魔力で咲き誇る光草が揺れている。青空のもと、小さな風精霊が羽をきらめかせて飛び回っていた。
「今日、いい天気だね〜!」
同級生のフェリアが声をかけてきた。彼女は太陽のような笑顔を持っていて、学院の誰からも好かれている。
「うん、朝は雨だったのに、嘘みたい」
「リリス、授業終わったら、中庭で風魔法の練習しない? 私の詠唱、まだちょっと不安でさ〜」
リリスは驚いた。
(私に声を……?)
「え、えっと……私なんかでよければ」
「リリスって、言葉にするのは苦手かもだけど、魔力の質すごくいいよね。先生も言ってた。ほら、薬草魔法とか、調和系とか得意でしょ? 私、そういうの憧れる」
ぽんと肩を叩かれて、リリスは小さく笑った。
自分が「憧れられる」なんて思ったことがなかった。けれど、フェリアは真っ直ぐに言葉をくれる。その眩しさに戸惑いながらも、少しだけ勇気がわいた。
「……ありがと」
「うん! じゃあ、あとでね!」
そう言って去っていく後ろ姿を見送りながら、リリスは空を見上げた。
どこまでも青く澄んだ空が、学院の塔をくっきりと縁取っていた。
◇
放課後。
魔法実技の授業も終わり、生徒たちは寮や街へと散っていった。
リリスはひとり、裏庭の薬草園に向かっていた。そこは古い温室と、学院創設当時から続く薬草の畑が広がる静かな場所だった。
フェリアとは中庭で少し練習をした。風魔法をきれいに整える彼女の姿を見て、「自分もがんばろう」と思えた。
薬草園のベンチに腰をかけて、今日の出来事を思い返す。
(朝は、やっぱり少しつらかったけど……)
目を閉じれば、フェリアの笑顔と、空を飛ぶ幻影の猫が思い出された。
誰かと笑うことも、自分の魔法を褒めてもらうことも、悪くない。
そして、明日もまた、この学院で学ぶ理由が少しだけ増えた気がした。
そのとき。
ぽつん、と、額に一滴。
空を見上げると、雲がゆっくりと広がり始めていた。
昼の青空は、もうほとんど姿を消していた。
◇
夜。
雲が空を覆っていた。
寮の部屋で、リリスはカーテンを開けたまま、窓際に座っていた。外では風が少し吹いていて、雲の隙間から、時折、星の光がちらりと顔を覗かせる。
静かで、少しだけ寂しい夜。
けれど、心は不思議と落ち着いていた。
(明日は、どんな空かな)
きっとまた、朝は曇って、昼に晴れて、夜には雨が降るかもしれない。
でも、そのたびに心も少しずつ、変わっていける気がする。
魔法が教えてくれるのは、呪文や理論だけじゃない。
きっと、生き方も、心の使い方も。
そう思いながら、リリスはベッドにもぐりこんだ。
「……おやすみ、リリィ」
机の上に置かれた猫のぬいぐるみ魔具が、ふにゃっと返事をする。
それを最後に、リリスは静かに目を閉じた。