誰かの羨望
空は、晴れていました。一人では持て余すこの監獄で、私は今日も息をしていました。あぁ、あんなにも雲は自由に広がっているのに。世界の色はこんなにも鮮やかなのに。笑うことも悲しむことも、私は忘れてしまいました。
きっと穴が空いているのです、この心には。だからといって、別にそれを嘆くことはしません。でも、「普通」でないのはきっと駄目なこと。それならと、偶然屋敷で見つけた物を手に取りました。埃だらけで錆びついたこの刃。これで…穴を埋めてしまえば良い。
ー憎い?ー
ふいに誰かが囁きました。憎くないと言えば、嘘になります。いつのまにか握っていた刃が赤く染まっていました。忘れようとしていた苦しさを、突然思い出した。頭が焼けるように痛い。赤黒い感情が、知らない記憶と共に溢れて出てきた。
「ちが…わた、私のせいじゃない!」
ー本当は、満足なんてしてないでしょう?ー
アイツに恨まれた。あいつは私を道具としてしか見てなかった。あぁそうだ、あの人に置いていかれた。知らない誰かが私を捨てた。皆ミンな、アイしてクレなかった。
ーなら、壊してしまえばいい。ー
きっと だれも わたしなんて いらない。だから もう 縺翫o繧翫↓縺吶k繧薙□。
だ れ か …
その日の朝、私は深呼吸をしながらガーチェ邸へ向かった。ついにこの日が、カルシュトを迎えに行く日が来た。今日のために入念な準備を、そして十分な心構えをしてきた。
「やぁガーチェさん。随分と難しい顔をしているね。」
「レイニー。今更だけれど、私の諸事情に付き合ってくれて、感謝しているわ。」
するとレイニーはニッコリと笑い、木にもたれかかっている状態から体を起こした。
「うんうん、やっぱり謝るのはガーチェさんらしくないよ。いつもの調子に戻って安心した。じゃあ、ぼくはここで様子見してるから〜。」
レイニーはそう言いながら私にグッドサインを送った。きっと勇気づけてくれているのだろう。私は深く頷き、薄暗い日陰から塀を越えて敷地へ侵入した。次に足音を消して裏口から館に入る。
その後一階の広い廊下に出ると、何処かから誰かの足音が聞こえた。曲がり角で身を潜め、足音の数を確認する。
「(音は一人分…それと食器の音が聞こえるわ。恐らくメイドね。)」
時間がゆっくりに感じる。不思議と心は落ち着いていた。一歩一歩足音が近づき、ついに私の視界はメイドの横顔を捉えた。すかさず魔法で眠らせ、手に持っているトレイを回収する。
「(ハイド。)」
不可視の魔法をメイドにかけ、近くの部屋の床に寝かせた。そして、私は彼女の服と茶髪のウィッグを身に着けて部屋を出る。なるべく自然に、そして堂々と。レイニーによるとカルシュトの部屋は二階のあそこのままのようだ。急ぐとしよう。
無意識の内に足取りが早くなっていたのか、彼の部屋に着くまでにそれ程時間はかからなかった。胸に手を当てて気持ちを鎮める。そして、その手でドアをノックした。
「カルシュト様、お食事でございます。」
「…入ってください。」
ボソリと一言、確かに聞こえた。何年経っても変わらないその声に思わずドキッとしたが、構うものか。私は慎ましやかに部屋のドアを開けた。カルシュトは気の抜けた様子で窓の景色を眺めている。そこからゆっくりとこちらを振り返った。
「あ……。」
「カルシュト様。あの、どうかなさいましたか?」
部屋の隅にあったテーブルに食事を置き、何気なく部屋のドアを閉めた。カルシュトは一瞬だけ目を逸らすと、何事もなかったかのように話し始めた。
「いえ。ただ…お久しぶりです、姉さん。」
「…驚いたわ。こんなに早く悟られるなんて。」
それならもう彼の前で変装する必要はない。私は邪魔なウィッグを取り、折り畳んでいた髪の毛を下ろした。
「仕草を見れば、その人が誰かは予想がつきます。それで、ここへは何をしに?」
「…私は、貴方をガーチェ邸から連れ出しに来たのよ。」
「そう、ですか。」
心臓の鼓動が早くなるのを感じる。三年ぶりにきちんと顔を見ることができたその喜びは、私の中の様々な言葉を急き立てた。彼に言いたいことが沢山あったから。
「今まで辛い思いさせてごめんなさい。でもようやく準備ができたの、貴方もこんな所にずっと居たくないでしょう?もう一人にしないわ、大丈夫。貴方のためなら何だってするもの、これからはカルシュトが幸せに生きられるようにするから。だから、だから…ほらこの手を」
バッ!鋭い音が耳に届き、一瞬の出来事に思わず固まってしまった。私が手を伸ばすと、カルシュトはその手を力任せに振り払った。言葉が出てこず、ただカルシュトが口を開くのを待つだけだった。
「…今更何を。家を捨てて一人でのうのうと幸せそうに暮らしていた、貴方が…。」
「それを、償わせてほしいとは思っていないわ。でも信じて、私は貴方のために」
「だったらどうして私を置き去りにした!いつもいつも剣術のことばかりで、私をちゃんと見てくれなかった!姉さんだって、本当は私のことなんて…自分を肯定してくれる、都合のいい存在としか思ってなかったんだろ!?」
カルシュトの顔には孤独と憎悪が入り混じっているように見えた。彼がここまでありのままの感情を表に出したことがあっただろうか。いつも彼の言葉は嘘か本当かがわからなかった。しかしきっとこれは本心なのだろう。だからこそ、深く深く心を抉られた。
「違うに決まってるじゃない…。昔からそうだったわよね。私が何を言っても、貴方は作り笑いを浮かべて流して、本心では何も思っていないのに。それでもいつかは、って思って必死に歩み寄ろうとしたけれど、それすらも無視して!貴方こそ、私のことはどうとも思っていなかったのではないの?」
全て言い切ってからハッとした。いけない、言い過ぎてしまった。私が心の奥底でこんな事を思っていたことに、自分でも気が付かなかった。急いで訂正しようと思い彼を見ると、カルシュトもまた呆然としていた。
「は、ははは…それが本音なんですね。いえ、別に取り消してほしいわけではありませんよ。全て事実ですから。」
「ち、違うの。これは。」
「いつだって姉さんだけが皆に愛される。オリヴィア様も、私の母も、全部私のせいだと言う。ははっ…姉さん、私のために何でもしてくれるって言いましたよね。」
するとカルシュトは、今まで背中側にあった左手を私に向けた。そこには錆びついたナイフが握られていた。
「なら、私と共に死んでくれますか?」
「…貴方のためなら、喜んで命を差し出すわ。」
もう迷いはない。これからはカルシュトのために生きると、自分で決めたのだから。私はゆっくりとカルシュトの方へ歩み寄った。彼は何を言うのでもなく、私が近づいてくるのを待っている。部屋の窓のすぐ近くで、私達は向かい合った。暫しの沈黙の後、彼が左手を突き出す。最期を悟り、目を閉じた。
「(こんな最期も、悪くないかしらね。ごめんなさい、カルシュト。)」
しかし直ぐに異変に気がついた。ナイフで刺される筈なのに、痛みがない。不思議に思い目を開けると、彼の持つナイフは私の腹部に刺さる寸前で止まっていた。
「なんてね。知ってますよ、姉さんにはもう別の居場所がある。家名なんて無くても、幸せにしてくれる人がいる。」
「カルシュト…?」
「これからは私達は無関係です。姉さん…愛していました。」
その瞬間カルシュトは私の左側に回り込み、思わず彼の方へ体を向けた。開いた窓を背にしていた私を、彼はそのまま突き落とした。




